ランチの忙しい時間を避けて、ゾランとエセラインは『クジラの寝床亭』を訪れた。ランチタイムの営業が終わり、人が一番少なくなる時間帯だ。急に訪れたゾランたちに、ミラは目を丸くする。
「どうしたんだい? 何かあったのかい?」
「ミラと話したくて。最近忙しそうで、時間も取れなかったから」
そう言ってゾランたちは店内の丸テーブルに座り、ミラにも座席を促す。エセラインが紙袋を開けて、テイクアウトのコーヒーを差し入れする。
「せっかくだから、仕事モードは抜きにして」
「あら。なんだか悪いわね」
そう言いながら座るミラは、なんだか嬉しそうだ。ゾランがクレイヨン出版に就職して以降、このダイナーはミラが一人で切り盛りしている。休む暇がないのは見ていても良く分かった。
「誰か雇ったりしないの? ミラ、忙しそう」
「そうね。いい出会いがあれば、考えるんだけど」
コーヒーに唇をつけながら、ミラはホゥと息を吐く。近くのスタンドのコーヒーは、値段の割に良い豆を使っているらしく、薫り高く深みがある。
「……もし、下宿させるんだったら、俺出ていくからね」
「いやだゾラン。そんな気を遣わないで」
「でも……」
ゾランの下宿は、ダイナーで働くことが前提だったと思う。それを、未だに好意で住まわせて貰っているのだから、ミラにとっては迷惑かも知れない。もちろん、そんなことはないというのは解っている。
押し問答しそうな勢いの二人に、エセラインが横から声をかける。
「まあ、ゾランだってもっと生活が安定すれば、引っ越しするだろ。前からキッチンが欲しいって言ってたし」
「まあ――そうだけど」
「ああ、そう言えば、そんなこと言ってたわね」
だから、それまでは世話になったら良い。と、エセラインが続ける。それならばミラもゾランもなんの問題もないわけなので、「そうだね」と頷き合った。
「ところで、二人とも仕事の途中でしょう? 大丈夫なの?」
「ちゃんと許可取ってるし、それより友達が元気ない方が、問題じゃん。何かあったの?」
その言葉に、ミラは罰が悪そうに笑って「いやだわ」と首を振る。
「もしかして、心配掛けちゃったの? 大したことじゃないのに」
「ミラのことは、俺にとっては重要。家族みたいなものだし」
「俺にとっても、このダイナーは居心地が良いから」
「二人とも……。でも、本当に大したことじゃないの」
ミラは困ったように笑った。
「大した事ないなら、それならその方が良いけど」
「まあ、なんにせよ話してみたらどうだ? 大したことかはともかく、何か悩みはあるんだろう?」
エセラインが促すと、ミラは躊躇いながらようやく唇を開いた。
「……マルガリータのことよ」
「マルガリータの?」
マルガリータはミラの恋人である。ゾランが『クジラの寝床亭』で働く以前より恋人同士で、ずっと仲の良い二人だ。彼女は普段、近くの花屋で働いている。
「ケンカ――というわけではなさそうだな?」
「ええ。ちゃんと仲良しよ。でも、もう十年も付き合ってるから。色々あるのよ。愛情は変わっていないつもりだけどね」
ミラはそう言って、深いため息を吐いた。どうやら、マルガリータのことで悩んでいるというのは本当らしい。ゾランはホッとしたものの、相談に乗れるかどうかの自信が少しなくなった。今年二十一になるゾランだったが、故郷に居た時も、カシャロに来たときも、色恋とは無縁の生活をしていた。
ゾランが何から話したら良いのか解らず、唇をもごもごさせていると、エセラインが「ああ」と頷いた。
「なんだ。マンネリなのか」
「そういうこと」
肩を竦めるミラに、ゾランは「どういうこと?」とエセラインの方を見る。どうやら、エセラインには伝わったらしい。
「長く一緒に居ると、仲が良くても新鮮さが失われるだろ。ミラはそれに悩んでるんだよ」
「え。そうなの?」
二人で居る時の雰囲気はとても良いので、そんなことに悩んでいるとは意外だった。
「そうなの。来月あの子の誕生日なんだけど。付き合って十年目の誕生日だし、やっぱり特別なものにしたいじゃない? でも、十年も過ごしていると、新しいことというのも難しいのよね」
「な、なるほど……」
ハァとため息を吐くミラに、ゾランは曖昧に頷いた。どうやら、彼女の悩みは大きな問題ではあるものの、緊迫したものではなかったようだ。そのことに、少しだけホッとする。
「最近流行の旅行でも出来れば良かったんでしょうけど。私もマルガリータもお店があるし……」
クスリ、ミラがゾランを見て笑う。ゾランの旅行記を一番に応援してくれているのは、ミラだろう。クレイヨン出版の新聞をわざわざおいてくれているし、来た客に必ずゾランの記事をお勧めしてくれる。ミラはゾランの、カシャロでの姉であり、母である。
「なるほどな。それなら、俺たちが力になれるかも知れないぞ」
「「え?」」
ミラと同時に、ゾランも首を傾げる。ゾランには何のことかさっぱりわからなかった。
「おいエセライン、力になれるって、どういうことだよ?」
「流行の旅行をプレゼントするんだよ」
きっぱりとそう言い切るエセラインに、ミラが戸惑った様子で首を振る。
「エセライン、ありがたいけど、私は店を開けるつもりは……」
「別に、遠くに行くことだけが旅行じゃない」
「それって……」
困惑するミラに、ゾランもピンと来て机を叩いた。
「ああ! そうか。カシャロを特集するんだな?」
「そういうことだ」
意図を理解したゾランに、エセラインは得意げに笑った。
(そうか。灯台下暗しってやつだな。カシャロを特集すれば良かったんだ)
行き詰っていた次の旅行記の候補地。敢えてカシャロを特集しようというのだ。ゾランはエセラインの発想の柔軟さに、舌を巻く。
「任せてミラ! カシャロ、デートスポット特集! 絶対にミラたちが知らないような、穴場を探してくるから!」
「地元カシャロと言っても、最近はリオン王国の文化が入ってきたりと、様変わりした地域もある。忙しい二人なら知らない場所もあるだろう。何しろ、カシャロは広いからな」
「二人とも……」
戸惑う様子のミラに、エセラインが「そうそう」と思い出したように口にする。
「俺たちも、次の旅行記をどうするか行き詰っていたところだったんだ」
「そう、なの?」
遠慮がちなミラの心情を察して、ゾランも頷く。ミラの為だと言えば、ミラは遠慮するだろう。だが、そうではない。そればかりの話じゃないのだ。
「そうだよ。ミラには是非、新しい旅行記が出たら他の人みたいに、俺たちの作った旅行記を片手にデートして欲しいな」
ゾランがそう言うと、ミラはようやく笑って頷いた。
「じゃあ、楽しみにしていなきゃね」
「ああ」
「任せて!」