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第9話 通り雨



 重いため息を吐いて、ゾランは古びた手帳の表紙を撫でた。曇天のせいで周囲は薄暗く、テラス席にはゾラン以外に利用客が居なかった。気分が落ち込んだ時にはいつもここでゆっくりとお茶をするゾランだったが、今日は天候のせいか気分が浮上することはなかった。


「ハァ……」


 もう一度ため息を吐いて、頬杖をつく。手帳を捲るとびっしりとメモ書きがされており、この手帳がどれほどの汗と努力の結晶であるかが伺える。ゾランはこの手帳を、暗記するほど読んでいた。緻密な取材と、ラウカの思考の証。最初のページには丁寧な文字で、文章が綴られている。


『ヴェリテ・スクへ愛を捧げる。ともに真理を追い続けよう』


 この言葉には、偽りなく、ラウカの心が書かれているとゾランは思っている。あの日、ラウカとであったあの日、彼自身が言っていた言葉も相まって、強烈にゾランの中に染み込んでいた。


「真理……、か……」


 ポツリ、呟く。表紙を閉じ、もう一度ため息を吐いて頬を両手で叩いた。


(期待してた反応じゃなかったからって、なんだ。俺がやることは変わらないだろ、ゾラン)


 この手帳は受け取って貰えなかったが、ゾランには返却の義務がある。だって、約束したのだから。ちゃんと記者として向き合ってもらえるようになったら。『旅行記のライター』ではなく、『ゾラン・エリシュカ』として向き合えるようになったら、その時こそ、約束を果たすのだ。


「それまで、へこたれてちゃダメだよなっ。うん!」


 気合いを入れて拳を握りしめた時だった。ポツポツと、空から雨粒が零れ落ちて来る。あっという間に地面を濡らす雨に、ゾランは慌てて立ち上がった。


「うわっ! 濡れる濡れるっ!」


 手帳を抱え、濡れないように懐に抱くと、ゾランはカフェテリアを後にした。




 ◆   ◆   ◆




「うひ……、凄い、濡れたし……」


 ぐっしょりと濡れそぼった服が、肌に張り付いて気持ち悪い。ゾランは水が入り込んでぐっぽぐっぽと音を立てるブーツを引きずりながら、クレイヨン出版の扉を開いた。


「ただいま~……」


 うへぇ、と呻きながら部屋に入るゾランに、ルカが驚いて目を見開く。


「ああ、ゾラン。酷く濡れましたね」


「ルカ~。最悪だよ。今日降る予定じゃ無かったよね?」


「この季節は風が読みにくいですからね。シャワーを使って、身体を温めて。着がえは用意しておきますから」


「ありがとう、ルカ」


 床に足跡を残しながら、ゾランはシャワー室へと向かった。




 ◆   ◆   ◆




 シャワーから出ると、すぐ横の棚にタオルと着がえが置かれていた。ありがたく借りて、乾いた服に袖を通す。


「靴もびしょ濡れだし……。止むのかな、この雨」


 家に帰ってもまだやみそうにないなら、このまま事務所に泊まってしまおうか。そう考えながら、シャワー室から外に出る。事務机の周りには誰もおらず、来客用のソファのところに、テオドレが顔を顰めて座っていた。書類をローテーブルに拡げて、難しい顔をしている。


 先日の件があってなんとなく気まずかったゾランは、テオドレには声をかけずに人の気配のあるキッチンの方へと向かった。


「ルカ、着がえありがとう。何してるの?」


「いえいえ。ホットミルクを作ってるところです」


「ミルク?」


 横から覗き込むと、ミルクパンでゆっくりと暖められているミルクから、甘い香りとラベンダーの匂いがした。ラベンダーとはちみつが入っているようだ。


「社長は?」


「今日は挨拶回りをして、そのまま直帰だそうです。エセラインはこの雨ですから、今日は戻らないかも知れないですね」


「そっか」


 ルカは言いながら、マグカップにミルクを注いだ。カップを二つトレイに載せて、ゾランに差し出す。


「私は片付けがあるので、テオドレに持って行って下さい。ゾランもどうぞ。身体が暖まりますよ」


「えっ。俺?」


 テオドレに何となく顔を合わせづらく、ゾランは顔を引きつらせた。ルカはそんなゾランに気づいていない様子で、静かに頷く。


「ええ。あの人、強がってますが雨の日は古傷が痛むはずなんです。ですので」


「古傷?」


「聞いていませんか? テオドレは、元々冒険者だったんです。怪我が元で引退して、うちに来たんです」


「そう――だったんですか」


 そう言えばテオドレは、いつも足を庇うように歩いていたのを思い出す。トレイを受け取り、ゾランは来客用のソファの方へと足を向けた。


「……」


 よく見ると、テオドレの表情がいつもより厳しい。怒っているようにも見える。ルカの言うように、傷が痛むのかも知れない。


 ゾランは向かいの席に座った。テオドレが気づいて顔を上げる。


「あん?」


「ルカから差し入れだよ」


「ああ――……」


 ゾランがマグカップを取って啜るのに、テオドレもマグカップに手を伸ばす。ラベンダーの香りがふわりと鼻を擽った。一口含むと甘い味が舌いっぱいに広がって、優しい風味を残す。じんわりと身体の内側から暖かくなるようだった。


 テオドレはミルクを啜りながら、仕事を再開する。ゾランは追い払われなかったので、そのままその様子を、ミルクを飲みながら眺めていた。膨大な資料と、精緻な図。記事のまとめ方はクレイヨン出版で一番細かく、丁寧かも知れない。


(うーん。関税とか流民とか、そっちの話か。シヤン王国に、内紛中のリオン国。国際関係の記事も、テオドレだもんね)


 ドファン港、スリ村、州都ラモンタン……。記事を横目で盗み見しながら、ミルクを啜っていると、ゾランの瞳に一つその名前が飛び込んできた。


(ソングリエ――紙の街ソングリエか)


 そこまで考え、ゾランはハッとして立ち上がった。急に立ち上がったゾランに、テオドレが怪訝な顔を向ける。


「そうだ! これだっ!」


 ゾランはマグカップを置くと、資料室へと駆けこんだ。







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