行きつけのバーで酒を注文するなり、店主がテオドレに言い放った。
「臨時収入あったんだろ? いい加減、ツケを払ってくれないか」
注文した酒を用意する素振りもなく、店主はグラスを磨いている。テオドレは顔をしかめてカウンターに寄りかかった。
落ち着いた雰囲気のこのバーは、カシャロ市内にある古い店だ。地下にあるバーは隠れ家のようで、知っている者はあまり多くない。いつでも客は二三人ほどで、その多くが一人静に飲むような客だった。今日は時間帯のせいか、今にも降りそうな空模様のせいか、客はテオドレ以外にいない。
「……なんで臨時収入のこと、知ってるんだよ」
万年火の車な家計事情のクレイヨン出版社だったが、旅行記のヒットが続いているお蔭で、最近は少し景気が良い。取り扱い先も増えたお蔭で、滞納していた家賃も払えたようだった。社員の給料を上げるほどには回復していないが、それでも還元したいと、社長のラドヴァンが臨時収入を渡したのが、今日の昼間のことだった。いくら耳が早い店主とはいえ、情報が伝わるのが早すぎる。
「ルカが言ってきたのさ。今なら金持ってるから、取り立てた方が良いってね」
「あの糞やろう……っ」
クレイヨン出版社の経理であり、ラドヴァンの秘書でもあるルカは、同じくこのバーの常連だ。どうやら先回りして、店主に告げ口したらしい。
いつも経費の件でやりあっているルカには、勝った試しがない。その上、こうして告げ口されるのは嫌がらせとしか思えなかった。
懐事情を知られているのでは、ツケで飲むことは難しい。今後を思えば、払うしかなく、テオドレは嫌そうに顔をしかめながら、懐の財布からバレヌ硬貨を取り出した。
テーブルに置いた金を回収し、店主は「確かに」と笑ってから、ようやく酒を出してくる。テオドレがいつも注文するのは、大量生産の安酒だ。酒精の強さしかないような酒を啜って眉間にしわを寄せるテオドレに、店主が声をかける。
「最近、景気良いのかい?」
「どうだか。多少売上が伸びたっていっても、弱小出版社には変わりねえ」
カランと、グラスの中の氷が音を立てる。琥珀色をした酒が喉を通る感触に、フゥと息を吐く。鼻から抜ける薫りに、樽の匂いが僅かに混ざる。
「ところでアンタ、あの『宵闇の死神』と遭ったんだって? よくもまあ、生きてたねえ」
「悪運が強いんだろ」
(まあ、二回も『宵闇の死神』に遭遇して生きてるのは、オレくらいのものか……)
悪運が強い。というのは軽口のつもりだったが、事実として、テオドレは悪運が強かったのだろう。
冒険者だった頃、ある貴族の護衛をした。後ろ暗い噂のある貴族だったが、貴族の依頼を断るのは難しい。気乗りのしないその依頼で、テオドレは長年連れ添った仲間を喪った。
その貴族は、『宵闇の死神』に目をつけられていたらしい。貴族を狙った『宵闇の死神』は、護衛の冒険者もろとも、貴族を殺害した。『宵闇の死神』は大抵、その場にいたものを皆殺しにする。使用人も、たまたま居合わせた客人も、生き残った者は殆ど居ない。
テオドレが助かったのは、偶々だ。戦闘中に崖から転落し、意識を失った。テオドレが死んだと思ったのだろう。実際、生きるか死ぬかの大怪我だった。脚には後遺症が残り、今でも雨の日には酷く痛む。
あの時、死んでいたら。そう、何度も思った。生き残ってしまった者は、何をすれば良いのだろう。罪を背負ったような気持ちと、何かをしなければならないような責任が、テオドレの心にのし掛かる。
暗い気持ちを振りきるように酒を飲み干し、グラスをカウンターに置く。昔話を思い出したせいか、右足が痛む気がした。
「じゃあ、邪魔したな」
「またなテオドレ。ツケじゃなきゃ、もっと歓迎してやるのに」
見送りの言葉に、テオドレは肩を竦めた。
◆ ◆ ◆
店を出て地上への階段を上ると、藍色の空から雨が降ってきていた。石畳が濡れ、家々の明かりが反射している。
「あ、クソ。雨かよ……。どおりで……」
テオドレの脚は、雨が降ると鈍く痛む。痛みは過去を思い起こさせ、テオドレを暗い気持ちにさせた。
(クソ。ついてない)
ブティックの店先の帆屋根の下で雨を凌ぐ。店はすでに閉まっており、明かりはついていなかった。夜の街は静かにふけ、どこからか夕食の準備をする匂いが漂っている。
若干、空腹を感じたが、どこかに入る気にならない。テオドレは自炊などしないので、家には寝に帰るばかりだ。酔いつぶれて、店で目を覚ますことも多い。
バーに戻ろうかとも考えたが、別れ際を思うと引き返す気にもならなかった。溜め息を吐き、濡れる覚悟で路地に出ようと思った時だった。
雨宿りの仲間か、軒先に飛び込んできた陰に、顔を上げる。見知った顔があって、目を見開いた。
「テオドレ?」
「――ルカ」
同僚のルカだ。友人というほど親しいと思ったことはないが、同僚という名では語れぬ距離感の、クレイヨン出版社の仲間である。買い物帰りなのか、紙袋を抱えていた。ミルク色の髪から、雫が零れている。
「お酒臭い。また飲んできたんです?」
顔をしかめながら、ルカは地下の入り口に目をやった。互いに、この店の常連だが、一緒に飲んだことはなかった。
「一杯だけだ。っていうか、お前、酒場のマスターにチクっただろう!?」
「ツケを清算するのは当然だと思いますけど?」
「はっ。せっかくの酒が、不味くなるじゃねえか」
「あなたが飲むのは安酒でしょう? それに、どうせなら、ちゃんと稼いで飲んだ方が、美味しいでしょう? 気持ち良く飲みたいなら、稼ぐことですよ。元エースライターさん?」
挑発するような物言いに、テオドレは肩を竦める。そんな言葉に苛立つほど、若くはない。テオドレはエセラインが入るまでは、新聞社の花形である一面を担当することが多かった。だが、それは人が居なかったからだ。ライターは社長のラドヴァンとテオドレ。それに、出産で退職した女性ライターだけしか居なかった。現在はゾランが入り、クレイヨン出版社のライターは四人である。
「煽るな。腹立つ……。そもそも、四人しかライターがいない出版社で、なにがエースだよ」
「今度はゾランに追い抜かされそうですね。彼の旅行記、評判ですから」
「良いことだろ」
旅行記はゾラン――。正確には、ゾランとエセラインの二人による企画だ。冒険者だったテオドレは、旅など楽しいものだと思ったことがなかったが、世間ではそんなことはなかったらしい。ゾランの暖かみのある記事も、良い効果を生み出しているのだろう。テオドレが旅行記を書いても、ああはならないだろう。あの記事は、ゾランにしか書けないと思う。
「あら。悔しくないんですか?」
「喜びこそすれ、妬むわけないだろ」
後輩の成功は、会社の成功だ。しかも臨時収入まで出ているのだから、妬む理由がない。テオドレはライバル意識などないし、働かないで給料が出るのならそれで良いと思っている。ルカは発破をかけて、テオドレにやる気を出して欲しいのかも知れないが、テオドレはそういうタイプではない。
テオドレの反応に、ルカは溜め息とともに肩を竦めた。
「まあ、あなたはそういう人でしたね」
そういうことだ。と、頷いた瞬間。
漆黒の空から、ザアッ、と雨粒が降り注ぐ。雨足は弱まるどころか、強くなる一方のようだ。
「うわっ……。スゲー降ってきた……」
鈍く痛む脚を気にして、テオドレは顔をしかめた。こんなに降ってくるなら、先ほど走って帰れば良かった。こう雨が酷いと、テオドレの脚はいうことを聞かなくなってくる。
空を見上げるテオドレに、ルカが口を開く。
「……良かったら、うちに来ますか?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、ルカを見てテオドレは固まった。間を置いて内容を理解し、間抜けな声を漏らす。
「は?」
テオドレとルカは、気の知れた間柄とは言いにくい。一緒に飲んだこともなく、当然、家に誘われたことなど一度もなかった。
「今からシチューを作る予定なんです。ご馳走しますよ」
言い訳のような台詞を並べるルカに、テオドレは驚いたままじっとルカを見る。もしかしたらルカ自身も、なぜそんなことを言ったのか、分かっていないのかも知れない。
「なんで……」
「すぐそこですし、食べ終わる頃には、雨も止んでいるでしょう。あ、もしかして警戒してるんですか? 襲ったりしませんよ?」
「誰が警戒なんかするかっ! 小娘じゃあるまいにっ!」
軽口に言い返して、テオドレはハァと溜め息を吐いた。なんだか、おかしなことになってしまったが、いつもの調子に戻ったような気もする。
ルカはいつも通り、テオドレが
「早く行きましょう。雨の中立ち話してたら、濡れちゃいます」
「……じゃあ」
既にルカは、テオドレが行くことを決めてしまったようだ。このまま止む気配のない雨を見ていても仕方がない。ルカの提案に乗ることにする。
「あ、ジャガイモの皮くらい、剥くのっ手伝って下さいよ?」
「わーかったよ。クソ」
「クソは余計です」
雨の降り注ぐ街に、いつものやり取りがこだました。
幕間 終わり