「今日はもう帰った方が良いんじゃないか?」
かなりの精神力を遣った実感があり、澪央も消耗しているように見える。まだ朝のHRも始まっていない時間だ。このまま休むのも有りではないかと思い、慧は帰宅を提案した。
「そうはいかないよ。行ける以上、授業にはちゃんと出ないと」
「真面目なんだな」
「そういうことじゃなくて……」
澪央は哀しそうに首を振り、俯いてしまう。遅ればせながら理解した。学校を休む行為に、恐怖を感じているのだと。
「一日くらい休んでも誰も気にしないと思うけどな」
欠席して関心を持たれるのは朝だけだが、それが「仕方ないね」になる時と反感を持たれる時があるのは知っていた。そこを、あえて軽い調子で言ってみる。
「蛙化現象って言葉知ってる?」
「……好きだった相手を何かの切っ掛けで嫌いになることだろ?」
元々はニュアンスが違うのだが、今は主にこの意味で使われている。
「そう。一日で誰からも相手にされなくなることだって、ある」
「まあ、分からなくもないけど……」
学校を休む行為というのは明確な『悪』だ。不在の間に同級生の態度が変わる何かがあるかもしれないと思う気持ちも分かる。たとえ正当な理由であっても、休んだ本人さえ罪悪感を覚えることがあるのだから。
「別に、皆勤を目指してるわけじゃないんだろ? 誰だって欠席することもあるし、大丈夫だよ」
だからこそ、休みたい時に休むというのが澪央にとっては大事な一歩に繋がるのではないか。実際、彼女は青白い顔をしていて、まだ気分が悪そうだった。
「それは……でも、病気じゃないのに休めないよ。私が登校しているのは誰かが見てて知ってる。何よりも、さっきの彼が知ってる」
その状態で欠席したら、不満を抱かれるだけではなく、告白を断ったことが原因ではないかと憶測を生む可能性もあるかもしれない、と澪央は言った。
「そうじゃなくても、私が学校を休むなんて誰も思ってない。『休んだ』というだけでもう事件なんだよ。それに……親にも連絡が行っちゃうから。両親を心配させたくない」
「椎名君の両親は、君視点だと良識のある優しい人だと思えたが」
アレクシスが口を挟むと、澪央は彼を睨みつける。
「だからよ。二人に悲しそうな顔はさせたくない」
「そういった思い遣りの類では無いだろう? 両親に嫌われたくない、がっかりされたくないだけで、他人に対するのと同じ動機だ」
「違うわ。私は両親を喜ばせたいの。心配をかけたくないの。子供として当然でしょ?」
反論する彼女の声に険がこもる。と同時に、慧の体に痛みが走った。
「それはそうだ。誰もが持っている感情だ。しかし、周りに失望されたくないというのも誰もが持っている感情でもある。君のは、それが極端に増幅しているわけだ」
「お、おい、アレクシス、ちょっと……」
アレクシスが長口舌をふるっている間にも、痛みは徐々に増していく。原因は明らかだが、二人とも慧には見向きもしていない。
「君は自らを守る為に、過剰に優等生を演じている。全て自分の為だ。両親を悲しませたくないというのも、二人を気遣っているのではなく、自分を守る為だ」
「……!」
全身に痛みが駆け巡る。アレクシスを止めようと、彼の肩に手を伸ばしかける。
「あ……」
息を乱す慧に、澪央はやっと気付いたようだ。怒りを宿していた目が、勢いを失っていく。彼女の視線を追って、アレクシスも「おっと」とこちらを見た。少しずつ痛みが薄れていく。しかし、体に残った疲労感から慧は座り込んだ。しゃがんだ澪央が背中を撫でてくれる。絞り出すような声がした。
「……勝手に人の心を覗き見ただけのくせに、何もかもお見通しみたいな顔しないで」
「な、なあ、椎名」
おやおやというように両手を広げるアレクシスを横目に、話し掛ける。
「ご両親は、椎名が完璧でいることを本当に望んでいるのか? そう言ってたのか?」
「言われたことは、無い、けど……」
「私が両親の本を読み、本心を確かめることも出来るぞ。いや、実の子なのだから椎名君が自分で読めばいい。どうする?」
笑みを浮かべ、アレクシスが問い掛ける。澪央は彼を見上げた。
「そんな、そんなこと、出来ないわよ。勝手に両親の心を覗くなんて……」
「なら、私が読んでやろう」
澪央の感情が、また高ぶりかける。ピリピリした痛みを感じて、声が漏れた。
「あっ……」
痛みが消えていく。彼女は一度、大きく息を吐いた。瞼を閉じ、しばらくしてからアレクシスにはっきりと告げる。
「あなたの力は借りたくない。そんなことするくらいなら、私が自分で訊くわ」
「そうか。では頑張るといい」
アレクシスがにやりと笑う。そこで予鈴が鳴った。澪央は顔を伏せて立ち上がり、無言で歩き出す。少しふらついているようだ。
「椎名」
HRの開始まであと五分しかないのは理解していた。それでも、呼び止めずにはいられなかった。
「もう俺達とは普通に話してるだろ? 同じようにはできないのか?」
澪央は「え?」と振り返った。全ての葛藤を忘れたかのような、素の表情をしている。
「そうだけど……それは……」
小さく首を傾げ、難しい謎掛けを前にしたような悩ましい顔になり、そのまま十数秒が経過する。
「……本音を知られて、もう失望される心配が無いから、だと思う」
それから、すぐに顔を歪ませる。
「……私に期待して、憧れを持っている皆に本音は話せないよ。こんなに醜い本音なんか……」
「椎名……」
醜い、という言葉を慧は訂正出来なかった。だが、人の本心は往々にして醜いもので、何も特別ではないとも思う。
「過度な期待をしてなくても、失望する時はある。そこは俺達も同じだよ」
何故か、声が冷たくなった。
「……!」
石をぶつけられたような衝撃を受けた様子で、澪央は後ずさって、踵を返して走り去っていく。アレクシスの呆れ声がする。
「せっかく『友達』になりかけていたのに、何故追い討ちを掛けるのか……」
「しょ、しょうがないだろ。言わずにいられなかったんだ」
口が勝手に開いていた。彼女は何も分かってない、と思ってしまった。
「まあ良い。私は観ているだけで深く関わるつもりは無いしな。さて、これから屋上に行く。慧はどうする?」
こちらを試すような調子で、アレクシスは笑みを浮かべている。まさか君も授業に出るのか? と問われている気がした。
「屋上に行くよ。一日くらいサボったって大したことじゃないからな」
――実際、慧が休んでも誰も気にしない。気にしてくれるような友は、誰も居ないのだ。
移動を始めながら、慧は先刻の自分の台詞を思い出す。
『過度な期待をしてなくても、失望する時はある』
――俺は何を考えていたのか。あれは、今の俺でも澪央に失望するかもしれない、という意味に他ならない。どうして、そんな気持ちを当人に向けてしまったのか。
(俺は、椎名に期待している?)
――そう。期待している。
――澪央が無理をしないで生きられるようになることを。
彼女自身が望んでなくても。
だから、態度を頑なにする彼女に、『がっかりしかけている』。
――そんな。
――そんな醜い自分勝手なことを、考えていたのだ。