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――お前と一緒に居ると安心するよ。母さんと同じだな。慧は純粋だ――
和室の壁際に、黒檀の仏壇が置かれている。そこに立ててある両親の写真に、神谷 慧は手を合わせた。二人がこの世を去ったのは彼が五歳の時だったが、記憶は薄れることなく残っている。あの頃に注がれた愛情が、今の生活の支えだ。
「行ってくる」
目を開けて、鞄を持って立ち上がる。障子戸を開けた先には、薄暗い空間が広がっていた。中央にはアンティーク調のテーブルと革張りのソファがあり、周囲には様々な人形が所狭しと飾られている。床から天井まで、棚を利用して限界まで並べてあった。
人形達の間を真っ直ぐに通り抜け、上部に硝子の嵌った両開きの扉を開けて外に出る。早朝の澄んだ空気の中で振り返ると、扉の上には『神谷ドール』と書かれた看板があった。
慧は両親からこの店を受け継いでいるが、二人が制作した人形はもう残っていない。陳列されている物は全て自分で作ったものだ。
扉に鍵を掛け、窓越しに目が合った赤髪の人形に微笑みかける。睫毛の長い、見開いた瞳が可愛らしい。
『あいつ、気味の悪い人形を作ってるんだぜ』
『夜な夜な動き出すらしいよ』
中学生の頃、店を再開した頃に同級生が喧伝していた。自席に座ってそれを聞きながら、本当に動き出せばいいのにと思っていた。人形達は動かないし、怒りも哀しみも感じない。
喜びや楽しみは、感じようがないのだけれど。
自転車に乗って高校に向かう。校舎が近付いてくるにつれ、制服姿が目立ってくる。都立栞高等学校の正式な制服は、グレーのブレザーに赤ラインの入ったベスト、青のチェックのプリーツスカート及びズボンだ。ネクタイの指定はないが、自前の物を着けるのは自由だった。ベストやそれに類する上着に関しても義務ではなく、好きなデザインを着用してもいい。高校二年生の慧は、白いシャツの上に水色のⅤネックセーターを着ていた。季節は秋であり、セーターくらいが丁度良い。
校門を通過し、自転車置き場に来ると、一息つく。心からほっとして、体から力が抜けた。
(今日もチクチクするな……)
子供の頃から、慧には特殊な能力があった。他人の負の感情を実際の痛みとして受け取ってしまうのだ。電気に触れた時のような痛みに近い。通学路且つ、自転車の速度での移動であってもチクチクとした痛みをあちこちに感じた。能力は制御できない為、いつ発動してもおかしくない。
皆、ストレスを抱えている。
部活に勉強、人間関係等、生徒達の悩みは尽きない。
思考内容までは読めないが、小さい頃からの経験から解る。宿題が終わってないとか、少し頭が痛いとか、夜更かしして寝不足だとか、その類には反応しない。それでも、これだけの『負』を発しているのが現代の学生だ。
溜息と共に、歩き出す。校舎に入り、廊下を歩く。誰かとすれ違う度に、感情の波に飲み込まれる。
痛みに耐えながら二年A組の教室に入り、無言のまま自席に座る。同級生達が話しかけてくることはないが、無関心から来る無反応であり、そこに故意はない。だからと言って気分は良くないが、これは慧が他人と関わるのを避けた結果であり、教室自体は嫌いではなかった。
ドアを開けた瞬間の全員が思考停止した空白時間も、大半が勉強のことしか考えていない授業の時間も。
「今度の文化祭、何やりたい?」
「やっぱり食べ物系じゃないかな」
「アトラクション系も良くない? お化け屋敷とか」
斜め後方の空気が悪くなり、肩の辺りが若干ピリピリする。人の感情は、簡単に負に転がるのだ。
机に突っ伏してたぬき寝入りを決め込むことにした。目を閉じると、子供の頃の記憶が蘇ってくる。
――痛いよー、痛いよー!
小学生くらいの男の子――慧が泣いている。引き取ってくれた母方の叔母が、優しく声を掛けてくる。
――どうしたの? ケガしちゃったの?
――あのね、さっき通った人がね、すごく怒ってたの。そしたら、かみなりが落ちてきたの。
――え、何かしたの? 怒られたの? 謝った?
――ぼくは何もしてないよ。怒ってたり困ってたりする人が近くを通ると、体が痛くなるんだよ。痛いよー。
――何を……言ってるの?
――また痛くなってきたよ。痛いよー。
――構ってほしくて嘘をついてるのかしら。それにしても変な嘘ね。
その後も、体が痛くなると保護者になってくれた親戚に説明した。虚言だと思われたことに傷つき、そうではないと証明したかった。だが、能力の話をする程に、大人との距離は開いていった。
中学生になり、明らかに忌避されるようになった時、実家に戻って一人で暮らすことにした。そう報告した日から、親戚の家で『負』を感じなくなった――
昼休みになり、登校途中で買ったコンビニ食を持って屋上に行く。天気が良く、暑くも寒くもない気持ちの良い気温で、ちらほらと食事中の小集団が見える。
「
「自分で作ってるんでしょ?」
「うん。お料理は好きだから! メニューを考えるのが楽しいの」
輝く笑顔で話しているのは、二年生の――否、学校のアイドルの椎名 澪央だ。茶色の長く、さらさらの髪。大きくてキラキラした瞳。街でスカウトされて読者モデルもしていて、それを鼻にかけることもない。誰にでも親切で笑顔を絶やさず、成績も常にトップという皆が憧れる少女だった。
毎日二人以上の男子に告白されているという噂もあり、学内にはファンクラブもあるらしい。
(料理もできるのか。凄いな)
慧も料理はするが、必要だからしているだけで上手ではないし、朝は面倒だから弁当は作らない。女子達に褒められるような弁当を毎日作るのは相当大変だろう。
(でも、何か……)
彼女をしっかりと見たのは初めてだったが、笑顔の中にどこか不自然さがあるように感じた。そう、まるで――
(人形みたい、だな……)
肌が綺麗すぎるとかそういうことではない。そこまではそもそも見えない。纏う雰囲気、表情が、偽物のようだと思ったのだ。
(まあいいや、飯食べよう)
澪央を見つけて、人形みたいだと感じるまで実際には数秒。
屋上にいる各小集団から見えない場所に行こうと歩き出し、澪央達の傍を通る。
「……っ!」
その時、全身に雷が落ちたような痛みに襲われた。声を出さなかったのは奇跡だっただろう。
「…………?」
ショックでコンビニ袋を落とした音で、澪央の目がこちらを向く。肩を強く跳ねさせて立ち尽くしたままの慧に、心配そうに話し掛けてくる。
「どうしたの? 大丈夫?」
彼女の声で我に返り、コンビニ袋を拾って振り返る。
「ああ、大丈夫。心配させたな」
ぎこちなく笑い、出入口の裏に回ってコンクリートに背をつけて座る。菓子パンの袋を開けていると、後ろから会話が聞こえてくる。
「どうしたんだろうねー」
「澪央ちゃんの近くでびくんってなったよね。可愛すぎてびっくりしちゃったのかな?」
「え、さすがにそれは無いんじゃないかな。体調が悪いなら心配だね」
「澪央ちゃん優しい! 天使!」
残念ながら、可愛すぎるとまでは思わなかったし、女の子として意識することも無かったなと慧は思う。
誰もが好きになるというのに見事に魅力を感じなかったのはどうしてだろう。
それに、経験したことのなかった最大の痛み――『負』の感情。明らかな『勝ち組』である彼女が、一体どんな『負』を抱えているのか。
「ねえ、本当に大丈夫?」
そんなことを考えていたら、いつの間にか澪央が近くまで来ていた。能力が発動しなかったようで、例の痛みは来ない。
「あ、ああ。大丈夫だ」
「そう? 心臓とかなら大変だから……私達はもう戻るけど、体調悪いなら保健室行ってね」
ニコッと笑って、澪央は扉を開けて階段を下りていった。屋上にはもう、誰も居ない。
「椎名澪央……」
あの子は、何かが変だ。笑顔はやはり人形みたいで、行動は理想的なのに言葉に薄っぺらさを感じる。
心はある。少なくとも、途轍もない『負』の感情は。
「彼女は……」
気になりながらも、教室に戻ろうと屋上の扉のノブを握る。その先には階段が――
「無い」
階段が、無かった。
白い空間だった。
白い本棚が、どこまでも並んでいている。果てが無いように、見える。
背後には青空が広がっている。足は屋上の灰色の床を踏んでいる。いつもと変わらない場所の前に、未知の空間が存在している。
「何だ、これ……」
何も考えられず、頭が空っぽになったようだった。ほぼ無意識に、中に入る。遥か高い位置まで棚が伸び、どの本の背表紙にも人の名前が書かれている。まるで、小学校の図書館にある偉人の伝記のような。
後方を見ると、青空も、屋上の出入口も消えていた。
何故か恐怖は感じなかったが、不安はある。ひたすらに前に進むが、目に映るのは本棚と白い空間だけだ。
「どこまで続くんだ?」
「どこまでも、だ」
自分以外の声がして、慧は足を止めた。人が居たことへの少しの安堵と、どんな感情を持った相手なのかという緊張が生まれる。
「ここはキオク図書館。本棚はどこまでも続いている。終わりはない」
本棚で作られた十字路の中央に、家具店に置いてありそうなベッドがあった。黒いシーツ、黒い枕、黒い掛布団。木製のサイドボードには緑茶のペットボトルが置かれている。
ベッドには、丈のある白い一枚着姿で、所々にシルバーアクセサリーを付けた金髪白皙の男が座っていた。口元には笑みを浮かべている。開いていた本を閉じて、傍に置く。
「君は、誰だ?」