テーブル席で新聞を広げながら、カフェオレを優雅に啜るエセラインが目に入って、ゾランはドキリと胸が高鳴るのを感じた。いつもと同じ風景のはずなのに、どこか違って見えるのは何故だろうか。
「お、おはよう」
「おはようゾラン。なんだ、今日は遅いな?」
「あー、ちょっと、夜更かしして……」
苦笑いしながら、ミラにコーヒーとサンドイッチを頼んで席に座る。いつもならゾランが先に座っていて、エセラインがあとから合流する。勝手に相席するなと言っていたのに、今じゃ一緒に朝食をとるのが当たり前になっている。
「夜中までデートの行き先を考えてたのか?」
「っ、うるさいなっ。悪いかよ?」
「いや、俺もだ」
「えっ」
思いがけない返事に、驚いて目を丸くする。ジワリ、頬が熱くなった。
ゾランの方はこんなに気恥ずかしいのに、エセラインの方は淡々としたものだ。少し、面白くない。そう思っていると、エセラインから意外な言葉が飛び出す。
「何というか、悩みはするが、楽しくもあるな」
「――楽しい、の?」
「ああ。やっぱり、お前を喜ばせたいし、驚かせたい。そうすると、凄く大変なんだが――。なにニヤニヤしてるんだ」
「えっ? ニヤニヤしてた?」
「していた」
呆れ顔のエセラインを前に、頬を押さえる。そんなに、ニヤニヤしていただろうか。
「ん、ん。ま、まあ、準備が楽しいのは、なんとなく解るかな」
咳払いしながら、同意する。大変だとは思うが、楽しいのだ。時間があっという間に過ぎてしまう。
「正解が解らないから、誰かに意見聞きたくならない?」
「なるなる。自分の知識の範囲じゃ、なかなか良い場所が思い浮かばない」
そう言い合って、ゾランとエセラインは目を見合わせてニヤリと笑った。
「需要あるね」
「ああ。間違いない。みんなが欲しかったものだ」
この企画は、きっと上手く行く。確信して互いの手を打ち合った。
「今日の予定は?」
「八番街まで行くつもり。帰りはギリギリかなぁ」
「八番街は遠いな。俺は六番街まで行くから、合流しよう」
「でも、どのくらい掛かるか解らないよ?」
合流しようというエセラインに、ゾランは遠慮したが、エセラインは引かなかった。
「八番街に時計塔があるだろ。そこで待ち合わせよう」
「ん、解った」
◆ ◆ ◆
「これ、なんだか解る? バターなのよ」
「バター? 油じゃないんですね」
婦人の言葉にペンを走らせながら、ゾランは驚いて見せた。黄金色の澄んだ液体は、質の良い油だとばかり思っていた。婦人は笑って、バターをかき混ぜる。
「純度の高いバターだから、悪くならないのよ。これが美味しさの秘訣ねえ」
「なるほど」
黄金の液体は、バター特有の香りはしない。それよりも、もっと香ばしいような匂いがした。
「これがお菓子の材料なんですね」
「地域によっては普通のバターを使うそうよ。でもこれの方が生地が重くならないの。パイを何層にも重ねるんだけど、とてもサクッとした軽い仕上がりになってね」
「面白いです」
出来上がりはこうだと、ゾランは密がたっぷりかかったパイを頂く。甘さがまず来るが、奥行きのある深い味わいだ。そこにナッツとレーズンがアクセントになって、何とも言えない美味しさを引き出している。
「良質な小麦と新鮮なバター、ブドウ畑の多いカシャロならではのものね」
「美味しかったです。それに、とても勉強になりました」
婦人に礼を言って、取材を終える。今日は一日で三ヶ所、取材に回った。どこもカシャロの南側にある、八番街周辺である。
路地に出ると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。夕焼けが街を赤く染めている。
(エセラインも終わったかな)
待ち合わせ、というのは、なんだかむず痒い。ゾランの住んでいた田舎では、待ち合わせ場所なんてなかった。行く場所など村唯一の雑貨屋兼酒場か、畑か井戸。それに、誰かに聞けばすぐ、目撃情報があったものだ。
(都会の恋人たちは、やっぱりこんな風に待ち合わせするのかな)
待ち合わせ相手がいつ来るのかソワソワしたり、人混みの中を探してみたり。そんな時間も、楽しいのかも知れない。
エセラインは待っているだろうか。それとも、エセラインを待つのだろうか。どことなく、緊張する。
(いやいや、ルカがデートだなんて言うから……。今日はその日じゃないんだし)
あれから、妙にエセラインを意識してしまう。
(……デートしたことないみたいに言ってたけど、本当かな)
エセラインの顔が良いことは、ゾランも認めている。スラリとした長身に、整った鼻梁。涼やかだけど甘さのある、菫色の瞳。クセのないサラサラの髪。神様が丁寧に作ったみたいな、美形だ。放って置かれるはずがないと思うのだが、不思議なものだ。
それに対してゾランは、凡庸だと思う。背もそれほど高くないし、バレヌ王国ではよくある赤毛。翡翠色の瞳はやや特徴的だが、顔立ちは少し子供っぽい。エセラインと並ぶと、平凡さが際立つのではないだろうか。
(そんな俺が、エセラインとデートとか……。いや、あくまで仕事だしっ……)
気恥ずかしさを振り切るように首を振り、道を歩いた。カシャロの南側は、隣国からの移民が多いらしい。彼らの多くは、不法入国者だ。それゆえに、治安が悪化しているという。
ゾランは裏路地から、嗅いだことのない料理の匂いがするのを感じて、視線をやった。裏路地の屋台では、異国の料理屋が増えているらしい。独特な匂いと文化が入り交じった、不思議な風景は、どこか魅力的でもあった。
(テオドレが記事にしてたっけ)
社会面を担当しているテオドレが、移民問題について書いていたと記憶している。増える移民に対して、法の整備が追い付いていない。そんな内容だった。
(税金とか治安の問題はあるんだろうけど、お互いの文化を知れるのは良いよね)
知らない料理も、食べてみたい。そんな風に思った、その時だった。
「お兄さん、記者さんなの?」
「え?」
不意に話しかけられ、ゾランは足を止めた。見慣れない男だ。少し薄汚れた格好が気になった。
「さっき、ベーカリーから出てくるの見たよ。記者さんなんだろ?」
「そう……ですけど」
なんとなく、ザラリとしたものを感じて、口ごもる。男は口許に笑みを浮かべ、手を差し出した。
「もしかして、今流行りのクレイヨン出版のひと? オレ、ファンなんだよ」
「あ、そうなんですね」
ファン。その言葉に、ゾランは警戒を解いた。ホッとして、差し出された手を握り返そうと手を伸ばす。
その瞬間、男が嫌な笑みを浮かべた気がして、咄嗟に手を引いた。キラリと、男の袖が光った気がした。
「っ!?」
手が、熱い。切られたと気づいた次の瞬間、じくじくと手のひらが痛みだした。石畳にポタポタと、鮮血が落ちる。
「チッ!」
男が舌打ちする。驚いて声も出せなかったゾランの代わりに、通りかかった女性が悲鳴を上げた。
「キャアアア! 人殺し!」
女の声に、周囲の視線が集まる。男は顔を歪め、路地裏の方へと走り去ってしまった。
「っ……」
手を押さえながら、ゾランは路地を睨む。追いかけるのは危険だ。
「あんた、大丈夫かっ!?」
通行人がゾランに声をかけてくる。
「だ、大丈夫です……」
ホッとしたが、見知らぬ人に近づかれるのは、少し怖かった。
ザワザワと、周囲が騒がしくなる。衛兵を呼べと、怒声が飛ぶ。
「何の騒ぎ……ゾラン!」
「エセ、ライン」
エセラインの顔を見て、ゾランはようやく緊張を解いた。途端に、ドッドっドッドと、心臓が激しく脈打つ。ぶるり、背筋が震えた。
「ゾラン、血が……!」
エセラインが青い顔をして、ゾランの手を握った。
「だ、大丈夫。思ったより、浅かったっぽい……」
「誰にやられた?」
「わ、かんない……。知らない、男」
エセラインがハンカチを取り出し、ゾランの傷を縛った。
「特徴は?」
「茶色の瞳に、紺碧の髪……。少し、服が汚れてた。そう言えば、俺がクレイヨン出版の記者か確認してきた」
「――雇われたか」
「雇われ……?」
どう言うことかと、視線をさ迷わせる。
「ただの強盗じゃないってことだ。……やっぱり、迎えに行けば良かった」
「え?」
「……狙われてると、思ってた。あんな記事が出たから」
エセラインの言葉に、動揺して唇が震える。狙われる。記事。
「記事って……、『宵闇の死神』の? どうして……」
「やっかみ、嫉妬。愉快犯。有名になったから。理由は幾らでもある。『宵闇の死神』の報復もあり得る」
「――報復……」
「俺やテオドレは、自衛出来るから……。魔法屋、付き合うって言ったのに」
「あ――…、もしかして、一人で帰らせないように、してた?」
エセラインの無言は、肯定だと思った。今日だって、わざわざ八番街まで来てくれたのだ。
「ありがとう……。エセラインの顔見たら、安心した」
ゾランの言葉に、エセラインは難しそうな顔をしながら、笑みを返した。