コーヒーの匂いとパンの焼ける匂い。朝から『くじらの寝床亭』は賑わっている。向かいのテーブルにいつものように腰かけながら、エセラインが参ったというように肩を竦めた。
「昨日の雨は散々だったな。お前は無事だったか? ゾラン」
「止むまでずっと、事務所で資料読んでたよ。それでなんだけど」
昨日の雨は、夜の九時を過ぎてようやくおさまった。エセラインは結局、直帰したので、逢うことはなかった。ゾランは鞄の中から資料を取り出し、サンドイッチの乗った皿を避けてテーブルに乗せた。
「これは?」
「紙の街ソングリエの地図! 知ってるか? ソングリエ」
「聞いたことはある。コルクだとか木材パルプを作ってる場所だろう。それがどうした?」
エセラインの言葉に、ゾランはふふんと胸を張る。
「ソングリエは、紙だけじゃない。農作物も豊富なんだ。海に近い温暖な気候。広い土地。気候条件がマッチして、広大な畑とブドウ畑、リンゴ、梨、それに酪農も盛んで、羊毛や肉も豊富!」
「なるほど――。しかも、カシャロからそう遠くないか」
ゾランが言わんとしたことが解ったようで、エセラインも地図を覗き込む。ゾランは地図にある沖合の島を指さした。
「沼沢地に囲まれた島は、綺麗な場所だって聞いてるし、良いところなんじゃないかな。それに何と言っても、
「スクワッシュ料理?」
「カシャロにもたくさん、ソングリエ産のスクワッシュが入荷するだろ。スクワッシュといったらソングリエ。国中のかぼちゃは、多分殆どソングリエ産だ」
「さすが、食いしん坊……」
「おい」
ゾランは食いしん坊と言われ、唇を曲げた。その通りではあるのだが、指摘されると恥ずかしい。こほんと咳払いして、気を取り直す。
「と、とにかくっ。これだけの産地だもん、地元ならではの料理とかがありそうだろ? ヒクイドリのクリームスープの時みたいにさ」
「まあ、一理あるな」
「じゃあ」
「ああ。次の旅行記は、紙の街ソングリエにしよう」
エセラインの一言に、ゾランは笑みを浮かべて手を差し出した。エセラインは一瞬なんのことか解らなかったようだったが、すぐに気がついてぎこちない笑みを浮かべると、ゾランの掌に自身の掌をパンと打ち合わせた。
◆ ◆ ◆
四番町から出発する馬車を乗り継ぎ、南東へ向かう。なだらかな丘陵地帯を抜け、王都カシャロ周辺の農作地を横目に川沿いに走る。バレヌ河という巨大な運河は、王国南東部の輸送の要であり、川沿いに多くの集落がつくられている。それもあって、南東部は街道が整備され、馬車も揺れが少なく速度も速かった。
「アシェ村に向かった時よりも、ぐんと速度が速いね」
ゾランはカメラの調子を確認しながら、横に座るエセラインに声をかけた。揺れが少ない馬車の旅は、以前にアシェ村に向かった時よりもずっと快適だ。エセラインは乗り合わせた行商の老婦人から柑橘の果物を買うと、皮を剥いて半分ゾランに差し出す。
「ああ。それに南東部は交通の要所ということもあって、モンスターも定期討伐が行われている。穏やかで、過ごしやすい場所だな」
「良いなあ。老後は南部に畑でも買って、のんびり過ごそうかな」
「良い考えだ。まあ、ゾランの場合、大人しくしていられるか微妙なところだが」
「どういう意味だよ。んっ、酸っぱっ」
柑橘の酸っぱさに顔を顰める。だがすぐに爽やかな香りが鼻を抜けていくのに、もう一房口に含んだ。
「そのままの意味だろ」
どう思われているのだろうと首を傾げながら、房を口に運ぶ。馬車の旅は長閑だった。遠くには牛飼いが牛を連れて歩いているのが見える。
「馬車ももっと出てれば、旅行も盛んになるかな」
「だろうな。今は町を出る市民は商人くらいのものだし」
街道が整備され、冒険者がいるとはいえ、ひとたび街道から外れればモンスターが襲ってくるし、馬車に乗っていないとまず襲撃される。大抵のモンスターは、集団でいる人間を襲わない。旅行には馬車が必須なのだ。
旅行について談笑していると、馬車の手前の方がにわかに騒がしくなった。乗り合わせた男が楽器の演奏を始めたようだ。音楽に合わせるように手を叩き、歌声が上がる。見たことのない楽器に、鮮やかな刺繡の入った民族衣装を着ていた。
「リオン人かな」
「かもな」
隣国のリオン国の民族衣装が、あんな感じだったと記憶している。遠い国にわざわざ出稼ぎに来ているのか、情勢の悪い自国から流れて来たのか分からない。こんなところにも他国の人間がいるのだと、音楽に手を合わせながらそんなことを思った。