バレヌ王国の首都カシャロは、城壁に囲まれた都市だ。中心にそびえる巨大な門を中心に、九つの通りが伸びている。古くは町にも名前があったのだが、いつしかその通りの番号で呼ばれるようになったらしい。六番通りを抜けた先にある城門から外に出ると、どこまでも広がる農場がある。カシャロの食を支える巨大な農場には、多くの小型モンスターが出没する。定期的にそれを駆除するのが、冒険者たちの仕事だった。
「郊外には出たことくらいあるんだろ?」
「ええ。ワインで有名なヴィン村や、焼きもので有名なヴァーズなど、取材で行きました」
「ああ、ヴィン村のワインは極上だよなあ。あのワイン畑にゃ、グレートミューサングが出るんだ。知ってるか? アイツらは果実を食い荒らす。退治しても肉が臭せぇ」
「ちょっと隙間があると、入り込んでくるしな。本当に厄介だ」
「なるほど……」
カジムたちの話を聞きながら、ゾランはペンを走らせる。前にワイン畑を取材したときは、収穫の話ばかり聞いたが害獣の話は聞かなかった。どうせなら、あの時に聞いておけば良かったと後悔する。だが、知っている情報をカジムたちに聞いたことで、より具体的な想像が出来るような気がした。
(十万バレヌは痛かったけど、同行を頼んで良かったかも……!)
貯金をつぎ込んでしまったが、この取材は『あたり』だと直感した。カジムたちがベテラン冒険者らしいのも幸いだ。ゾランは手ごたえを感じながら、彼らの後に着いていく。道中は、穏やかなものだった。どこまでも続く畑の風景。そよそよと渡る風。しばらく進むと、畑のすぐ近くに林が見えて来た。カジムによれば、魔物たちはこの林からやって来るらしい。
「錬金薬で魔物除けしちゃいるらしいが、効果は微妙なところだな。そんなもんがあるなら、ダンジョンも楽に攻略出来るだろうよ」
「確かに」
「しかし、魔物が居ねえな。誰かが狩りに来たか?」
アコが地面をじっと見る。足跡や糞などの痕跡を辿って、巣穴を駆除するらしい。冒険者というのは剣をふるったり魔法を使って戦ったりと、華やかな活動をイメージしていたが、思ったよりも地味で地道な作業をしているようだ。
(こういう地道な活動のおかげで、畑が守られてるのか……)
感心する反面、正直なところ、少しだけがっかりもしていた。これでは、いつもの生活欄の記事となんら変わらない。出来れば、魔物と遭遇して戦闘になるのが望ましいのだが。
「えっと、カジムさんたちは、今までで一番の強敵は、どんな敵でした?」
「ああん? そうだなあ。プレリー山で遭遇した、ツインヘッドディアーだろうな。アイツは魔法も使ってくる。かなり強敵だった」
「アイツに遭遇した時は、生きた心地がしなかったよな」
(ツインヘッドディアーか……。たしかCランク相当のモンスターだって話だよね)
俊敏な上に魔法も使う、非常に厄介なモンスターだと聞いている。このモンスターは人里にはめったに降りてこないので、もし集落近くに出たら大騒ぎになるだろう。
「すごいですね。倒したんですか?」
「はは。倒したというか、まあ、倒された、という所だな」
「近くにいた『鉄剣戦士団』って奴らに取られちまってな」
「『鉄剣戦士団』ですか。聞いたことないですね」
「ああ。二年くらい前に解散しちまった。結構、強かったんだけどな」
頷いて、ゾランは『鉄剣戦士団』とメモに記した。引退してしまった冒険者という話に、少しだけ興味が湧いた。強かったと言うのなら、過去の新聞に記事が残っているかもしれない。
「しかし当てが外れたな。このままだと手ぶらで――うっ!?」
カジムが表情を変える。アコも、短剣に手を伸ばして林の奥を睨みつけた。ふわり、生臭い臭いが空気に混ざる。ゾランはゴクリと喉を鳴らした。
「何かいやがるな……」
静かだった林が、ザワザワと音を立てる。鳥たちが一斉に羽ばたく音が聞こえた。何かが、来る。
「来るぞ!」
「チッ!」
カジムが剣を抜いた。ゾランは鞄を前に構え、前方を見つめる。木がバキバキと音を立て、引き裂かれる。獰猛な獣の声があたりに響き渡った。
「グルルルル……!」
生臭い息を吐き出し、木の陰から赤い毛皮の熊が現れた。ぞくり、背筋が粟立つ。のそりと立ち上がった赤い熊は、大人の男の身長をはるかに超えていた。
(で……かいっ……!)
「っ! レッドウェアベアだ!!」
「Cランク相当の魔物だぞ!? どうしてこんな街の近くにっ!!」
「こいつの相手は無理だ! 逃げるぞ!」
「えっ!」
カジムの声に、アコが走り出す。左右に分かれて走り出した二人に、ゾランは一瞬どうして良いか分からず反応が遅れてしまった。
「あっ、待っ……!」
慌てて追いかけようとしたゾランの背中に、生臭い空気が漂う。獣の匂いと、体温を感じて、ゾクリと背筋が粟立った。
「あ――」
足が地面にくっついてしまったかのようだ。すぐに走らないと。そう思っているのに、ガクガクと震えるばかりでピクリとも動かない。レッドウェアベアの鋭い牙から、だらりと唾液が零れ落ちた。
「っ――」
頭が真っ白になって、地面に尻もちをつく。カジムたちはゾランを助けに来る様子はない。あっという間に走り去って、居なくなってしまった。どうやら、見捨てられたらしい。
(どうしよう。どうしよう)
あの二人が戻って来て、倒してくれないだろうか。ゾランが居ないことに気が付いて、助けに来てくれるんじゃないか。そんな甘い妄想が、脳裏をかすめる。だが、そんな妄想とは裏腹に、現実ではゾランは一人、モンスターの餌食になりかけている。
じりじりと、目線を合わせたまま後退る。レッドウェアベアは瞳をギラギラさせてゾランを見つめていた。
(どうしよう、どうしよう)
ゾランは丸腰で、ナイフの一本も持っていない。武器になりそうなものは愛用のペンくらいのものだった。魔法はあまり得意ではなく、喉を潤す程度の水を生成する『水滴』と、火おこしにつかう『種火』。あとは使用できない魔法があるだけだ。
(こんなことなら、『石礫』くらい買っておけばよかった……!)
それよりも、こんな取材に来たことを、後悔する。おとなしく生活欄の記事を書いていれば、こんなことにはならなかったのに――。
(もう、ダメだっ……!)
頬に生臭い唾液が零れ落ちた。赤い口を大きく開けて、レッドウェアベアが近づいてくる。
(父さん、母さん、社長、ルカ、テオドレ……エセラインっ……!)
牙が迫る。ゾランの頭をかみ砕こうと、レッドウェアベアが迫ってくる。
ゾランは歯を食いしばり、拳をレッドウェアベアの口に突き出した。
「燃えろ――『種火』!」
小さな炎が発現し、ゾランの手の中に握っていた袋に着火した。袋は燃え上がり、中身のコショウを一気にぶちまける。
「グルルル、グルルルゥ!!」
レッドウェアベアが頭を大きく振りかぶり、暴れ出す。コショウがきいたのか大声を上げて暴れ出した。
「げほっ! げほっ!」
(いまだっ……!)
コショウのせいでむせ返りながら、ゾランは這うようにその場から逃げ出す。何とか立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
「くそっ、動けよ、足っ……!」
ガクガクする足を無理やり動かし、林を駆け抜ける。背後でレッドウェアベアの獰猛な唸り声が聞こえた。
(マズいっ……!)
あの巨体にぶつかられたら、ただでは済まない。誰か人のいる場所に逃げなければ。そう思い、走る。レッドウェアベアは相当に怒っているようで、木々にぶつかりなぎ倒しながら迫ってくる。
「くっ……!」
(エセラインに、謝ってない、のにっ……!)
別れ際の、冷たい表情を思い出す。あんな顔が最後だなんて。
林の入り口が見えた。あと少しだ。畑に行けば、誰かはいるだろう。助かる可能性もゼロではないかもしれない――。
そう思った、その時だった。
「あっ!」
ガッ! 木の根に脚を取られ、ズザザザと土煙を上げて転倒する。背後に感じる気配に、ゾランは死を覚悟した。
(ああ――、俺、死ぬ――)
そう思った、その時だった。一瞬、誰かが自分を呼んだ気がした。
ヒヤリ。空気が冷える。目の前を雪の結晶が舞ったのを見て、ゾランは顔を上げた。
「え?」
ゾランの呟きと同時に、涼やかな声が林に響いた。
「凍り付け――『氷晶』!」
バキバキと、地面が凍っていく。レッドウェアベアの足元が、青白い氷に覆われていく。氷の呪縛から逃れようともがいていたレッドウェアベアだったが、徐々に白く染まっていき、やがて巨大な氷柱へと変わってしまった。
「たす……かった……?」
助かった。そのことに気づいて、へにゃりと身体から力が抜ける。
「あ、はは……、助かった……。助かったの、俺……」
実感がわかず、空笑いが出る。同時に、涙がジワリと浮かんできた。脚はガクガクするし、肘も膝もすりむいている。ズキズキと身体が痛むのを感じて、生きているのだと思い知った。
「――っ…!」
怖かった。死ぬかと思った。震える肩を抱いて蹲るゾランの耳に、聞き覚えのある声がした。
「ゾラン!」
「――え?」
驚いて、顔を上げる。目の前に、青い顔をして駆け寄る、エセラインの姿があった。
「なん……で」
「この、馬鹿っ……!」
エセラインは拳を振り上げたが、行き場所を見失ってその手を力なく下した。ゾランの肩を掴み、ハァと息を吐く。
「何やってんだ……」
「なんで、エセラインが……ここに?」
ドクドクと、心臓が鳴る。先ほどの声を思い出し、胸がざわめいた。
(さっきの魔法――……)
エセラインだったのだ。助かった。助けられた。エセラインの顔にホッとして、腕にしがみ付いて息を吐く。
「~~~~っ、死ぬかと、思った……」
「お前な……っ」
エセラインが眉を寄せる。何か言いたそうだったが、溜め息と共に呑み込んだようだ。
「おーい。エセライン!」
林に、男の声が木霊した。エセラインが声の方を振り返る。ゾランもつられるようにそちらを見た。
「うお。カチカチじゃん。これ、レッドウェアベア?」
やって来た男は、鉄製の鎧を身に着けた、冒険者風の男だった。カジムやアコよりも、ずっと強そうだとゾランは思った。
「ガウリロ」
「Cランクモンスターを一撃なんて。やっぱ、俺たちの戦士団に入った方が良いぜ、エセライン」
ガウリロと呼ばれた男の言葉に、エセラインは肩を竦めた。ガウリロは白い歯を剥いて豪快に笑いながら、ゾランの方を見る。
「えっと……?」
「この先の山でな、騎士団が大規模な魔物討伐訓練をしたらしい。餌がなくなってレッドウェアベアが山から降りたのさ」
「そう――だったんですか……」
ようやく落ち着いてきたゾランは、エセラインの手を借りて立ち上がった。靴も服も土だらけだし、すりむいた傷がズキズキと痛む。
(災難――でも、助かったことを思えば、ラッキーか……)
ガウリロは凍り付いたレッドウェアベアが気になるらしく、コンコンと氷を叩いている。エセラインがゾランの方を見た。
「それで、なんでお前、こんなところに居るんだ」
「それは――……」
仕方がなしに、経緯を話す。カジムとアコはどうしただろうか。二人のことを心配しながら話すゾランに、エセラインが溜め息を吐いた。ガウリロがニヤニヤと笑う。
「ゾランって言ったか」
「はい?」
「あんた、それ。騙されたなあ」
「え? 騙す……?」
「……アムステー出版のマルコだろう。アイツはそう言う奴なんだ」
「え? ちょっと待って、どういう事?」
騙されたなどと、思っても見ない言葉に、動揺して目をさ迷わせる。エセラインが腕を組んでゾランを見下ろした。
「まず、ギルドを介さない取引は除名対象だ。依頼主を守るため、必ずギルドを通す必要がある」
「そいつらはせいぜい小遣い稼ぎってところだろうが、最悪の場合だと殺されるぞ。モンスターにやられて死体も残ってません、なんてことだって出来るんだ」
ガウリロの言葉に、ゾクッと背筋が震えた。
ギルドを通すと言うのは、信頼を得るということに等しいのだ。ギルドを介した依頼の場合、冒険者は依頼主を守る義務が発生する。守れないような契約の場合は、最初から契約しない。実力に見合った依頼を受けるのが原則らしい。今回の場合はゾランは直接取引をした。取引の実績はなく、契約書もない。つまり、彼らの冒険にゾランが勝手についていったということになるのだ。身を守るのは、自己責任ということだ。
「そもそも、この辺の林の脅威度なら、相場は三千から五千バレヌってとこだろう。マルコとグルになって、何も知らない商人やら新人冒険者やらを食い物にしてんだよ」
「え? じゃあ、俺の十万バレヌは」
「授業料だと思ってあきらめるんだな」
その言葉に、ゾランはガックリと肩を落とした。取材は中途半端で、お金は戻ってこない。カジムやアコに文句を言っても無駄なようだ。下手につつけば、ゾラン自身がギルドからの信頼を落としかねない。泣き寝入りするしかないだろう。
「最悪だ……記事も書けないし、本当に、最低……」
ぐずぐずと鼻を啜るゾランに、エセラインは肩を竦める。
「あ! そうだ! なあ、こんな都市の近くにCランクモンスターが出没したなんて、ニュースだよな! 記事になるよな!?」
「あ――? ああ……」
いいアイデアだと顔を上げたゾランに、エセラインが深く溜め息を吐く。
「お前な、その記事、『クレイヨン出版の社員が討伐』って書く気か?」
「あ」
(なんだろう。事実なのに、すごい自作自演みたいな……)
エセラインの言わんとするところが解って、しゅんとうなだれる。いいアイデアだと思ったのに、上手くいかないものだ。
「出版社の人間じゃなくて、C級冒険者として書いたらいいだろ?」
「C級冒険者? え?」
誰のことだ。そう思ったが、ガウリロの視線の意味を察してエセラインを見た。エセラインは無言で、唇を真一文字に結んでいる。
「え!? おまっ……」
「ライセンスなんか、持ってるだけだ。今は活動していないし、関係ない」
ゾランは絶句してエセラインを見る。C級冒険者と言えば、ベテランの部類だ。エセラインはまだ若いし、今は活動していないのだから、相当に優秀だったのだろう。思いがけない事実に唖然とする。
(確かに、レッドウェアベアを一撃だったし――そんなに、強かったのか……)
ガウリロはエセラインが記者をやっていることが不満らしく、冒険者になったほうが良いのにと口にする。
(記事を書けばエースで、冒険者としても優秀とか……)
レッドウェアベアに追い回され、すっかり気力を失くしてしまったゾランは、何もかも持っているエセラインを前に、自分の無力さを嚙み締めた。