古びた手帳の、革の表紙を撫でる。ゾランを記者の道に歩ませた手帳。ラウカ・ハベル。首都を代表する新聞社、ラウカ社の創始者、ラウカ・ハベルの忘れ物。
(一度だけ、ラウカ社に行ったんだよな……)
上京したばかりのことだ。ゾランはラウカに手帳を返すため、ラウカ社を訪ねた。結局、本人に逢うことはなかったのだが――。代わりに、重いものを引き受けてしまった。その結果、ゾランは未だに、ラウカに手帳を返せていない。
『あなたが一人前の記者になったと思ったら、この手帳と私からの荷物を、ラウカに渡して頂けますか?』
あの時の約束を、ゾランはまだ果たせていない。
(けど、もしかしたら、もうそろそろ……)
今までは、自分が一人前の記者になったという自覚がなかった。記事を書いていると言っても、生活欄の記事だ。だが、今ならどうだろうか。一面こそ取れていないが、クレイヨン出版の危機を脱するほどの売り上げを伸ばした『旅行記』がある。
もしかしたら――。
ゾランは自分の中の自信が、少しずつ形になっているのを実感していた。
◆ ◆ ◆
「資料室、使います」
そう宣言して、ゾランはクレイヨン出版の内部にある書庫の中へと入って行った。次回の旅行記の舞台が未だに決まっていない。期待が大きいだけに、次の場所を決めるのに慎重になっていた。
今現在、クレイヨン出版に居るのはゾランとラドヴァン、テオドレの三人だけだ。ルカは外回りにいったまま帰ってきていないし、エセラインは自分の記事の取材に出かけている。旅行記部が出来たとはいえ、クレイヨン出版はライターが四人しかいない小さな出版社であることには変わらない。これまで通り、記事を書く必要がある。
ゾランは資料室に入ると、参考になりそうな記事を片っ端から探し始めた。特徴のある土地があれば、そこを舞台にしようと思ったからだ。前回の鉱山では、かつて巡礼地だったという意外性があった。土地の歴史は、その場所に多くの記憶を結びつける。ゾランはそういう、歴史のある場所がないか、探すことにしたのだ。
「うーん、前回は山だったし、次は少し風景を変えたいよなあ……」
思い切って海とか、川とか。水辺はどうだろうか。同じ山でも、湖ならどうだろう。そう思いながら資料を捲っていると、ふと、いつもは鍵のかかっている書架が、開いていることに気が付いた。
「あ……」
施錠されている理由も聞いていないが、それ以上に開いているという事実の方に、気を取られる。吸い寄せられるように、一番最近の日付が書かれたファイルを手に取った。
(……カシャロ銀行頭取暗殺未遂事件……犯人は、『宵闇の死神』――)
『宵闇の死神』という名前に、ドクンと心臓が鳴った。
『俺は、『宵闇の死神』に家族を奪われた、生存者なんだ』
エセラインの声がよみがえる。ドクン、ドクン、心臓が鳴る。別のファイルを開き、書類を捲る。この記事も、『宵闇の死神』だ。ゾランは核心を持って、五年前のファイルを手に取った。ファイルには『ネマニア事件』と記されている。
(大商人ネマニア一家が惨殺。使用人・滞在していた取引相手である商人一家イェリネク氏らを含む三十六名が無残に殺され、邸に火をつけられた――)
イェリネク。その名前に、ゾランは唇を結んだ。エセラインのフルネームは、エセライン・イェリネクだ。アカデミー在学中だったエセラインは、唯一の生き残りだった。
ゾランは込み上げる感情を抑えるようにしながら、記事を目で追う。ネマニア一家はカシャロでも有数の大商人だった。この日は希少品取引を扱うイェリネク家を招待し、取引を行う予定だったらしい。狙われたのはネマニア家。イェリネク家は巻き込まれた形だった。
ネマニア家はこれが原因で没落し、同時に数々の不正が明らかになった。『宵闇の死神』は殺人鬼だが、ターゲットにされた者たちは皆、後ろ暗いことがある。そのため、一部では熱狂的な人気があった。その一方で、悪を裁くという目的のために、使用人や無関係の人まで巻き込む『宵闇の死神』を、批判する声も大きい。
(『宵闇の死神』か――……)
ファイルを閉じようとして、ゾランはその記事がテオドレによって書かれたものだと気が付いた。気になって他のファイルも見て見れば、どの記事もテオドレが書いている。
「これも、テオドレの記事だ……」
微かな違和感に首を傾げている時だった。
「オレがなんだって?」
「っ!」
いつの間にやって来たのか、資料室の入り口に、不機嫌そうな顔をしてテオドレが立っていた。ゾランは驚いてファイルを落としそうになる。テオドレがチッと舌打ちした。
テオドレは無言でゾランの手からファイルを奪うと、元の場所へとファイルを戻し、書架に鍵をかけてしまった。
「あ……」
ゾランが何を言うよりも早く、そのまま背を向けて資料室から出て行ってしまう。ゾランは施錠されてしまった書架に目をやった。『宵闇の死神』の記事と、テオドレ。その二つが、何か結びつくような気がして、仕方がなかった。