赤い髪が風になびく。あの夏の日みた背中そのままに、ラウカが立っていた。
(ラウカ――!)
心臓がバクバクと鳴り響く。胸に熱いものがこみ上げた。
ラウカ。ラウカ・ハベル。
若くしてラウカ出版を立ち上げ、過激な記事で悪党を断罪していく、まさにペンの剣を持つ男。ラウカにすっぱ抜かれ、地位を失ったものは多い。悪は断罪するが、冷やかしのようなゴシップは書かない。それが、ラウカ出版だった。
この背を追って、ゾランはここまでやって来たのだ。
(な、なんでラウカが……)
ゾランは動揺して、瞳を揺らした。ラドヴァンと知り合いなのだろうか。なんと声をかけようか。
(そ、そうだ、手帳……っ)
ゾランは鞄に手を突っ込み、いつも持ち歩いている古びた手帳を取り出した。今ではゾランのお守りのようになっている、ラウカの手帳。忘れ物。いつか一人前の記者になったら、この手帳を返す。そう約束して、ここまでやって来た。
今が、その時なのではないか。そう思い、ゾランは思い切って足を踏み出す。
「あのっ……!」
ゾランの声に、向かい合っていたラドヴァンとラウカが、ゾランのほうを向いた。
「ゾラン! お帰り」
「――『海鳴り』……。君は?」
ラウカがゾランの腰に挿した杖を目にして、呟く。ラドヴァンの杖だと知っているのだろう。ゾランは両腕で手帳を抱きしめた。
憧れの人が、目の前にいる。あの頃より、少し雰囲気が変わっているようだ。油断ない表情の中に、少しだけ好奇心の光がある。その光は、あの頃のままだ。
「ゾ――ゾラン、クレイヨン出版の、ゾラン・エリシュカです。俺――」
ラウカは、覚えているだろうか。あの日のことを。故郷の村でのことを――。
「ああ。君が『旅行記』のライターか。オレはラウカ。ラウカ・ハベル」
(あ――)
ラウカが手を差し出す。その手をぎこちなく握り返して、ゾランは視線を落とした。
「知ってます。俺、ラウカのファンで……」
(覚えて、ない……)
覚えていない。覚えていないのだ。
ゾランにとっては、人生を変えるほどの大きな出来事だった。だが、ラウカにとってはただ単に、取材に立ち寄った村で起きた些末な出来事に過ぎないのだろう。期待していた自分が、少し恥ずかしくなった。
「旅行記、読ませて貰ったよ。実に面白い試みだ。どんな人が書いているのか、興味が湧いてね」
ラウカがそう言って作り物めいた笑顔を浮かべた。ラドヴァンが嫌そうに顔を顰める。
「おいラウカ。うちの新人、引き抜こうとしてるんじゃないだろうな」
「ハハ。そんなことしないさ。クレイヨン出版の内情は知っているしね」
「あ、あの……社長と、知り合いだったんですか?」
ゾランの問いに、ラドヴァンが肩を竦める。
「知り合いというほどでもないけどね……。まあ、同じ業界の人間だから」
「ラドヴァンが『剣を掲げよ』に居た頃に、勧誘を受けたのさ。まあ、オレは記者になる道を選んだから。だから、ラドヴァンが出版社を立ち上げたときは驚いたよ。どうせなら、うちに来てくれれば良かったのに」
(ラウカ、S級冒険者クランに誘われてたのか。まあ、ランク5魔法使いじゃ、当然か)
ラウカが最高レベルのランク5魔法使いであるのは、有名な話だった。数ある冒険者クランがラウカ獲得に動いたらしいが、結局ラウカは冒険者になることも、貴族のお抱えになることも選ばず、ライターになった。それもあって、ラウカ出版は立ち上げから大きな注目を浴びたのだ。ラウカが過激な記事を書いてもやって行けるのは、暗殺者などを跳ねのけることが出来るだけの実力があるからだというのが、もっぱらの噂だった。
「あ、あの。ラウカ。ラウカは覚えてないかも知れないんですけど――」
ゾランはそう言いながら、腕に抱えた手帳を差し出した。ラウカが目を丸くする。
「俺、ラウカに憧れて記者になったんです。ずっと、これを返そうと思ってて――」
「これは――」
ラウカが目を細めた。手帳を受け取り、中身をパラパラと確認する。ゾランは気恥ずかしいような、むずがゆいような、そんな気分になった。
「それと、俺、実はラウカ出版も採用面接受けに行ったんですよ! 結局、落ちちゃいましたけど……で、その時……」
「――これ」
ラウカが徐に、手帳を突き返した。驚いて、反射的に受け取ってしまう。
「あげるよ」
「え?」
「今のオレには必要ないものだし。どうやらゾランくんは大切にしてくれていたようだしね」
「でも――」
言いかけて、ゾランは口を閉ざした。ラウカの瞳が、一瞬氷のように冷たく見えて、ゾクリと背筋が震える。
(え?)
ビクリ、肩を揺らしたゾランに、ラドヴァンが眉を寄せた。
「自分に憧れられるとは、なかなか照れるなラドヴァン!」
「え? ああ――」
ラウカがそう言いながら大仰に笑う。ゾランは無理矢理笑みを浮かべ、手帳を抱きしめた。
(気の、せい……?)
ピリピリと、皮膚が震える。
今のは、何だったんだろうか。
「よく言うよ。自信過剰が服を着て歩いてるようなヤツなのに」
「酷いなあ」
(一瞬、ラウカが……)
氷のように冷たい目をしていたような気がして、ゾランは身体を震わせる。見間違いだったのだろうか。ゾランの知るラウカは、あんな目をしただろうか。
ゾランは手帳を抱きしめながら、乾いた笑いを漏らした。