――その人は誰にでも優しい。
不意に背後から肩を叩かれて手を止めた。
「御坂さん、お昼、買ってきてもらえないですか」
振り返ると
「お昼、ですか……?」
「はい。コーヒーとサンドイッチでかまいません。御坂さんのお昼も、ついでにこれで買ってください」
私の手を取り、その上に彼は千円札を三枚のせた。
「そんな! 自分の分は自分で買いますので!」
戻そうとしたものの、さらに彼が私にそれを押しつける。
「わざわざ買ってきてもらうんです、それくらい」
銀縁スクエアの眼鏡の下で、目尻を下げて優しげに笑われたら、もーダメ。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
「はい。あ、ゆっくり食べてきていいですからね」
久能室長に見送られて研究室を出る。まいったな、きっとこのままだとまた、昼食を抜くのを見越されていた。それでわざわざ、こんなことを頼んできたのだ。久能室長はそんな人、だから。
社食で席を探していたら、私に向かって手を振っている人に気づいた。
「お疲れ」
「お疲れー」
その前に持っていたトレイを置き、座る。
「ダイエットでもしているの?」
私のトレイの上を見て、皮肉っぽく彼女――
「あー……。食欲、なくて……」
笑うだけして彼女に返す。ヨーグルトにバナナだけなんて昼食、彼女じゃなくてもなにか言いたくなるだろう。
「忙しいんだ、開発部」
「いつもどおり、といえばいつもどおりだけどね」
バナナを剥いてかぶりつく。疲労はピークで胃腸すら疲れて働く気を失っているが、なにか栄養を取らないことには倒れてしまう。
「あんた、顔に出にくいんだから気をつけなよ。私だってその食事見なきゃ気づかなかった」
「……ありがと」
美花とはここ、デア製薬に同期入社した。新人研修が終わり、彼女はMR、私は開発部の研究員と部署は別れたが、なにかと気があって友人と呼べる関係になっていた。
「それよか聞いてよ!」
急に話を変えてきた美花が、甲をこちらに向けて左手を見せつけてくる。
「じゃーん!」
「え、なに? ……あ」
一瞬、彼女がなにを言いたいのかわからなかった。が、よくよく見たら薬指には指環が嵌まっている。
「例の彼と婚約したんだ」
「うん!」
「おめでとう」
「ありがとう!」
喜ぶ美花が我がことのように嬉しい。彼と出会ったのは一ヶ月ほど前だからあまりにもスピード婚な気がするが、よっぽど相性があったのだろう。
「久能室長の紹介だっけ? 自分がフッた人間に相手を紹介してくるなんて、優しいというかなんというか」
「あー、うん。そうだね」
はははっ、なんて笑っている美花はどこか、歯切れが悪い。そこはやっぱり、同意ということなんだろうか。
「まあさ、奥さん亡くなって五年もたつのにまだ結婚指環を外さない久能室長に、アタックする方もどうかしているとは思うけど。……あ、ごめん」
言ってしまってから、失言だったと気づいた。そんなところがいいと久能室長に告白をしたのは美花だ。もっとも、彼女だけじゃなく何人もいるんだけど。
「ううん、別にいい。そういう優しい久能室長が好きなんだし」
「アフターケアも万全だもんねー」
美花だけじゃなく彼に告白した彼女たちは、例に漏れず彼からいい人を紹介され、全員寿退社していった。あまりの成立率の高さに、久能室長に見合いをセッティングしてもらえば上手くいくんじゃないかって話もある。当の彼にはその気はないみたいだけど。
「よかったね、美花も上手くいって。結婚式にはぜひ、呼んでね! ご祝儀、奮発するから」
「ごめん。相手の希望で式は挙げない予定なんだ」
美花が曖昧に笑う。
「なんか、重ね重ね、ごめん」
「ううん、由希が悪いわけじゃないし」
しかし、残念だな。美花の花嫁姿、絶対に綺麗だと思うのに。それを見たくない男なんて信じられない。まあ、なにかそれなりの都合があるんだろうけど。
「でね。今月いっぱいで会社、辞めることにした。彼もそうしてほしいって言うし」
「そっかー。ちょっと残念だけど、よかったといえばよかったのかもねー」
MRの仕事はある意味激務だ。長く続く人の方が珍しい。美花も最近、いろいろ悩んでいたのは知っている。
「ちょっと休んでさ、それでまたなにかはじめたらいいよ。美花が専業主婦だなんて、社会の損失だ!」
無理にでも明るく笑う。会社から彼女が去るのは淋しいが、それでこの関係が終わるわけじゃない。
「もう、
ケラケラと彼女もおかしそうに笑う。美花が幸せなら、それでいい。
今度、お祝いの食事会をしようと約束し、美花と別れて部署へ戻る。
「久能室長。頼まれていたコーヒーとサンドイッチです」
「ああ、ありがとう」
コーヒーとサンドイッチを受け取り、彼がにっこりと笑う。
「ん……?」
けれどそれらを掴んだまま、まじまじと久能室長は私の顔を見た。
「……あの。久能、室長?」
「ああ。すみません」
誤魔化すように笑い、彼はサンドイッチとコーヒーを近くの机に置いた。
「
「え?」
眼鏡の下で少しだけ眉を寄せ、再び久能室長が私の顔をのぞき込む。さっき、美花ですら私の昼食メニューを見なければ気づかなかったと言っていた。なのに、久能室長は。
「顔色、悪いですよ」
ようやく私から顔を離した彼は、受け取ったばかりのサンドイッチとコーヒーを私に押しつけた。
「これ食べて、少し仮眠、してきてください。倒れたりしたら困ります」
「えっと……」
完璧にいつもどおりにしていたはず。なんで、久能室長にはわかってしまったんだろう。
「ほら」
いつまでも突っ立っている私を、久能室長は両肩を掴んでドアの方へ向かせた。
「いいからさっさと行く。きっとお昼も、まともに食べてないんでしょう?」
戸惑っている間に彼は私をどんどん押していき、ドアの外へと追い出した。
「一時間くらい、大丈夫ですから。じゃあ、おやすみなさい」
「……はい」
とうとう笑顔で見送られ、苦笑いで仮眠室へ向かう。
「そんなに酷い顔してたのかな……」
休憩室で鏡を見てみたが、今朝となにも変わりなかった。完璧な化粧、クマも顔色の悪さもわからない。
「これで気づくなんてどんな観察眼してるんだか」
だから、三十二歳なんて若さで、大手製薬会社開発部の、室長なんてしているんだろうけど。
休憩室でもそもそとコーヒー片手にサンドイッチを囓る。自分では気づいていなかったが、あれだけでは足りていなかったらしい。食べ終わって膝掛けをかぶり目を閉じる。久能室長の言うとおり身体は限界を訴えていたみたいで、すぐに眠気が襲ってきた。
「やっぱり優しいよね、久能室長は……」
急速に私は、眠りの世界へと落ちていった。
その後も仕事は相変わらず忙しく、美花が最後の日も一緒にランチすらできなかった。
「美花!」
終業時間になり、慌てて美花の部署へと向かう。「由希!」
大きな花束を抱えた彼女は、とても幸せそうに見えた。
「連絡するし、連絡ちょうだい?」
いままでは会社内でちょこちょこと会えていたのに、これからはそうじゃないのだと思うと淋しい。
「うん。落ち着いたら遊びに来て。きっと、驚くだろうけど」
「美花……?」
意味深に彼女がウィンクする。もしかして美花は、なにか隠しているんだろうか。
「じゃあね、由希。無理しないでね」
「美花もね。お幸せに」
まだ仕事も残っているし、名残惜しいがそれで別れた。――まさか、これが美花と話した最後になるなんて知らずに。
戻った職場では久能室長が帰り支度をしていた。
「今日はもう、お帰りですか」
「ええ。どうしても外せない用事がありまして。申し訳ありませんがあと、よろしくお願いします」
「はい」
私にすら丁寧にあたまを下げて久能室長は帰っていった。珍しいと思う、彼がこんなに早い時間に帰るなんて。いつも誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残っているから。一度、訊いたことがあるのだ。そんなになにをしているのか、って。そうしたら。
『病気で苦しんでいる方々が一日でも早く、笑顔になってほしいから』
なんて返ってきて、その優しさに心打たれた。私も久能室長のようになりたい。その日から、前にも増して仕事に精を出すようになった。
「さて。もうひと頑張り、しますかねー」
薬が早く完成すれば、それだけ笑顔になる人が増える。――それだけ、久能室長の願いを叶えられる。だから忙しいのは全然苦じゃないとも。
美花が辞めて一週間ほどたったその日も、相変わらず忙しかった。
「うーっ、寒い……」
朝、起きたときになんとなく嫌な予感はした。けれど気にせずに出社してきたら、ゾクゾクと寒気がする。
「解熱剤……」
幸い、なのか会社に薬だけは腐るほどある。ごそごそとストック箱を漁った。
「お探しのものはこれですか?」
「あっ、はい。それです。ありがとうございます」
唐突に目の前に目的の薬のシートが出現し、受け取ろうとしたものの、ひょいっと取り上げられてしまった。
「え?」
シートの行方を目で追った先には、久能室長の顔が見えた。
「風邪、ですか」
「はい、たぶん」
なぜか、はぁっと小さく、彼の口からため息が落ちる。
「仕事なんてしていないで、さっさと帰って寝てしまいなさい」
優しい上司としては当たり前の言葉だと思う。けれど休んでいられないほど、仕事は詰まっているのに。
「でも、今日の分、が」
「そんなもの、僕がやっておきます」
当たり前のように言っているが、久能室長だって大量に仕事を抱えているのだ。できるはずがない。
「薬を飲めば、大丈夫ですから」
「確かに、我が社の薬はよく効きます。それこそ、休めないあなたに、なんてCMを流しているくらいに」
薬を取り上げたまま、彼は渡してくれそうにない。それどころか軽く、怒っている。
「でもあのCMについては広報にクレームを入れたいですね。あんなものを流すから、過信して休まない人間が出てくる」
「あのー。久能、室長?」
「……僕の妻は、風邪で死にました」
苦しそうに呟かれたその言葉で一瞬、息が止まった。
「僕が出張に出る日、妻は少し、具合が悪そうでした。でも、薬を飲めば大丈夫だから、あなたの会社の薬はよく効くんでしょう、と」
まるで独り言のように久能室長の言葉は続いていく。
「一泊の出張を終えて帰った家で僕を迎えたのは、冷たくなった妻でした。薬を飲んだことで安心した妻は仕事へ行き、無理をして悪化させ、そして夜中にひとり、僕にも黙って逝ってしまいました」
淡々と語る声が声が胸を締め付ける。結婚して間もなく、病気で奥さんを亡くしたとだけ聞いていた。そのせいもあって研究に没頭しているのだろうと勝手に思っていた部分もある。
「たかが風邪だ、薬を飲めば大丈夫、などと思わないでください。僕はもう二度と、大事な人をこんなことで失いたくない」
「わかり……え?」
思わず、久能室長の顔を見ていた。目のあった彼は不思議そうに首を少し傾けたが、すぐに自分の言ったことに気づいたのかみるみる赤くなっていく。
「あの、久能……室長?」
大事な人って誰が? ああ、あれか。部下として大事な人間。きっと、そういう意味。
「御坂さんは僕にとって大事な人です。……ひとりの女性として」
「えっ、あっ」
くいっと中指で眼鏡を押し上げながら、彼がなにを言っているのか理解できない。
「でも、奥様……」
いまでも奥様を愛しているからこそ、久能室長は誰にもなびかなかったのだ。相性もあったんだろうけれど、私から見ても魅力的な美花ですらフラれた。
「僕は妻と同じくらい、御坂さんを大事に思っています。……それじゃ、いけませんか」
眼鏡の奥から少し濡れた瞳が真っ直ぐに私を見ている。それに、私は。
「い、いえ……」
耐えられなくてつい、目を逸らしてしまう。まさか、彼からそんなふうに見られていたなんて知らなかった。
「今日はもう、帰って休んでください。僕からのお願いです」
「……はい、そうします……」
押し切られる形で会社を出た。家に帰り、薬を飲んで横になってもまだ、信じられない。
「久能室長が私を好き……」
それは、とても嬉しいことのような気がした。彼の下に配属されて三年。仕事でくじけそうになるといつも、さりげなくいつも彼が支えてくれた。知らず知らず、惹かれていてもおかしくない。
「でも……」
相手は友人が好きだった男なのだ。美花の方はすでに、振り切っているようだったが。それでも、複雑な気持ちなのには変わりない。
「あとで美花に、電話してみよう……」
薬が効いてきたのか、次第に眠くなってくる。ぐっすり眠って目が覚めたのは、とっぷりと日も暮れたあとだった。
「よく寝た……」
もうあまり具合の悪さは感じない。風邪というよりも主に、過労だったのかもしれない。
「お腹、空いたな……」
開けた冷蔵庫の中は空だった。このところ、コンビニ弁当で済ませていたから当然といえば当然だが。
「買いに行くしかないのか……」
けれどまた着替えて外に出るのは面倒。ぐだぐだ悩んでいたら不意に、ピンポンとチャイムが鳴った。
「はい……?」
訝しがりながらもドアを開ける。そこには――久能室長が立っていた。
「具合はどうですか」
「あ、もうすっかり……」
とりあえず、彼を部屋に上げる。まさか、様子を見にきてくれるなんて思ってもいなかった。
「ん、もう熱は下がったみたいですね」
「……!」
こつん、と私の額に自分の額を付けてこられて、さすがに顔が熱を持つ。けれどそんな私とは違い、久能室長ははぁっと小さく安堵の息を吐き出した。
「食材、買ってきたんです。お腹、空いてないですか」
証明するかのように手に持つスーパーの袋を彼が少し上げる。
「あの」
――ぐぅぅぅっ!
そんな気遣いをさせるわけにはいかなくて否定しようとしたものの、それより先にお腹が派手に音を立てた。
「台所、お借りしますね。少し待っていてください」
「……はい」
熱い顔でおとなしく、テーブルの前に座る。すぐに久能室長は袖まくりで料理をはじめた。
「どうぞ。お口にあうかわかりませんが」
「……いえ。いただきます」
まもなくして出されたのは、玉子とじうどんだった。うどんを啜って一口。優しい甘さが身体に沁みていく。
「美味しいです」
「よかったです。具合が悪いとき、これを作ってやれば妻も喜んでくれました」
眼鏡の下で目尻を下げ、久能室長が笑う。それに、胸がきゅんと音を立てた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
あとはやるというのに、久能室長は後片付けまでしてくれた。
「じゃあ、ゆっくり休んでください。なにかあったらすぐ、連絡ください。夜中でも早朝でも。いつでも駆けつけますから」
「えっ、あの、そんな」
「御坂さんは僕の、大事な人ですから」
私の手を取り、彼がその指先にちゅっと口付けを落とす。そこから全身を熱が駆け回った。
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
ドアがパタンと閉まってもなお、そのままそこに突っ立っていた。
「……あー、うん」
ふらふらと部屋の中へ戻り、携帯を手に取る。電話帳から美花を呼びだし、通話をタップした。
――プルルル、プルルル……。
呼び出し音を聞きながら、いまから話す内容を組み立てる。久能室長から告白されたと言ったら、美花はどんな反応をするんだろう。怒る? それとも喜んでくれる? しかしいつまでたっても美花が出る気配はない。
「お風呂……?」
一刻も早く話を聞いてもらいたくて、LINEを起こす。指を走らせて久能室長から告白されたのだと打ち込んだ。
「早く返事、来ないかな……」
けれどいくら待っても美花からの返信がないどころか、朝になっても既読にすらなっていなかった。
――翌日。
「御坂さん。分析、お願いできますか」
「あっ、はい」
久能室長から試験管を受け取りながら、つい視線を逸らしてしまう。
「御坂さん? もしかしてまだ、調子悪いんですか?」
心配そうに彼が、私の顔をのぞき込む。
「あ、いえ。もう大丈夫です」
そのレンズと同じくらい、曇りのない瞳に見つめられ、耐えられなくなってさらに視線を外した。
「ん、顔色は大丈夫そうですね」
納得してくれたのかようやく彼が顔を離し、ほっと息をついた。
平静を装って頼まれた分析をする。昨日の今日でまだ、どんな顔をしていいのかわからない。たぶん、私は久能室長が好きで間違いないとは思うけど。
「んで。いまだに既読にもならないってどういうことなんだろう」
帰り、美花とのLINEを確認したが、昨日送ったメッセージはいまだに既読にすらなっていない。あの、SNS中毒の美花にしてはありえないことだ。まさか、ブロックされている……なんてことはないと思いたい。
「もしかして、倒れてる、とか」
昨日の、久能室長がした奥さんの話が思いだされる。あんなことは稀だと思うが、万が一と言うこともある。
「行ってみるか」
それで、ちょっと都合でメッセを確認していないだけならそれはそれでいい。ひさしぶりに美花に会いたいし。コンビニで彼女の好きなデザートを買い、マンションへと急いだ。
「……」
外から美花の部屋を見上げたものの、電気は点いていないようだった。ますます、心配になり、部屋まで足を急がせる。
――ピンポーン。
インターホンを押し、しばらく待ったけれど中から反応はない。
――ピンポーン。
再び押したけれど、やはり。もしかして本当に、倒れている!?
――ピンポン、ピンポン、ピンポン。
「美花! ちょっと、美花って!」
インターホンを連打したあと、ドアを叩きつつドアノブをガチャガチャやったけれど、それでも中からの反応はない。まさか、なんてことはないと思いたい。
「あのー」
焦りつつ、ドアを叩き続けていたら、帰ってきたのであろう他の部屋の住人から声をかけられた。
「その部屋の人、引っ越しましたよ」
「……へ?」
彼から思いもよらないことを告げられ、口から間抜けな音が落ちる。
「いつ?」
「今月入ってすぐ、かな。なんか、夜逃げみたいだったけど」
「……え」
引っ越ししたのはわかる。結婚するんだし。私に連絡くれなかったのは傷つくが。けれど、夜逃げみたいだった、とは?
「どこに引っ越したとか……」
「知らないですよ。じゃあ」
「あ……」
それだけ言って彼は、部屋のドアを閉めた。
「美花の結婚相手って……」
挙げない結婚式、夜逃げのような引っ越し。既読にならないメッセ。いまさらながらもっと、相手のことを訊いておけばよかった。
「大丈夫、なんだよね……」
いまごろしても仕方ない、心配をした。
美花のことは心配だけれど、久能室長の関係は徐々に進んでいく。今日は、食事に誘われた。
「元気がないようですが」
「あ……」
声をかけられて我に返る。久能室長との食事の最中だというのについ、美花のことを考えていた。
「心配なことがあるのなら、相談に乗りますよ」
眼鏡の下で彼の眉が寄る。こんなこと、相談してもいいんだろうか。しかし、美花の結婚相手は久能室長が紹介した相手だ。訊いてもおかしくないだろう。
「その。友人と連絡が取れなくなって」
「……それは心配ですね」
彼はナイフとフォークを置き、少し前のめりになった。
「美花……
そうとしか考えられない。もし、犯罪に巻き込まれていたら? 悪い考えばかりがあたまを掠めていく。
「木野さんのことが気になりますか」
「だって、友達ですから」
同期にも美花のことを訊いて回った。けれど、私が知っている以上のことは出てこなかった。私が一番親しい、友人だったから。
「優しいですね、御坂さんは。私の妻と同じで」
まるで眩しいものでも見るかのように彼が私を見る。
「そんなことは、全然」
こんなときだというのに、その顔に頬が熱くなっていく。
「そんな優しい御坂さんには、木野さんを会わせてあげますよ」
「本当、ですか」
顔を上げて真っ直ぐに彼の顔を見る。手が伸びてきてそっと私の頬に触れた。
「だからそんな、不安そうな顔をしないでください。御坂さんには笑顔がふさわしい」
うっとりと頬を撫で、手が離れていく。それをぼーっと見ていた。
店を出てタクシーに乗る。しばらく走って着いたところは、寂れた商店街のようなところだった。
「ここ、ですか……?」
「はい」
久能室長が上げた店先のシャッターは、ギギギーッと重そうな音がした。腰の高さまで上げられたそれを、あたまを下げてくぐる。中は真っ暗だったが彼は迷いなく歩いていき、唐突に電気が点けられる。
「ここ、は……?」
白々しく照らされた室内、床はタイル貼りで奥に鈍く光る大きな業務用の冷蔵庫が鎮座していた。
「実家の肉屋です。もっともすでに、廃業して誰もいないですが」
久能室長が私の脇をすり抜けて店先へと戻っていく。視線を向けたそこにはその言葉どおり、肉屋によくあるショーケースがあった。
――バン!
大きな音が響き、身体がびくりと震える。シャッターが閉められ、まるで外界から切り離されたかのように感じた。
「本当にここに、美花が……?」
いるはずがない、こんなところに。中に入ったとき、人の気配などなかった。響いていたのは低い、冷蔵庫の駆動音だけ。……駆動音? 廃業しているのになんで、冷蔵庫だけ動いているのだろう。
「はい、こちらです」
久能室長は奥へと向かっていく。そして冷蔵庫へ手を――かけた。
「木野さん。ご友人が会いに来られましたよ」
普通に声をかけて彼はその扉を開けた。まさか、そんな。喉はカラカラに渇き、どくん、どくんと心臓の音ばかりが妙に耳に付く。そっと覗いたその中は冷凍庫になっており、床に美花が転がっていた。――すっかり凍りついて。
「ひぃっ」
短く悲鳴を上げて後ずさる。そこには美花だけじゃなく何体も女性の死体が転がっていた。
「あ、あの。久能、室長?」
美花は私が結婚相手と会ったら、きっと驚くと言っていたが、それは久能室長だったから。結婚式を挙げないとか、相手を秘密にしていたのは久能室長は最初からそのつもりだったから。まさか、あなたが。そんな言葉は口から出てこない。
「あれ? 嬉しくないんですか? ご友人と再会できて」
不思議そうに彼の首が傾き、一気に鳥肌が立った。
「その。……失礼します!」
勢いよくあたまを下げ、シャッターまでダッシュする。上げようとガタガタやるが、重く錆び付いたそれは少しも動かない。
「……逃がしませんよ」
「……!」
耳もとで囁かれると同時に、首筋にバチン!と衝撃を感じた。そこで意識は途切れている。
ゆっくりと意識が覚醒していく。ああ、なんか悪い夢をみたな。久能室長が美花と会わせてくれるって連れていってくれて、そうしたら美花が冷凍庫の中で凍っていて……。
「……!」
目を開けて見えたそこは、最後にいたあの肉屋だった。タイル貼りの、床の真ん中に置かれた椅子に、私は縛られている。きっとあのとき、スタンガンでも当てられたのだろう。
「目が覚めましたか」
こんな状況だというのに、彼――久能室長は穏やかに笑っていた。
「なんで! こんなことを!」
「なんでって……」
どうしてそんなことを言われるのかわからない、というふうに彼の首が傾いた。
「妻に戻ってきてほしいからですが?」
それがどうして、こんなことになる? 私にはちっとも理解ができない。
「だいたい、木野さん……いえ、彼女だけじゃなく、皆悪いんですよ。おとなしく、妻を受け入れないから。だから、あんなことに」
さっきから彼が、傍らのミニテーブルの上でやっていることから目が離せない。それはどうも、注射の準備をしているように見えた。
「……いったい、なにを……」
「これは僕が開発した、人の魂を他の人間に入れる薬です」
私の目の前で揺らされた瓶の中には透明な液体が満たされている。
「これだけだとただの媒体ですが、ここに妻の魂の情報を加えます」
彼がポケットの中から小さな小瓶を取り出す。その中には白い粉が入っていた。
「妻の遺骨を砕いたものです。御坂さんは特に妻との相性がよさそうですから特別に、喉仏にしました」
開けた瓶の中へ、白い粉が注がれていく。蓋をした瓶が振られてそれらが混ざり、乳白色の液体になった。
「今度こそ妻と会えるのだと思うと、ゾクゾクしますね」
手慣れた手つきで、注射器でそれを吸い取り、準備を済ませた久能室長が私に迫ってくる。
「いや。やめて」
嫌々と首を振ったが、かまわずに彼は鋏で私の服の袖を切り、腕にゴム管を巻いた。
「おとなしくしていてください。すぐに終わりますから」
アルコール消毒が腕を冷やすと同時に背筋も冷える。血管の場所を確認した久能室長が、注射器を近づけてきた。あんなものを血管注射されて、無事でいられるわけがない。そんなことがわからない久能室長じゃないはずなのに、なんで。
ぶすり、と注射針が私の腕へと刺さる。ゴム管が外され、ゆっくりと体内に注入されるそれを、ただただなにも言えずに見ていた。
「
久能室長の手が私の頬に触れ、唇が重なる。そこで私の意識はブラックアウトした。
その後。私は一命だけは取り留めた。
「夕子、食事だよ」
久能室長は私を、夕子と奥さんの名前で呼ぶ。
「ほら。……ああ、またこぼして」
彼はスプーンで私にスープを飲ませてくれるが、それは口の端からたらたらとこぼれていった。
「仕方ないな」
笑いながら彼が私の顔を拭いてくれる。けれど私の口からはスープだけではなく、唾液もだらしなく流れ落ちていた。
「夕子は僕がいないとなにもできないもんな」
甲斐甲斐しく久能室長が私の世話を焼いてくれる。まばたきすらできず、声も出せない私の世話を。
彼は自分の妻である夕子さんが、私の中で蘇ったのだと信じている。信じて、疑わない。そして私は、それを否定する術を持たない。
「夕子、愛しているよ。帰ってきてくれてありがとう」
【終】