空の色が茜色から藍色へと移り変わっていく。星明りが灯り始め、家々に明かりが点き始める。
(んー、生活欄の取材も終わったし、今日は事務所に寄らないで帰ろうかな)
取材先の店から出て、ゾランは身体を伸ばした。今日の取材先はチーズの専門店で、三百種類のチーズが常時置かれている店だった。旅行記を書くようになったが、以前の仕事なくなったわけではない。生活欄の記事は、相変わらずゾランが担当だ。
「それにしても、お腹空いた……。今日は何を食べようかな。がっつり肉! って気分」
肉汁たっぷりのハンバーグステーキでも良いし、ニンニクとショウガのきいたポークソテーも捨てがたい。
「あ、皮をパリパリに焼いたチキンステーキも良いなあ」
焼いたチーズをたっぷりかけても美味しい。今日はチーズの取材だったし、そうしようか。思い出してヨダレが出そうになるのを堪えて、ゾランは路地を歩く。路面には夜営業を開始したダイナーやキッチンが、良い匂いをさせている。どの店に入るか悩みながら、フラフラと看板のメニューを眺め歩いた。
「ゾラン」
不意に呼び止められ、ゾランは「はぇ?」と間抜けな声をあげた。振り返ると、エセラインが息を切らして立っていた。綺麗な金の髪が、乱れて跳ねてしまっている。
「エセライン。どうしたの?」
「取材、終わって、……事務所に、お前居なかったから、直帰だと思って」
「お、おう?」
直帰だと、どうしてエセラインがここに居るのだろうか。まさか自分を探して走り回ったのかと、目を瞬かせる。
「え? 探してた? 何かあった?」
「ああ」
エセラインは息を一つ吐き出し、ゾランを見下ろす。まだ、息が整っていなかった。
「一緒にメシと思って」
「え? それだけ?」
「悪いか」
本当にそれだけらしく、エセラインはそう言ってフンと鼻を鳴らした。ゾランは呆気に取られたが、トラブルがあったわけではないと、ホッとする。
「良いけど。何か食いたいもの、あるの? 俺は肉の気分なんだけど」
「それで良い」
ゾランは(何なんだ?)と思いながら、追求はしなかった。横目に見るエセラインの横顔は、いつも通りのように見える。単純に、ゾランと飯が食いたいだけだったのかも知れない。
「っていうか、誘いなら先に言ってくれれば、事務所に寄るのに」
「ああ、確かに。そうだな。じゃあ、そうしてくれ」
(そうしてくれとは?)
なんの話だ。と思いながら、面倒そうな雰囲気がするので、それ以上は突っ込まなかった。いつも通りに見えるが、実はそうでもないのかも知れない。
ゾランは横を歩くエセラインの前に身を乗りだし、くるりと振り返った。目の前に飛び出してきたゾランに、エセライン足を止める。
「なんだ――」
「えい」
腕を伸ばし、エセラインの額に手を当てる。手のひらから伝わる温度は、やや熱いような気がしたが、走って来たせいだろう。エセラインが驚いた顔をして固まった。
「ん、熱はなし、と」
「な、なにを」
エセラインは唐突なゾランの行動に動揺して、声を上ずらせる。心なしか、耳が赤い。だが、熱はないはずだ。
「んー、何か変じゃん? エセライン」
「……別に変じゃない」
ゾランがむぅ、と唇とがらせるのに、エセラインはフイと顔を背ける。ゾランはその様子が、少し子供っぽいと感じた。普段はクールなエセラインなので、珍しい。
「そっかなー。あ、そうだ」
ゾランはふと、今朝のことを思い出した。エセラインのことは気になったが、今朝のことはもっと気になっている。
「なあ、この辺りで甘いもの買えるとことない?」
やはり甘いものが欲しいだろうと思いつき、エセラインに尋ねてみる。エセラインはカシャロ出身なので、街のことはゾランよりも詳しい。とはいえ、食いしん坊のゾランもかなり街には詳しいのだが。
「甘いもの? 甘いものが欲しいのか?」
「うん。今朝、ミラの様子がおかしかったでしょ? 手土産に甘いものでも持って、ちょっと話そうかと思ってさ」
ミラは単に、ダイナーの店主と客の関係ではない。ゾランは『クジラの寝床亭』に下宿している身だし、クレイヨン出版社に入るまでの短い期間ではあったが、ダイナーで働いていた。ゾランにとって、姉のような存在でもあるのだ。
『クジラの寝床亭』で食事をしても良いのだが、忙しい時間には話しにならないだろうし、なにより食事しながらというより、ゆっくりお菓子とお茶くらいで話を聞いた方が良いだろう。
「ああ、俺も気になっていたんだ。一緒に俺も話を聞こう。近くにハチミツとアーモンドをたっぷり使ったケーキが美味い店がある」
ハチミツとアーモンドのケーキは、ずっしりした重さのある、定番のケーキだ。甘さが強いので、薄く切ってコーヒーと一緒に食べるのがとても美味しい。
「良いね。深刻なやつじゃないと良いんだけど」
いつも元気で働き者のミラなので、珍しい。そんなことを言いながら、ゾランたちはベーカリーでケーキを買うと、レストランへと向かったのだった。