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第4話 遠い夏の日



 頬を撫でる穏やかな風。揺れる黄金の麦の穂。どこまでも広がる空には、入道雲が浮かんでいた。暑い、夏の日。水の匂い、草の匂い。今でも、草と水が混ざったあの匂いを嗅ぐと、ゾランはその日を思い出す。ゾランの人生を変え、運命を変えたあの日。


 全ては、七年前の、あの夏の暑い日に始まったのだ。




 ◆   ◆   ◆




 ゾランの故郷サヴォン村は、目立った特産品もない小さな村だった。村人全員が顔見知りというような小さな村で、そのほとんどが農業従事者という、ありふれた村。その村に、ゾランは住んでいた。特別に良い子でもなく、悪い子でもなく、普通の子。目立った事件を起こしたことはなく、優等生でもない。そんな、どこにでもいる普通の少年。それがゾランだった。


 その日は、暑くて、学び舎が終わったら川に遊びに行くんだと思いながら、ゾランは学び舎までの道を歩いていた。バレヌ王国では、十五歳までの子供は、学び舎で読み書きと算数、歴史の授業を教わることが出来た。十四歳のゾランが通う学び舎ではサヴォン村と、周辺の村からの子供が集まって一緒に勉強を行っている。村には同世代の友人はいなかったが、学び舎に行けば友達がいる。だからゾランは、学び舎が好きだった。


「こんな日は、冷たいプラムジュースでも飲みながら、川遊びしたいよなーっ」


 プラムシロップを水で割ったジュースは、夏の定番ドリンクだ。ゾランは夏になると、毎日のようにプラムジュースを飲んでいる。放課後のことを思い浮かべると、足取りが軽くなる。冷たい川の水に足を浸して、涼しい風を感じながらジュースを飲むのが、とても楽しい。


 眩しいほどの日差しに、目を細めながら道を歩く。放課後のことを考えていたせいか、自然と川の傍を歩きたくなって、ゾランは川近くの小路を選んで歩き始めた。そうしているうちに、ゾランはふと、川の方からキャンキャンと小さな鳴き声が聞こえてくるのに気づいた。


「ん? 犬の声?」


 耳を澄ましてみれば、どうやら犬の声が聞こえてくる。それも、川の方からだ。


 ゾランは川べりから身を乗り出して、流れる川の中を覗き込んだ。すると、一匹の子犬が川に流されているではないか。


「大変だ!」


 どうやらまだ自力で泳ぐことが出来ないらしい子犬に、ゾランはとっさに川に入り込む。この辺りの川は、急に深くなっている場所や、流れが速くなっている場所がある。父親には川遊びをする時は十分に注意するように念を押されていた。足首まで川に浸かって手を伸ばすが、とても届きそうにない。木の枝を使ってみたが、やはり届かない。


「むぅっ……」


 あと一歩だけ。そう思って足を踏み入れた時だった。ずぷんっ! と、急に深くなった川に、驚いて両手で水を掻く。頭まで水に浸かって、川の流れに押し出されるように流される。


 ゾランが助かったのは、運が良かったに他ならない。驚いたものの、たまたま流れに乗ることが出来たゾランは、川岸に捕まることが出来た。その上、丁度流れて来た子犬をキャッチすることも出来たのだ。


 だが、全身ずぶ濡れだ。髪も服も、靴も。何もかもがずぶ濡れだった。岸に上がると、ゾランは子犬と一緒になって水を払う。シャツの裾を絞りながら、家に戻るか学び舎に行くか、思案した。家に帰ってからまた学び舎に行くのは気が重い。そもそも、往復などしていたら、着いた頃には授業が終わってしまう。


 学び舎にある自分のロッカーには、一応タオルくらいはある。今から行けば、遅刻はするが授業は受けられるだろう。


 子犬をどうするか思案していると、「ワンッ!」と声が聞こえた。振り返れば、母犬らしい犬が、しっぽを振って立っていた。子犬が「きゅうん」と鳴く。


「なんだ、お母さんがいたのか」


 ゾランはそう言って、子犬の尻を押してやる。たどたどしい足取りで子犬が母犬の近くに来ると、母犬は鼻を擦りよせ、小さく鳴く。まるでいたずらっ子を叱っているようにも見えた。


「良かったな」


「きゅうん」


 子犬の頭を一撫でし、ゾランは水を吸った靴を引きずって歩き出す。いつもと変わらない、その日も、そのはずだった。




 ◆   ◆   ◆




 学び舎の前に行くと、見慣れない男が立っていた。大きな鞄を片手に、古い校舎を見上げている。まだ年若い、赤い髪を腰まで伸ばした男だった。


(誰だろう……?)


 村の人間ではない、都会の匂いがした。男のことは気になったが、ゾランは濡れた服を早く拭きたい思いから、玄関へと入って行った。


 学び舎の廊下に水滴を垂らしながら、ゾランは静かな気配にキョロキョロと視線をさ迷わせる。いつもは授業を受けているはずの生徒たちが、今日に限って居なかった。それで、ゾランは今日が屋外学習の日だったと思い出す。校舎の外に出て、動植物の観察と写生を行うのだ。


「しまった」


 そう言いながら、ゾランはロッカーを開き、タオルを取り出す。気温のせいもあり、拭いてしまえばさほど不快でなかった。靴を履き替え、急いで授業を受けに行く。遅刻したことへのお小言はあったが、先生も屋外学習で気が散漫だったのか、激しく追及されなかったことは幸いだった。


 だが、この後ゾランは、人生で一番のピンチを迎えることになった。




 ◆   ◆   ◆




「ぼくのカードがない!」


 そう言いだしたのは、学び舎に通う少年たちの中でも、比較的裕福な家庭の子だった。その子はよくレプリカの弓やボードゲームなど、ゾランたち田舎の子供には憧れはあっても手が届かないような道具をたくさん持ってきては自慢していた。この日は、カードゲームを持ってきていたらしい。


 少年の声に、教室がざわついた。カードが高価なことはみんなが知っていたからだ。同時に、「泥棒?」と、口々に騒ぎ出す。


「朝はあったぞ」


「野外学習の前に教室に置いていった」


「私知らない」


「誰か取ったの?」


 ザワザワする教室の雰囲気に、ゾランは戸惑った。ゾランは状況が良くわかって居なかったからだ。だが、その様子を見た少年の一人が、ゾランの様子がおかしいと口にした。


「ゾラン、朝遅かったよな」


「私、ゾランがロッカーで何かしてるの見た」


「前に、カードをうらやましいって言ってたよな」


 状況だけで、ゾランはあっという間にカード泥棒に仕立て上げられようとしていた。少年らの視線が、「お前がやったんだろう」と言っている。


 ゾランは、動揺してどうしていいか分からなくなった。自分はやっていないと言うだけなのに、怖くて声が出ない。いつも喋っている友人たちが、異質な目を向けて来るのが、酷く恐ろしかった。


「お。俺じゃ……」


 ようやく振り絞った言葉が、「返せよ!」という少年の声とゾランを突き飛ばした手に遮られる。胸を押され、ゾランはどすんと尻もちをついた。


「――っ!」


 尻もちをついたまま、ゾランは顔を上げる。周囲を取り囲む生徒たちの瞳は、一人もゾランを信じていなかった。


「――」


 圧倒されて、ゾランは言葉が出てこなかった。このままでは犯人にされてしまう。そう思ったのに、声が出なかった。「違う」その言葉が口から空気になって溶けて行った。


「ちょっとちょっと。まるで集団私刑じゃないか。良くないねえ」


 緊張を打ち破ったのは、ゾランが学び舎の前で出会った、赤い髪をした青年だった。ゾランは驚いて顔を上げる。生徒たちも、突然乱入してきた男に、驚いて顔を引きつらせた。


 男は、二十代前半といったところだろうか。村の人間ではない、都会的な恰好。ゾランは詳しくなかったが、洒落た格好をしているのだけは解った。手には大きな鞄。腰まである赤い髪。口元は自信たっぷりにつり上がっている。


「誰?」


「知らない」


 ザワザワと教室がざわめき始める。カードを失くした少年が、不機嫌そうに顔を歪めた。


「何だよ。泥棒を庇うのか?」


「いやいや。君はこの少年が盗みをするのを見たのか?」


「見てないけど、ゾランがやったに決まってる。ゾランは一人だけ遅れて来たし、ロッカーで何かしているのを見た人が居るんだ!」


 少年の声に「そうだ、そうだ」と周囲も騒ぎ出す。彼らは義憤に駆られて、ゾランが悪いと思い込んでいるようだった。だが、今度はゾランも黙ってはいなかった。男が乱入したことによって、冷静さが戻って来た。


「違う! 溺れてた犬を助けて、遅くなっただけだ! カードのことなんか知らない!」


「嘘つき! じゃあ、誰が盗んだっていうんだよ! お前じゃない証拠を出せよ!」


 一方的に悪者にされ、ムッとするも、ゾランには証拠などない。犬を助けていたことも、カードを盗んでいないことも、証拠などあるわけがなかった。


「それはっ……」


 ゾランは泣きそうだった。いつもは仲良くしている友人たちが、別人のように見えた。彼らは誰一人として、悪いことをしているとは思っていない。それどころか、ゾランを悪いと思っている。


「ふむ」


 男が顎に手を当て、間に立った。


「知っているか? 裁判では、『疑わしきは罰さず』という大原則がある。確かに、ゾラン少年には疑いが掛かっているようだ。だが、逆にゾランがやったという証拠はあるのかな?」


「だから、ロッカーで……!」


 男がカードを盗まれた少年の目の前に、指を突き出す。


「それは状況証拠として少し弱いんじゃないかな?」


「じゃあ、誰が盗んだんだよ!」


「まあ、落ち着きなさい。結論を出すには情報が少なすぎる。真理を得るには、それ相応の努力が必要だ――」


 冷静になろう。そう呼びかけた男の声に、生徒たちの中から消極的な声が上がり始めた。


「ねえ、もう一回、探してみない……?」


「ロッカーも見てみようよ」


 友人たちの声に、ゾランはホッとして息を吐いた。それから、「俺も探すよ」と言って教室中を探し始めた。カードを盗まれた少年は、振り上げた拳をどう納めたら良いのか分からなくなったようで、俯いて唇を噛んだまま、黙っていた。その様子を、男が肩を竦めて見ていた。


 しばらく探し回ったが、カードは見つからなかった。やはり盗まれたのだろうか。そう思い、生徒たちが落ち込み始めた時だった。


「何だ。何の騒ぎだ?」


 そう言って、学び舎の教師である男が教室へとやって来た。教師は赤髪の男に目をやり、眉を寄せる。青年は軽く会釈して笑みを浮かべた。


「あ! カード!」


 生徒の一人が、教師が持っていたカードを見つけ、声を上げる。視線が、教師に一斉に向いた。


「ああ。オモチャを持ってくるんじゃない。次持ってきたら、没収するぞ」


 そう言って、少年にカードが返却される。教室中が、ホッとした空気に包まれた。泥棒はいなかった。誰も、犯人じゃなかった。


 少年が気まずそうに、ゾランに「ごめん」と呟く。ゾランはニカッと笑って、「早とちりすんなよな」と強がって見せた。本当は酷く安堵して、泣いてしまいそうだった。


 青年が間に立っていなければ、ゾランは泥棒扱いされ、肩身の狭い思いをしたかも知れない。お礼を言おうと顔を上げたが、青年はいつの間にか居なくなっていた。




 ◆   ◆   ◆




 青年の行方を知っていたのは、学び舎の初老の女性教師だった。


「あの男性? たぶん、もう馬車に乗ったんじゃないかしら。この辺りの歴史を調べてるんですって。変わってるわよねえ。何もない場所なのに」


 その言葉を聞いて、ゾランは一も二もなく馬車の停留所へと走り出した。お礼を言わないまま別れるなんて、恩知らずにはなりたくなかった。心臓が破れるんじゃないかと思うほど、全力で走った先に、まさに今馬車に乗り込もうという青年の姿を見つけた。


「あの!」


「ん?」


 ゼェゼェと息を切らせるゾランに、青年が立ち止まる。


「ああ。ゾラン少年」


「あの、俺っ……」


 ありがとう。その言葉を言おうとしたのに、上手く紡げない。泥棒だと詰め寄られたときの、悔しさや心細さ、哀しさが一気に蘇って、ゾランの意志を無視して瞳から大粒の涙が零れ落ちた。


「っ、う……! 俺っ…」


 初対面の男に、泣いて見せても仕方がないのに。どうしても、涙が止まらなかった。


 青年がゾランの頭に手をポンと置いた。ゾランは瞳を上げる。揺らぐ視界の先に、黄金の瞳が見ているのが映った。


「悔しかったか」


「うっ……、はいっ……」


「世の中には、理不尽なことがいっぱいあるもんさ。まして、立場が弱い人たちは、掬われずに見捨てられることも多い」


「掬う……?」


 救う。ではなく、掬う。その意味に、ゾランは目を瞬かせた。


「そうさ。オレらは、そういう人たちの声を、拾い上げなきゃならない」


「だから、助けてくれたんですか?」


 青年は手を離し、空を見上げた。つられて見上げた空は、いつもよりも広く見えた。


「助けたっていうようなこと、してないさ」


「そんなこと、ないです」


 涙が、また零れる。顔はもう、ぐちゃぐちゃだった。


 自分で自分を守れなかった悔しさ。言い返せなかった悔しさ。尊厳を傷つけられた悔しさ。消化できずに、胸の中で疼いている。


「泣くな少年。オレは真実を探しただけだ。オレは何もしてないさ」


 しゃくりあげて泣くゾランに、青年は「それじゃあ、オレはもう行くからな」と馬車に乗り込む。ゾランは「あのっ!」と叫んで、馬車に縋りついた。


「ありがとう、ございました!」


 青年が居なかったら、ゾランは泥棒にされていた。みんなでもう一度探し回らなければ、わだかまりが残っただろう。胸に小さなしこりは残ったけれど、それよりもずっと大きな傷が残ったに違いない。


 青年は軽く手を上げた。別れの言葉は、それだけだった。


「……」


 馬車が小さくなるのを、ゾランはじっと見送った。大分時間がたって、鼻を手の甲で擦りながら停留所を見たゾランは、そこに使い込まれた手帳が置かれているのに気が付いた。あの青年の忘れ物だと、すぐに気が付いた。


「――ラウカ・ハベル」


 手帳に刻まれた名前を呟く。中には、びっしりと書き込みがされていた。ゾランの故郷の村をスケッチした絵、かつて風土病で大量の死人を出した歴史。その原因となった生物のスケッチ。病と闘った医者の記述。


(なんだろう。すごい……)


 ゾランの知らない、ゾランの故郷のことが書かれた手帳。ゾランは夢中になって、忘れ物の手帳を読みふけった。手帳にはゾランの知らない外の世界のことがたくさん書かれていたが、ラウカという青年については一切書かれていなかった。どこの誰なのか、何者なのか。いつか手帳を返そうと思っても、手がかりらしい手がかりが手帳には描かれていなかったのだ。


 それからしばらくして、ゾランはたまたま見た新聞で、ラウカという青年の正体を知ることになる。ラウカ出版代表。ラウカ・ハベル――。


 若くして出版社を立ち上げ、センセーショナルな記事を書いて鮮烈なデビューを果たしたラウカ。この時初めて、ゾランはラウカが記者だったこと。手帳が取材のメモだったことを知り――。


(弱い人を、掬う……)


 日の当たらない人々にスポットを当て、掬いあげる。ラウカの信念はゾランの心を揺さぶり、小さな信念に火をともした。ラウカのようには行かないかも知れない。けれど、ラウカのように――。


 あの日の憧れのままに、ゾランはラウカの背を追って、記者になることを決めたのだ。






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