窓から射し込む月の光に反射して、空気がきらめいた。屋根裏の埃っぽい空気が、歩くたびに揺れ動く。
「助けてくれ……頼む……」
男は這いずりながら、頭を床に擦り付けた。
「金ならやる。だからっ……」
ガシャ。後頭部に銃口が突きつけられる。恐怖に、男が声にならない悲鳴を上げる。
「そんなものは要らない。オレはただ、返して欲しいだけだ……」
「ひ、ひぃっ……!」
恐ろしく冷たい声だった。月明かりが、男の姿を浮かび上がらせる。黒い革のコートを着た、やせ形の男だった。全身黒で塗りつぶしたような、異様な姿だった。
『宵闇の死神』――世間ではこの男を、そう呼ぶ。
死神がショットガンのトリガーに指を掛ける。
「待ってくれ! 私は本当に、なにも知らないんだ! ただ屋敷を貸せと言われただけで―――」
男の言葉は、最後まで話すことは出来なかった。ズドンと鈍い音が響き、火薬の匂いが漂う。
「チッ……」
血に汚れた床を踏みつけ、死神は無造作に置いてあった鞄を蹴り倒した。中に入っていた瓶が割れ、油が床に広がる。
「どこに……」
苦しげにそう呟き、『火種』の魔法を投げる。瞬く間に炎が、屋根裏部屋に広がった。
火災による風が、『宵闇の死神』の革のコートをはためかせる。
フードから、赤い髪が一筋、零れ落ちた。
◆ ◆ ◆
「お前知ってるか? 四番街に良い店があって」
「かみさんから連れてけって、せがまれてるんだよ」
「おれも穴場、見つけてやろうと思ってなあ!」
朝からコーヒー片手に騒々しい紳士たちを見ながら、ゾランはサンドイッチを咀嚼する。レタスの新鮮な歯応えが、シャキシャキとして歯触りが良い。
「未明に十一番街で火事だってさ」
「エセライン」
カフェオレと新聞を手に、エセラインがテーブルに着く。
「男爵が死んだらしい。『宵闇の死神』かもな」
「見せて」
新聞を受け取り、記事に目を走らせる。焼けた屋敷跡からは、油の匂いがしたらしい。放火だ。
「……近くに、居るのかな」
「アイツはどこにでも現れる」
ゾランはエセラインをチラリと見た。彼の表情がいつも通りなことに、ホッとする。
と、そこにミラがマフィンの載ったトレイを片手にやって来た。
「ゾラン、エセライン。カシャロデートスポット特集みたよ! カシャロにあんなに良い場所があったなんて、知らなかったわ」
「ミラ。気に入ってくれた?」
「もちろんよ! マルガリータと一緒に、どこに行こうかって相談してるの。素敵なプレゼントが出来そうだわ」
「それなら、良かった」
笑顔を見せながら、ミラはマフィンを「これはお礼よ」と置いていく。ナッツがたっぷり入ったマフィンだ。香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「美味そうなマフィンだな」
「ミラのマフィンは、いくつでも食べられるよ」
エセラインがマフィンに手を伸ばす。マフィンを一口サイズにちぎって口に運ぶのを、無意識に追いかけた。
(……キス、だったよな)
ぼんやりと、あの日のことを思い出す。頬に、柔らかな感触が、まだ残っている気がする。
あれから――エセラインは特に、何のアクションもしてこない。いつも通り、同僚のエセラインのままだ。だからゾランも、今まで通り、振る舞っている。
(あれって、告白――なんだろうか)
解らない。そうかも知れないし、違うかも知れない。
そしてゾランは、自分自身がどうしたいのかが、まだ解っていない。
恋人――に、なりたいのか。それとも、同僚で、相棒と言う今のままの関係が良いのか。
(少なくとも……キス、は、嫌じゃなかった……)
頬に、触れるだけのキス。そのキスが、エセラインの誠実さだったと思う。
ゾランを心配するのも、いつも気遣ってくれるのも、信じてくれるのも。
「どうかしたか?」
「っ、な、なんでもないっ。カシャロ特集、評判良いし、第二段もあるかなって」
「ああ――かなり、読者の方から、特集して欲しい場所や店の提供があったって、ルカが言ってたよ。普通、手紙なんかそんなに来ないのに」
「へえ、そこまで反響があったんだ。カシャロはみんな知ってるのに、ちょっと面白い」
「知ってる場所だからこそ、かもな」
「うんうん」
デートスポット特集という、ターゲットを絞ったのも、評判が良かった。正解のないものだけに、面白いアイディアだとウケたようだ。
(俺自身、デート……楽しかったしな……)
エセラインと二人で行ったデートは、なんだかんだとドキドキしたし、新鮮で楽しかった。ガラスペンを見る度に、あのデートを思い出してしまうので、少しソワソワするのだが。
「まあ、次は遠出したいけどな」
「ああ、うん。売り上げも好調だし、社長も許可してくれるかな?」
「ルカ次第だな」
そう言って肩を竦めるエセラインに、つい笑ってしまう。
(うん。今はまだ、このくらいが心地良いかも)
このドキドキに、名前をつけるのは、勿体ない。まだ、今はこのフワフワした感情を、楽しんでいたい。
ゾランはそう想いながら、翡翠色の瞳を細めた。
第3章 終わり