「おはようございます」
「おはようございまーす」
事務所の扉を開くと同時に、挨拶をする。社長のラドヴァンとラドヴァンの秘書であり、会計と総務を兼任するルカが顔を上げて挨拶を返す。
「おはよう二人とも」
「おはようございます。今日も一緒なんですね」
「エセラインが俺のダイナーに来るんですよ」
「いつから『くじらの寝床亭』はお前のダイナーになったんだ?」
「俺が下宿してるの知ってるだろ!」
『くじらの寝床亭』の二階は、ゾランの下宿先でもある。エセラインは「新聞が読めるから」と言っているが、新聞ならば他のカフェでも読める。怪しいものだ。
「あはは、すっかり、仲良しさんだね」
「「誰がっ」」
二人の声が重なって、ムッとしてエセラインを睨む。エセラインはそっぽを向いた。
「ったく……」
「まあ、二人とも同じ『旅行記部』のメンバーになったんですから、仲が良いことは良いと思いますよ」
「まあ、否定はしないけど……」
ゾランとエセラインが企画した旅行記は、想像以上の反響があった。この旅行記も、ゾラン一人ではなし得なかった。エセラインがいたからこそ、始まることが出来たのだ。クレイヨン出版のエースで、自分よりも落ち着いたところのある彼が気に入らない部分もあったが、今では互いに尊敬できるライバルだと思っている。だが、素直にそれを口にするのが出来なかった。「お前はすごい奴だよ」なんて一言が言えないのは、気恥ずかしいからなのか、自分の性格が曲がっているのか、解らない。
ゾランは唇を曲げながら席に着く。クレイヨン出版の室内は、インクと紙の匂いがして、どことなく落ち着いた。デスクに広がった書類を退かして鞄を置く。
鞄の中から手帳と筆記具を取り出していると、入り口の扉が開いて背の高い男が現れた。
「うーっす」
欠伸をしながら現れた男に、ルカが不機嫌そうに眼を細めた。ゾランより頭一つ分背が高いエセラインより、さらに背が高く、着崩したシャツから見える胸は筋肉が盛り上がっている。ライターというより、場末の酒場でくだを巻いている冒険者のようにも見えるこの男は、ゾランたちの先輩ライターであるテオドレだ。テオドレは足をやや引きずるようにして、自分の席にドカッと座る。ルカが鼻をつまんで顔の前を手で仰いだ。
「ちょっと、お酒臭いですよ」
「あ? ああ、悪い悪い。朝まで飲んでてよ」
「あなた……シャワー浴びました?」
「さっき酒場で起きたんだ。浴びてるわけないだろ」
悪びれずそう言うテオドレに、ルカが汚いものを見るような目で睨んだ。奥にある扉を指さし、「シャワー! 浴びて来て下さい!」と叫ぶ。クレイヨン出版は小さいが、一応仮眠室と仮設シャワーがある。ゾランはまだ寝泊りしたことはないが、過去にはそういう時代もあったらしい。
「ったく、ピーピーうるせえなァ。テメェはオレの嫁かよ」
「だ・れ・がっ、嫁ですかっ!」
耳を小指でほじりながら席を立つテオドレを、追い払うようにルカが叫ぶ。ゾランはその様子に苦笑して隣の席に座るエセラインにこそっと耳打ちした。
「あの二人って、いつもあんな感じだな」
「ゾランが入社する前から、ああだ。まあ、テオドレはああいう人だし、ルカは几帳面だから」
「だね~」
ゾランは笑いを堪えながら手帳を拡げる。横からその様子を見たエセラインが、何かに気づいたように声をかけた。
「それ、手帳二つ持ってんの?」
「あー……。いや、使ってるのは、こっちだけ」
そう言って、いつも情報を纏めている赤い革の手帳を挿す。もう一冊の手帳は、傷の多い古い手帳だ。元々は赤い染料で染められていたのだろうが、経年で大分色が褪せている。
「大分、古いな」
「うん。お守り――みたいな」
愛おしそうに手帳の表面を撫でるゾランに、エセラインは眉をあげて「ふぅん」と言ったが、それ以上は追及してこなかった。
「それより、仕事! 生活面の記事書いたら、旅行記部の方のうち合わせするんだろ」
「ああ、そうだった」
エセラインも頷き、机に向かう。原稿の下書きに赤ペンでチェックを入れ、推敲を重ねる。真剣な眼差しで原稿に向かうエセラインの横顔に、少しだけ胸がざわついた。
(お守り――か)
もう一度手帳を撫でると、懐かしい思いがこみ上げた。
あの日、ゾランの運命が大きく変わった。その日のことがなければ、今クレイヨン出版に居ることはなかっただろう。エセラインと出会うことも、ラドヴァンやルカ、テオドレと出会うこともなく、小さな鉱山に行くことも、旅行記を書くこともなかった。それどころか、田舎の小さな村から出ることもなかったかもしれない。
ゾランは想いを馳せるように、翡翠色の瞳を静かに閉じた。