「遅いな」
テオドレの言葉に、エセラインはぐっと拳を握りしめた。先ほどから、ゾランが戻ってこない。もう十分以上経っている。エセラインは不安で、ソワソワと足を揺らす。いくら何でも、遅すぎる。
(何やってんだ……アイツ……)
ゾランが情報収集のために席を立ったのは明白だった。こんなことなら、自分が行けば良かった。それか、ついて行くべきだった。何かあったのかも知れないと気が気じゃないエセラインに、テオドレの方は冷静だった。指先でテーブルを叩き、エセラインに合図を送る。それに気づいて、エセラインは視線をテオドレの指先に向けた。冒険者同士が連携を取る際に使う、コミュニケーションの一種だ。ハンドサインに、エセラインも小さく頷く。
『落ち着け。バレたならこっちにも動きがあるはずだ』
(……確かに、それもそうか……)
ハァ、とため息を吐く。何処に行ったのかは知らないが、レストランの方に変わった動きはない。エセラインたちの方へ誰かが来ることもない。ゾランがバレたというわけではないのだろう。だが、これだけ遅いのだ。何かあったとは見るべきだ。行動力があるのは良いが、危険な目に遭ったらどうするんだ。そう思い、ため息を吐く。
『どうするんだ。いい加減、ゾランが居ないことを怪しまれるんじゃないか?』
『まあ待て。オレに考えがある』
そう言って、テオドレがグラスを倒した。床にグラスが落下し、けたたましい音を立てる。
「あっ! しまった!」
床にガラスが散乱し、飲みかけのワインが壁に飛び散る。給仕の男がすかさず近づいてきた。
「お客様、こちらは私が片付けますので。お怪我はありませんでしたか?」
「済みません、こんな高そうなグラスを……」
給仕の目が離れた隙に、テオドレがエセラインにハンドサインを送る。エセラインは立ち上がり、個室を出ると近くにいた女給に声をかけた。
「済みません、ワインをこぼしてしまって。何か拭くものを頂けますか?」
「あ、はい。少々お待ちください」
女給が離れていくのを確認し、ホールを横切る。グラスを片付けている給仕は、エセラインが部屋を抜け出したことに気づいていない。テオドレが気を引いているうちに、ゾランを探しに行くしかない。ホールには、ゾランの姿はない。エントランスにも目を走らせるが、どこにもいなかった。トイレのある奥の回廊へ進み、人影がないのを確認する。
(居ない。あとは、トイレくらいしか……)
トイレに入り、個室の扉を叩いていく。紳士が怪訝な顔をして横を通り過ぎて行った。
「……居ないぞ。おい……」
トイレの窓を開け、外を確認する。地面までおよそ二メートルと言ったところか。窓から外へ出たということもなさそうだ。エセラインは念のため、窓の鍵を開けたままにしておいた。
(あとは、奥の扉くらいだが――)
奥の扉はバックヤードに続いているようだ。さすがに、そこに侵入したとは思えない。扉の奥には人の気配があった。頻繁に出入りがあるのだろう。
(何か、違和感があるような気がするのに……)
その原因が、解らない。神隠しにでもあったように、ゾランが消えてしまった。
「くそ……」
小さく呟いて、回廊を出てホールに戻る。と、丁度テオドレが個室から出てきたところだった。その後に、料理長らしい男と老紳士が続いている。ニコニコ顔の料理長を見るに、テオドレが上手く言いくるめたらしい。
エセラインが戻ると、テオドレが大げさに笑いながら声をかけて来た。
「おお、戻ったか。やっぱり『酒舗・黄金の櫂』は噂通り最高だったな! こりゃ、代表は『酒舗・黄金の櫂』で決まりだ。だろ?」
「――そうだな」
話の流れが解らないため、適当に合わせておくことにする。テオドレがハンドサインで『撤収』とだけ送って来た。
「お楽しみいただけたようで、何よりです。お連れ様は、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だろう。あまりの美味さに、胃がびっくりしたのかも知れません。グラスも申し訳なかった。本当に良いんですか? 弁償しますが……」
「いえいえ。あのグラスは『酒舗・黄金の櫂』の名が入った特注品ですので」
「流石。一流はいうことが違いますね」
二カッと笑いながら、テオドレがエセラインを促す。後ろ髪をひかれるものがあったが、これ以上ここに居座り続けるのは不自然だ。撤収するしかないだろう。
挨拶を交わし、『酒舗・黄金の櫂』から出る。エセラインは豪奢な扉が閉じるのを、じっと見続けていた。