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第2話 少女の『負』

「それは俺が訊くことだ。あんたは誰だ? どうしてこんな所に居るんだ? あと、そのペットボトルは何だ?」

 屋上の出入口から現れた白い空間に、終わりが無い本棚という現実らしさに欠けた場所に、彼は居た。

 寝具を黒で統一したベッドは非現実感に合っていないこともないが、ペットボトルがどうもミスマッチだ。雰囲気を守るなら黙っていた方が良いのだろうが、指摘せずにはいられなかった。

 男は、少し顔をしかめた。

「確かに、この空間に合うのはティーカップだろう。だが、ここには電気が通っていないからポットで湯を沸かすことはできない。ペットボトルを利用するしかない」

「カセットコンロを使えば沸かせるだろ」

「それはそれで場違いだろう。そもそも、私はここに誰かが来ることを想定していない。少なくとも、今迄に人が来たことはない。来るとしたら……人ではない者だ」

 男の、細い目が更に細くなる。直前までの間抜けな会話が無かったかのように空気が鋭くなり、慧は一歩後ずさった。

「に、人間だ。昼休みに屋上から戻ろうと思ったら、ここに繋がってたんだ。大体、あんたこそ人間か?」

 男は眉を僅かに動かし、下を向く。

「私は…………人間だ。多少特殊な役割を持っているだけの、人間だ」

 一段と声を低くして言うと、両手を組み合わせて膝の間に落として黙ってしまった。ややあって、顔を上げる。

「良いだろう。私の名はアレクシス。このキオク図書館の管理人をやっている」

「キオク図書館……」

「勝手にそう呼んでいるだけだがな。ここには人類全ての人生を記録した本が所蔵されている。君の名前は?」

「え、か、神谷 慧……」

「漢字は?」

 慧が教えると、アレクシスは立ち上がって本棚の間を歩き出した。

「そう遠くもないから歩いていくか」

 迷いなく進む彼を追いかけようとして、ベッドに置きっ放しになっている本が気になった。手に取ってみると、背表紙には「アレクシス・ファスティン」と書いてあった。個人の人生を記録した本という言葉を思い出し、開こうとする。

「ん?」

 本は固く閉ざされていた。本の形をしたオブジェのようだ。

「君にその本は読めないぞ。全ての本を閲覧可能なのは私だけだ」

 引き返してきたアレクシスが棚に寄り掛かって慧を見ている。「早く来い」と親指で背後を指す。本をベッドに置いて、今度こそ後に続く。

「先に言っておくが、あの本は私の本じゃない。ファーストネームが同じなだけの別人の本だ」

「そうなのか」

 同名人物の本を読んでいた理由は何だろうと考えていると、アレクシスが立ち止まる。

「ここだ」

 迷いなく一冊取り出す。装丁の色は青で、背表紙に『神谷 慧』と書いてある。

「何処に誰の本が在るのか覚えてるのか?」

「一般的にはその人の名前を知っていれば見つけられる。管理者の能力だ」

 金髪の男は、無造作に本を開いた。

「あっ……」

 静止する間も無く、彼は内容を読み上げていく。

「『友人が一人も居ない慧は、周りから浮かないようにいつも屋上で昼食を取っている』。友達が居ないのか」

「それがどうした」

 他者から言葉として聞かされると、恥ずかしさで顔が熱くなる。

「『椎名 澪央の近くを通った時に、強烈な負の感情を痛みとして受け、コンビニ袋を落とした』。昼食はコンビニか」

「そこはどうでもいいだろ!」

「負の感情を痛みとして受け、というのは何だ」

「俺の体質なんだ」

 慧は子供の頃からの能力について説明した。その間に、アレクシスは本の最終ページを読み終わったようだ。前の方もパラパラと流し見してから、こちらに差し出してくる。

「成程。嘘は言っていなかったようだな」

 受け取った本を開くと、慧の記憶通りの出来事が羅列されていた。忘れてしまいたいことも、全て。

 これは人の歴史書であり、勝手に綴られた日記やエッセイのようでもあった。ここまで詳細に記述されているのを読めば、アレクシスの話を信じざるを得ない。

 ここは確かに個人の人生――記憶が記録された本が並ぶ場所――キオク図書館なのだ。

「俺が生まれた時、親父も立ち会ってくれてたのか」

 出生の直後、母が「かわいい……」と言う隣で、父が「ああ、かわいいな」と応えている。その後は「必ず、守る」と続いていた。

「だが、その本を読んでも君が図書館に招かれた理由が不明だな。確実なのは、君の意思とは関係無かったということだけだ」

「招かれた?」

「そうとしか考えられない。君――慧にとって必要だと判断したから、キオク図書館は道を開いた。ここに慧が求める物がある」

 慧は『神谷 慧』の本を再び開く。最終ページに答えが載っているかと思ったが、そんなことは無かった。

「俺が分かっていないのに、書いてある筈ないよな」

「まあ、ゆっくり考えろ」

 踵を返し、アレクシスは元の場所へと戻っていく。

「…………」

 慧は本を持ったまま立ち尽くした。自分は誰かの本を求めてここに招かれた。本を読み、“何か”の役に立てるのが俺の役割なのか。

「でも、一体『誰』の……」

 そう呟いた時、全身を貫く激しい痛みが甦った。椎名 澪央の心配顔が脳裏に浮かぶ。

「椎名、澪央」

 駆け出して、先を行くアレクシスの背に叫ぶように言う。

「椎名 澪央だ! 俺は彼女の『負』を知りたい」

「……それで、どうする?」

「それで……」

 体に異変が起きたかに見えた慧を、澪央は心配してくれた。とてつもなく、嬉しかった。だから、彼女の『負』の理由を知って、出来るならば。

「彼女を、助けたい」

「面白い」

 アレクシスは、右手にくすんだピンクの本を出現させた。

「椎名 澪央の本だ。ここから距離があったから取り寄せた。勝手に彼女の闇を覗き見る罪を犯しても、助けたいと思うんだな?」

 怖い程の真顔で訊かれ、慧は頷いた。

「では、この本を開けるか?」

 手渡された澪央の本を開こうとする。だが、全て接着されたみたいに微動だにしない。

「図書館の本を制限無く読めるのは私だけだ。部外者は自分の本と、極めて近しい者の本しか読めない。彼女にとって、慧は無関係な他人ということだ」

 理解してはいるが、はっきりと言われると歯噛みしてしまう。拳に力が入った。

「どうやら、私が読むしかないようだな」


 澪央は他人から否定された経験が無い。幼い頃から出来ないことはなく、常に褒められて生きてきた。誕生日が四月二日であり、皆のお姉さんであることから、いつの間にか集団のリーダーになっている。同じ学年でも早生まれの子とは一歳近くの差があり、学習面でも生活面でも世話をした。それを苦に感じていなかった。

 子供の澪央は、誰もに頼られ、認められるのが純粋に嬉しかった。

 そこに影が落ちてきたのは、小学二年の頃だった。

 最初に苦痛を覚えたのは、合唱会のピアノの担当になった時だ。とても難しい譜面だった。こんなの弾けない、と澪央は思った。

『椎名さんならこのくらい簡単にできるわよね』

 と先生は言った。

『澪央ちゃんの伴奏楽しみ!』

 とクラスメイトが言った。

『ごめんね、わたしにはむずかしすぎたの』

 と別のクラスメイトが言った。

 初めて、皆の期待が重荷になった。期待しているだけじゃない。澪央はこのくらい出来て当たり前だと思われている。

 だったら。

 モシ シッパイシタラ ドウナルノカ

 きっと皆、失望するだろう。こんなことも出来ないのかと、冷たい目を向けてくるだろう。

 それが怖くて、必死になってピアノの練習をした。頑張らないと出来ないと両親に思われたくなくて、顔に笑顔を貼り付けて練習していた。

 ――テストは殆ど満点だった。たまにケアレスミスをして数点落とすと、誰もが慰めてくれた。

『惜しかったね。今度は満点取れるよ』

『澪央ちゃんがミスなんて珍しいね。まあそんな時もあるよ。気にしないでいいよ』

 私はずっと満点じゃないといけないんだ。一問も間違えちゃいけないんだ。悪い点を取るのは、有り得ないことなんだと思った。

 男の子からよく告白されるようになった。バレンタインに誰にもチョコをあげていないのに、ホワイトデーに沢山のプレゼントを貰った。後日、お返しを全員に配った。あえて皆を集めて配り、特別な個人はいないのだという振る舞いをした。

 この時は大丈夫だった。皆のアイドルだからと納得された。

 だが、徐々に個別の告白が増えてきた。ごめんなさいと言う度に、期待に輝く男の子の表情に失望が広がる。罪悪感と、してはいけないことをしたという絶望と恐怖から、強い吐き気や心身の不調を来すようになった。


 キオク図書館でアレクシスの朗読を聞いた慧は、優等生が優等生で居ることを苦痛に感じることがあるのかと驚いていた。だが、確かに合点がいく。

「それが、椎名の『負』か……」

「そのようだな。何でも出来る弊害で、『何でも出来て当然』になってしまった。その期待を裏切るのは周囲への裏切りであり、失望され、拒絶されるのが恐ろしい。その考えが極限まで高まったのが今の彼女だ」


 アレクシスは本を読み続ける。

 今や、普段の仕草、試験の一問一答、撮影時の表情、ただ歩く一歩一歩まで、澪央にとっては綱渡りのようだ。苦痛で仕方が無いのに、止められない。理想のアイドル像まで研究して取り入れて、一分の隙も無く輝けるように。

 本の後半には、慧との屋上での遣り取りもあった。

『ねえ、本当に大丈夫?』

 声を掛けたのは、この場面ではこの行動が正解だと考えたから。

『あ、ああ。大丈夫だ』

 大丈夫なら、保健室まで付き添うと言うのもお節介過ぎて迷惑がられるかもしれない。邪魔そうな顔をされたらどうしよう。

『そう? 心臓とかなら大変だから……私達はもう戻るけど、体調悪いなら保健室行ってね』

 屋上から降りる階段で、女子二人が待っている。

『澪央ちゃん、さっきの人の様子見てきたの? やっぱり澪央ちゃんは優しいね!』

『さすがだね、同じ学校でも、知らない人には話しかけにくいのに』

 女子二人は澪央の対応を褒めてくれた。理想の行動が取れて良かったと思ったその後は、もう慧の顔を忘れていた。


 読み終わると、アレクシスは本を閉じて「だそうだ」と言った。

「彼女にとっては心配するという素振りが大事だっただけで、慧を心から心配してはいなかった。それでも、助けたいと思うか?」

「…………助けるさ」

 苦虫を嚙み潰したような表情で、慧は答えた。『失望した』のは確かで。これ以上関わらなければ、澪央が彼の失望を知ることはない。

 だが、自分は彼女の本の内容を知ってしまった。心を覗き見てしまったのだ。

(俺が椎名を見捨てちまったら、多分……)

 また、激しい痛みを思い出す。

 彼女は近いうちに壊れてしまうだろう。

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