二月に入るころには、いつの間にか私の身辺を嗅ぎまわるような記者はいなくなっていた。
お父さんが私の前に現れることもなければ、闇金との繋がりも見つからない。元々知人も少なく、私の『何か』を記者に対してペラペラ話す人もいなかったのだろう。
大きなネタはない、と判断されたようだった。
「日下部っちと結構堂々とデートしてるのに、熱愛報道出ないってすごいよね」
映画雑誌の撮影で、羽風監督と私、そしてルイちゃんは対談を行うことになった。その休憩時間中、私の控え室にやって来たルイちゃんは、私が持ってきたチョコドーナツを手に取った。
「梓くんがどこかでストップかけてるんじゃないかな」
「あり得る! すごいよね、芸能界での日下部っちの権力」
ルイちゃんはドーナツを頬張ると、「美味しい!」と目を見開く。バレンタインの試作として作ったもので、ルイちゃんに味見してもらおうと持ってきた。真希乃ちゃんには昨日事務所で会ったときに味見をしてもらっている。
「うん、これ作りたい」
「こういうマフィンも作れるけど」
スマートフォンを操作して、チョコレートやアラザンなどで可愛くデコレーションしたマフィンの写真を見せる。
「それも作りたいな」
「じゃあ、両方作ろうか」
「いいの?」
「もちろん。マフィンもドーナツも、材料はあんまり変わらないし、あとはチョコレートテンパリングして塗るくらいだから、簡単だよ」
可愛いデコレーション考えておいてね、と伝える。うんうん、と大きく頷いてくれるルイちゃんはとても可愛らしい。
「私と真希乃ちゃんは十三日が一日オフなんだけど、ルイちゃんはどう?」
「ちょっと待ってね」
ルイちゃんは自分のバッグの中から取り出したスケジュール帳を開く。「十三日、十三日」と言いながら指で日付をなぞると、「午後からオフだ!」と嬉しそうに言う。
「じゃあ、午後からやろうか。その間、梓くんにはちょっと外出してもらおうと思う」
「日下部っちも一緒にやるのは?」
「ダメダメ。内緒にしたいもん」
スケジュール帳を閉じたルイちゃんが私の顔をじっと見つめる。それから、「羽柴ちゃん、可愛い」とニヤリと笑う。
「こら、大人をからかわないで」
「本当のことなのに。日下部っちに、乙女な羽柴ちゃんを見せたいくらいだよ」
「それなら私もルイちゃんの彼氏さんに、ルイちゃんの可愛いところいっぱい見せたいけど」
私に言い返されて、ルイちゃんは「ぐぬぬ」と声が出ていそうなくらい苦い顔をした。耳まで赤くなるその表情は、私なんかよりももっと恋する乙女なのではないだろうか。
「……準備とか、どうしようか?」
「あ、話変えた」
「いいでしょ、もう」
ルイちゃんが、赤い顔のままムッと唇を尖らせる。拗ねる顔も可愛いけれど、これ以上からかうのはやめておこう。ごめんね、と謝る。
「準備は私が材料買っておくよ」
「本当? いいの?」
「うん、もちろん。だから、ルイちゃんと真希乃ちゃんはエプロンだけ持って来てね」
「分かった、ありがとう」
会話のキリもいい、ちょうどのタイミングで撮影再開するとスタッフさんから声がかかった。
行こうか、と声を掛けて、ルイちゃんとともに控え室を出る。そうすれば、ちょうど二つ隣の控え室から羽風監督も出てくるところだった。
ピシッとしたスーツ姿は新鮮で、どこか緊張したぎこちない羽風監督の表情に、私とルイちゃんは顔を見合わせて笑った。
十八時ごろ、撮影と対談が無事に終わった。羽風監督に挨拶をして、控え室で次の仕事へ向かうための準備を始める。このあとは、別の雑誌の打ち合わせが入っている。
ルイちゃんは今日これで仕事が終わりらしく、マネージャーさんと一緒に先に帰っていった。
「荒木さん、夕飯どうする?」
「次の打ち合わせがカフェでやるみたいだよ。そこで食べてもいいって、先方さんは言ってたけど」
「そうなんだ。じゃあそうしようかな」
他愛ない話をしながら、荒木さんの車に乗るために撮影スタジオの駐車場へ向かう。
スタジオから一分ほど離れた場所にある駐車場。そこまで遠くはないから、と油断していたのかもしれない。
ビルとビルの間から人が飛び出してきた。
ぶつかりそうになり驚いて、小さな悲鳴が零れる。
「祈里!」
腕を掴まれ、動揺した私の瞳はようやくその人物を捉え、認識した。
「祈里、どうして俺を見捨てるんだ! 助けてくれ、金ならたくさん持ってるんだろう!?」
以前よりもやつれた頬。落ちくぼんだ目は不自然にギラギラとしている。
なんでお父さんがここに。
――親父自身がお前のところに来る可能性は充分ある。
東間に言われた言葉が頭を過る。
その可能性が現実になってしまったんだ。
嗅ぎまわる記者もいなくなって、数週間何もなかったからと安心してしまった。
「祈里ちゃん!」
ただ体を強張らせることしかできなかった私をお父さんから引きはがすように、荒木さんが私たちの間に割って入る。
「なんですか、あなた」
「祈里は俺の娘なんだ、父親が娘に会いに来て、何が悪い」
「祈里ちゃんは、あなたに会うことを望んでいません」
お引き取りください、と荒木さんが冷静に声のトーンを落とす。
「ふざけるな!」
お父さんが声を荒げる。思わず耳を塞ぎたくなって、ぎゅっと両手の拳を握った。
「騒がないでください。警察呼びますよ」
荒木さんがスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出す仕草をする。お父さんもそこまで騒ぎを大きくすることを望んでいないのか、ぐっと言葉を飲み込んだようだった。
幸い、周囲にあまり人がいないことが救いだ。
「……行こう、祈里ちゃん」
「う、うん」
「大丈夫? 歩ける?」
「うん、大丈夫」
荒木さんに手を引かれる。お父さんに掴まれた左腕は、まだジンジンと痛みを持っている。
「祈里!」
お父さんが私を呼ぶ声が背中に当たる。振り向かなくていいよ、と荒木さんは言った。
「祈里、助けてくれ! もう頼れるのは、お前しかいないんだ」
お父さんの声が、薄暗くなった街に響く。
――家族だからって、何もかもしなきゃいけないわけじゃない。
――家族でも捨てていいんだよ。祈里の人生を犠牲にしなきゃいけないことなんてなにもない。祈里は、祈里の幸せのために生きていいんだ。
梓くんに言ってもらった言葉を、お守りのように何度も何度も頭の中で繰り返す。そうしないと、お父さんを振り返ってしまいそうだった。
お父さんに「祈里しかいない」と言われたその先に、幸せなんてあるはずないって私自身が分かっているはずなのに。振り向かなければいけないような、手を差し伸べなきゃいけないような呪いが、その言葉にはあるように思えた。
「ごめんね、荒木さん。迷惑かけて」
「祈里ちゃんが謝ることはなにもないよ」
駐車場まで来ると、荒木さんは周囲の様子を窺いながら、後部座席の扉を開けてくれて、私に乗るように促してくれる。
「俺がいるときでよかった」
そうホッと胸を撫で下ろす仕草をして、荒木さんは眉を下げて笑ってくれた。
「あとで日下部さんにも連絡しとく」
「それは自分で報告するから大丈夫だよ」
「そっか、分かった。なるべく早く、日下部さんにも伝えてね」
「うん」
後部座席の扉が閉まる。荒木さんが運転席に乗り込むと、エンジンがかけられた。
ようやく、私も呼吸が整い出した。バクバクとうるさかった心臓も落ち着きつつある。
ももの上に置いた手が、微かに震えている。
――これっきり、お父さんがもう私のところに来ることはありませんように。
ただそう願うことしかできない。