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幕間1 初めての旅行



 馬車から降りると、潮の香りが鼻腔をくすぐった。強い風に帽子を飛ばされそうになって、デボラは若い娘のように、「きゃあ」と声をあげる。スカートがひらめいてバサバサと大きな音を立てた。


「おっと。大丈夫かい、デボラ」


「ああ、あなた。ふふ。聴いていたとおり、海風が強いのね」


「足元に気をつけて。母さんも」


 夫の手を借り、デボラは馬車から降りる。初めての旅行とあって、めかし込んできたデボラを、街の人間が興味深く見てくる。その視線さえ、くすぐったい。


「お義母さま、手伝います」


「ああ、悪いね。良い景色だ」


「本当に」


 デボラは義母の手を取り、美しい街並みを見上げる。首都カシャロこそが最高の街だと想っていたが、このソングリエという街も、なかなかに美しい。カシャロが質実剛健な美しさと例えるなら、ソングリエは海のような優美さをそなえた美しさだろう。


 デボラ・ワルワラは、小さな雑貨店に嫁いだ女だ。ほうきや日用品を売る雑貨屋だけの収入では食べていけず、不動産にも手を出している。今ではそちらの方が、収入が多い。


 世間一般に旅行といえば、貴族や裕福な商人など、一握りの人間が、それも避暑などの目的でするのが普通のなか、夫人たちのように一般市民が旅行するのは非常に珍しい。これは、最近カシャロでブームになりつつある、クレイヨン出版社が書いた旅行記による影響が大きかった。


 旅行記が出版されるやいなや、娯楽に餓えていたカシャロの市民たちは、旅というものに夢中になった。旅行記には道中の様子や旅の心得、危険な地域とそうでない地域。地方のしらざれる文化や祭り、名所や料理など、面白おかしく、丁寧に描かれていた。


 市民たちは旅行記を読みながら、夢想した。こんな風に旅をしてみたい。見知らぬ土地を知りたい。この料理は、どんな味なのだろう。


 カシャロの市民たちの行動は、大きく分かれた。あるものは自分達もここに行ってみようと行動し、あるものは名物を再現する屋台を出した。あるものは憧れを口にしても行動できず、あるものは旅行そのものを否定した。つまり、市民の話題は旅行で持ちきりだった。


 地方にまでは、まだその波は届いていないようだったが、カシャロ市民のブームは今、旅行記が独占していた。デボラもまた、その一人で、先日までは憧れを口にしても行動できない市民の一人だったのだが――。


「この、ソングリエ紀行は素晴らしいね。僕たちにもこうして、旅行の機会を与えてくれた」


「ええ、本当に」


 夫の言葉に、デボラは頷いて夫の腕に腕を絡めた。クレイヨン出版社が新しく発行したソングリエ紀行は、素晴らしかった。ソングリエという都市は、カシャロから馬車で四時間ほどの距離しかない。以前に特集された、アシェ鉱山は、途中の村で一泊しないとたどり着かない。旅行経験のないデボラたちにとって、ハードルが高かったのだ。


(それに、山と違って大きな街なら、お義母さんの足も心配が少ないし)


 デボラの義母は、口も立つし矍鑠としているが、半年前に転んでから、歩くのに不安がある。その為、旅行に行ってみたいと話題にしていても、夫は消極的だった。そんな時、ソングリエ紀行が発行されたのだ。


 馬車の旅は不安もあったが、思いの外快適で、義母の方もむしろ元気になったようだ。転んで以来、外出を控えていたのが、逆に良くなかったのかも知れない。顔色はいつもよりずっといいように見えた。


「ねえあなた。またお義母さんも一緒に、旅行しましょうね」


「もう次の話かい? 気が早いな」


 ハハハ。と笑う夫も、満更でもない顔をしていた。




   ◆   ◆   ◆




「ええっ。ソングリエに行ってきたんですか?」


 クレイヨン出版社が入るビルのオーナーである、ワルワラ夫人から、クッキーの詰め合わせを貰ったゾランは、驚いて目を丸くした。ソングリエ産のカボチャを使った、パンプキンクッキーだ。最近、土産物として流行っているらしい。カボチャの型抜きクッキーには、ソングリエの名前も入っている。


「ええ、そうなの。海が綺麗な良い場所ねえ。沼沢地を回ったり、ブドウ畑を見たり、楽しかったわ。主人は気に入ったワイナリーを見つけてね。うちでも取り扱うことにしたのよぉ」


「へえ、そりゃあ……」


 ゾランは内心、旅先でわざわざワイナリーを訪ねたのかと驚いた。旅先では目新しく想えるのかも知れない。思い返せばソングリエのワインはミネラル質が高いので、カシャロ近郊のワインとは味わいが異なる。魚介が美味しかったソングリエの料理によく合うが、他の料理にはどのように合わせるのだろうと少しだけ興味が湧いた。ワインが入荷したら、購入してみようと心に留めておく。


「もちろん、旅行記に載っていたエイコンスクワッシュの詰め物も食べたわよ。レストラン、二時間も待ったんだから」


「あ、『酔いどれ船底亭』行かれたんですか。美味しかったですか?」


「ええ! カボチャってあんなに美味しいのねえ。うちでも真似してみたんだけど、同じようには出来なかったわ」


「ソングリエ産のカボチャは別格ですからね」


『酔いどれ船底亭』の近況を知れたことは、素直に嬉しかった。あの閑散としていたレストランは、今では裏路地にあるとは思えないほどの盛況ぶりで、連日たくさんの人が訪れているらしい。従業員も新たにやとって、ソングリエでも指折りの人気店になったようだ。


(『宵闇の死神』の影響で、訪れるひとが減るんじゃないかと心配してたけど、杞憂だったみたいだな)


 ゾランはホッと胸をなでおろす。明るい話題は、少しでも多い方が良い。


「あれからすっかり旅行に興味が湧いちゃってね。主人とアシェ鉱山にも行ってみようかって話しているのよ。ゾランたちが、また旅行記を書いたら、必ず買わせてもらうわね」


「ありがとうございます」


 お世辞でなくそう言ってもらえるのは、嬉しい。ゾランは土産のクッキー缶を抱きしめ、なんだか若くなったような気がするワルワラ夫人に挨拶をして、出版社の階段を駆け上がって行った。



幕間 終



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