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……ああ。腹が減った。
ある暗い森の中でそのホブゴブリンが生まれた時、最初に思った事はそれだった。
上位種。時折その種族の中で発生する生まれついての強者にして統率者。
そして生物である以上、本能的に食事を求める。それは近くの同族、ホブゴブリンからしたら弱い普通のゴブリン達から食料を奪い喰らった。
だがゴブリン達は怒りも見せず、それどころか自分達から喜んで差し出した。しかし、それでもまだ足りない。
それは森の中で着々とゴブリン達が勢力を増やしていってからも、さらに格上の上位種であるゴブリンジェネラルが非常に低い確率で誕生してからも、自分達の一団とはまた違う
そしてその空腹感は今も尚、ホブゴブリンの原動力の一つである。
「ギギィ……ギギィっ!」
ホブゴブリンが村を襲うのもその一貫だ。
“神族を憎め。親族の寵愛を受けているヒトを嫌え。恨め”。
ジェネラルを始め他の上位種はその声に従い、同種達も上位種のそれに引っ張られてヒトへの
狂暴性を増すようだが、それすらもホブゴブリンにはそこまでであった。
ドドドドド。
ギリギリまで姿を隠し、わざわざ遠回りして村の反対側の入口を攻めたのも、ただ単にジェネラルと同じ場所から攻めたら
しかしそんな作戦とも言えない行動が、森からの攻撃を想定してこちら側はやや手薄だった防衛線に偶然突き刺さった。
「うわあああっ!? ゴブリンの襲撃だっ!?」
「慌てるなっ! 至急村に伝令を走らせろっ!」
防衛隊は奮戦したと言える。
ゴブリン達の約半分しかいなかったが、バイマンの元で鍛えられた兵士達。精鋭でこそないが真っ向から戦えばそう簡単には負けはしない。
だが厄介な事に、ゴブリン達が騎乗しているのはマッドリザード。鈍重そうな見た目とは裏腹に機敏なそれは、大いに兵士達を苦しめた。
その上ホブゴブリンの目的は、ヒトの殲滅ではなくただ食欲を満たす事。真っ向から兵士達を全て倒す必要などなく、一部に穴を開ける事が出来れば良い。
そして、結果だけを見るなら。
「ギギャギャギャ! ギギィっ!」
「いかんっ!? ホブゴブリンが中にっ!? 誰か止めろっ!?」
「ダメですっ!? こっちもマッドリザードで手いっぱいでっ!?」
上位種は一部のゴブリン達と共に、防衛線を突破して村へと侵入した。
そのどうしようもない飢えを満たすために。
◇◆◇◆◇◆
「…………はぁ……はぁ」
「ギギィっ!」
「ギギっ……ギイっ!」
どうしてこんな事になったんだろう?
わたしは棍棒を振り回す3体のゴブリンに追われながら、これまでの経緯を考えていた。
村が襲撃されている。そう何となく理解したわたしは急いで走り出した。
兵士さん達を助けにじゃない。わたしには戦う力はないとか、傷を癒すことは出来るだろうけど足手まといになりかねないとか。色々と言い訳は思いつくけど……多分、わたしは怖かったんだ。
お父様も兄さんも居ない。たった一人でモンスターの前に出る事が。
なら逃げるしかない。でも、あの近くには確か幾つかの民家があった。もう逃げているなら良い。でも、もし村が襲われた事に気が付いてなかったら?
そう思ったら、自然と足はそちらに向いていた。
ドンドンドン。
「すみませんっ!? まだ誰か居ますかっ!?」
そして片端から扉を叩き声を掛けると、中からキョトンとした顔で皆が出てくる。どうやらまだ襲撃に気づいていなかったみたい。
わたしは簡単に事情を伝えると、急いで最寄りの避難所に逃げてもらってまた別の家へと向かう。そんな事を何度も繰り返していると、
「び、びえええんっ!?」
わたしは、少し離れた所から見てしまった。
親とはぐれてしまったのか、泣きながらとぼとぼと歩く小さな女の子。そして、
「ギギィっ!」
それを耳聡く聞きつけ、遠くから走って来る何体かのゴブリン達を。
(逃げなきゃっ!?)
そう頭の中に過ぎったし、足も咄嗟に後退っていた。今なら距離が離れているから逃げられる。でも、今逃げたらあの子は……。
そう思ったら、わたしは自然と地面に落ちていた小さな石を手に取っていた。
それで、今はこうなっている。
石を投げて注意を引き、ゴブリン達を引き付けて逃げるだけのつもりだった。
最後にちらりと見えた先で、泣いていた子供が母親らしき人に抱きかかえられていたのにホッとしつつ、森を定期的に散策してちょっとだけ自信のあるこの足なら逃げきれる算段だった。でも、
「…………はぁ……はぁ」
「ギギィっ!」
追ってくるのが3体と言うのは予想以上に厳しかった。村の地形が分かっている分逃げられると思ったけれど、ゴブリン達の動きは明らかに以前見た時よりも良くなっていたから少しずつ差を縮められる。
そして遂に、わたしは近くの民家の壁に追いつめられた。
「ギヒヒヒ!」
「ギイっ!」
「ひっ!? ……こ、来ないでっ!?」
ゴブリン達がニタニタと嗤いながら、こん棒を手で弄びつつ一歩、また一歩と近づいてくる。わたしは立っていられなくなって、壁に背を預けながらズルズルと座り込んでしまう。
(ああ……やっぱり、わたしは兄さん達が居ないと何もできないんだ)
いくら練習しても、わたしには回復魔法以外の魔法は使えなかった。相手を倒す魔法も、自分の身を守る魔法も使えない。だからいつも、わたしは兄さんにくっついていた。自分の身を守ってもらおうなんて嫌な考えで。
兄さんはいつも怪我した時に治してくれて助かっているなんて言うけれど、わたしからすればそうじゃない。誰も怪我をしないのが一番なのに、誰かが怪我をしてからじゃないと動けないんだ。
「ギギィっ!」
ゴブリン達がわたしの目の前に立ち、大きくこん棒を振りかぶる。あれで殴られたら痛そうだなぁ。わたし……これで死んじゃうんだろうなぁ。
(もし、わたしが自分でも戦えたら、逃げなくて良かったのかな?)
トクンっ!
(もし、わたしに力が有ったなら、ゴブリン達を村から追い出せたのかな?)
トクンっ! トクンっ!
さっきから胸の奥が少し熱い。……そう言えば、昨日ヒヨちゃんが言っていたっけ。
『アナタには特別な力がある。人を癒す力しか使えないのは、無意識に相手を傷つける事を嫌っているから。ユーノちゃんは優しいですからね。でも、本当に大切な誰かを守りたいのなら……我慢しなくて良い。解き放つ事ですね』
アレって一体何の事だったんだろう? でも、もし本当にそんな力がわたしにあるのなら、
ドックンっ!
知らず知らずの内に胸に手を当て、その熱が解き放たれる……その時だった。
「……あ~。コホン。ギギギ、ギギィっ! ギギィギィっ!」
「ギギっ!?」
どこからか、咳払いの後で聞いた事のあるような声が響き渡った。それを聞くなり、こん棒を振り上げていたゴブリン達は、急にビクッと耳をすませだした。
するとしばらくして、ゴブリン達はどこか慌てたような顔でわたしを置いて去っていった。
「…………あれ? 助かった……の?」
何が何だか分からない。でもひとまず命の危険が去った事にホッと一息つく。いつの間にか、胸の奥の熱さも少し落ち着いていた。そこへ、
「良かった。ギリギリ間に合ったみたいだな。迎えに来たよユーノ」
「あ……カイトさん?」
少し息を切らしながら、カイトさんがこちらに走ってきた。……そうか。さっきの声どこか聞き覚えがあると思ったら、カイトさんの声だったんだ。
「あの……カイトさん。今ゴブリン達を追い払ったのって?」
カイトさんはその質問に少しだけ言い淀むと、
「……まあ。俺はエラ~イ旅の学者さんだからね。その内落ち着いたら説明するよ。さあ。手を」
そう言って、わたしに手を差し出した。