紺色のブレザーの袖を、小さな手が引っ張る。背中まである金色のサラサラした髪に、菫色の瞳。兄が帰って来るからと、いつもより少しおめかしした妹は、人形のように愛らしかった。
「学期末が終わったら、帰って来るんでしょ?」
「うーん……。今年は討論会が近いからなぁ……」
アカデミーの討論会は、重大イベントだ。成績にも大きく影響するし、エセラインも手を抜くことは出来ない。皆ここに力を入れて来るのだ。マリーナが寂しがっているのは知っていたが、手を抜くことは出来なかった。
「むぅーっ!」
「その代わりほら、お前の好きな氷菓、食べに連れて行ってやるから……」
「ほんと? 約束よ、にいさん!」
表情をくるくる変えながら、マリーナが笑う。その様子を、穏やかな父と優しい母が微笑んで見ている。
その光景が。
ブワッ……!
突如、燃え上がった。
「父さん! 母さん! マリーナ!!」
燃え広がった屋敷。床に広がる血の海。炎の先に、男が立っていた。
「あ……」
黒い、革のコートを着た男。その男が振り返り――。
ハッと息を荒らげ、エセラインは目を覚ました。酷く、夢見が悪い。じっとりと肌が汗ばんで、寝間着が肌に張り付いている。心臓がバクバクと早鐘を打つ。
(夢――)
夢だった。そう思い、手をぎゅっと握る。
いや、夢ではない。あれは、夢ではないのだ。
ふと窓を見ると、雨粒がガラスを叩いていた。雨音に街の音がかき消され、酷く静かに思える。
無機質な部屋。飾り気のない本棚、食事を作る気配のないキッチン。書き物をする時にしか使わないテーブルに、ベッド。それに、備え付けのクローゼットがあるだけの、質素な家。寝るためにしか帰ってこない部屋は、寒々しくてよそよそしい。
雨粒を零す空は、まだ暗い。夜明けまでは、まだ遠い。
◆ ◆ ◆
ヒヤリ。と額が濡れるのを感じて、エセラインは瞼を開けた。
「……?」
「あ。起きた」
顔を覗き込む翡翠色の瞳に、ドキリと心臓が跳ね上がる。一瞬、状況が理解できず、目を見開いたまま固まるエセラインに、ゾランがニカッと笑いながら説明をしてくる。
「珍しく『クジラの寝床亭』にも事務所にも来ないからさ、社長が様子見て来いって。そしたらお前、すげー熱じゃん?」
「熱……?」
言われて、自分の体温が酷く熱いことに気が付く。額にはゾランが載せたのであろう、濡れたタオルが置かれていた。
(――そう言えば、ラドヴァンに合鍵を預けて居たか……)
エセラインには家族がいないので、もしもの時の連絡先はラドヴァンになっている。合鍵も、一緒に渡したのだった。
「市場でリンゴ買って来たんだ。それとも何か作ろうか? カシャロの人ってチキンスープなんでしょ? うちの村では風邪にはカリフラワースープが鉄板だったんだけど」
「あ――……」
そう言われたら、食欲はないのに母親が風邪をひいたときに作ってくれたチキンスープを思い出した。
「……パスタとチキンを柔らかくなるまで煮込んだスープ……」
形がなくなるほど柔らかく煮込んだスープが、うちの味だった。父親はそこにいつもバターを一匙加えようとして、母親に「病気なんだから」と窘められていた。
「ん。じゃ出来るまで寝てて」
ボンヤリした意識の中、揺れる赤毛を見送る。眠るのは、また怖い夢を見そうで嫌だった。だが、身体は睡眠を欲していたらしく、あっという間に夢の世界へと落ちて行ってしまった。
◆ ◆ ◆
スープの匂いに釣られて目を覚ますと、幾分気分がマシになっていた。のそりと上体を起こし、キッチンの方を見れば、ゾランが慣れた手つきでスープの味見をしている。エセラインはベッドから抜け出して、その背後に回った。
「んー。もうちょっと塩足した方が良いかな……。いや、でも病人だし」
エプロンを身に着けて鍋に集中している姿に、ほんわりと胸が暖かくなる。よく見れば、キッチンの端っこにハーブの鉢が増えており、テーブルの上にも小さな花瓶に花が生けられていた。無機質だった部屋が、急に暖かみを増した気がして、エセラインは目を瞬かせる。
「――」
華奢な背中を抱きしめたい衝動にかられたのを、グッと堪えて、エセラインはゾランに声をかけた。
「ゾラン」
「わっ。なんだ、起きたのか。ちょうどスープ出来たよ。食べるだろ?」
「――ああ。悪いな、お前も忙しいのに」
「ううん。煮込みながら記事纏めたりしてたから」
テーブルの端には、ゾランがいつも持ち歩いている赤い手帳が置かれている。エセラインはこの部屋に自然とゾランが存在しているということが、酷く尊いことのように思えて、思わず目を細めた。
「もう熱は下がった?」
顔を覗き込んでくるゾランに、ドキリと心臓が跳ねる。小動物のような無邪気さで近づくゾランに、エセラインは視線を逸らして「大丈夫だ」と答える。
促されて席に座る。スープはすぐに運ばれて来た。チキンのダシが黄金色に輝いている、美しいスープだ。しっかりと、ショートパスタも入っている。
「ミラに聞いたレシピだから、エセラインの家のとは違うだろうけど、美味しいと思うよ」
ゾランがそう言いながら向かいに座るのを、エセラインは不思議な気持ちで見ていた。
この家は無機質で、家庭の暖かみなどなかったはずなのに、ゾランが居るだけで別世界のように暖かくなる。エセラインが一度失い、二度と手に入れることはないと思っていたものが、一瞬手の中に戻ってきたような錯覚を覚えて、エセラインは瞬きをした。
スプーンでスープを掬い取り、口に運ぶ。優しい味が口に広がって、エセラインはホッと息を吐き出した。
「美味しい」
呟きに、ゾランがホッとした顔をする。
「良かった……!」
ゾランの笑顔に、エセラインの胸がざわめく。
「早く治して、仕事復帰してくれよ。第三段の旅行記だって待ってるんだし」
「ああ、そうするよ」
ゾランはエセラインがスープを食べ終えるまで、じっと穏やかな笑みで見守っていた。
(まあ、今はまだ、このままで――……)
今はまだ、同僚のままで。
そう決意した数日後、ルカから「デートして来い」と言われるとは、思ってもいないエセラインだった。
幕間2 終わり