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第七十九話 コートの染み

 一月の終わり。


 映画の宣伝として、真希乃ちゃんと久留生さんと一緒にバラエティ番組に出演した。クイズバラエティに挑戦するのは初めてで、不慣れな部分も多かったけれどとても楽しむことができた。


 真希乃ちゃんも久留生さんも、やはり私とはこれまで積み重ねてきた経験が違って、とても堂々としていて頼らせてもらう部分も多かった。


 クイズの結果は……まぁ、私たち三人は散々なものだった。絶対見るよと楽しみにしてくれている梓くんに、帰宅してから「やっぱり見ないで」と言ってしまった。



「なに難しい顔してんの?」


 休日、久しぶりにデートをしようという話になって、梓くんと二人で水族館を訪れていた。


 前に来たときは、私の仕事終わりに梓くんを呼んで、閉館までの短い時間しか楽しむことができなかったから、今日は開館からゆっくり回るつもりだ。


「ごめん。この前出たバラエティ番組思い出して、ひとりで反省会してた」

「ああ」


 梓くんは相槌を打ちながら笑う。


「放送日、来週の火曜日だっけ? 録画予約しとかないと」

「いやー! 絶対やめて……!」

「あはは」


 分かった分かったと梓くんは言ってくれているけれど、本当に分かってくれているのだろうか。からかうようなその笑顔が憎らしい。


「まぁ今は、水族館楽しもうよ」

「……」

「せっかく二人でゆっくりできるのに」


 そう言って私の顔を覗き込む梓くんは眉を下げる。その顔はどこか大きな犬みたいだ。


「うん、そうだね。ごめん、他のこと考えてて。一緒に楽しもう」


 握っていた梓くんの手を、しっかりと握り直す。自分から出した話題で、不機嫌になるのは間違っている。お互いに忙しい時間を過ごす中で、ようやく調整できた時間なのに。


 一緒に住んでいて毎日顔は合わせているし、毎日一緒に眠っているけれど、デートはまた違う特別な時間なのだから。


「あ、もうすぐイルカショー始まるみたい」


 梓くんが、通路に置かれたタイムスケジュールが書かれた看板を指差す。もうあと十分ほどでイルカショーが始まろうとしていた。


 矢印で示された外プールのほうへ、多くのお客さんたちが向かっているのが分かる。


「うん、早く行こう」


 そう言って、私は梓くんの手を引いた。私を見て、優しく微笑んでくれる梓くんの瞳が愛しい。



 産まれて初めて見るイルカショーはとてもダイナミックで、迫力あるものだった。

 水の中に一気に潜り、何メートルも高くジャンプするイルカの姿は圧巻だった。

 ショー終了のアナウンスが流れる。いつまでも拍手をしていたくなるくらい、楽しかった。


「すごかったね」

「ああ。大人になってから見ても感動するもんなんだな」


 ショーの余韻に二人して浸る。次のショーの時間を案内するアナウンスが流れている。

箒とちり取りを持ったスタッフさんが座席の間の掃除を始めた。すれ違うお客さんたちに「ありがとうございました」と頭を下げている。


「俺たちも出ようか。そろそろお昼食べる?」

「そうだね、ちょうどいい時間かも。イルカを見ながら食べられるレストランがあるみたいだよ」

「すごいな、じゃあそこにしようか」


 膝の上に乗せていたショルダーバックを肩にかけて、ベンチから立ち上がった。


 梓くんと私は他愛もない話をしながら、イルカショーが行われていた外プールを出る。エントランスなどがある下の階に行くとレストランがあって、そこでは食事を取りながら、イルカが優雅に泳ぐ大きな水槽を眺めることができるようになっているらしい。


 ここに来る前に調べて、絶対に梓くんと行きたいと思っていた。


 水族館の中でも人気のあるスポットで、ちょうどお昼時に差し掛かることも相まって、レストラン前には多くの人が並んでいた。


「結構並ぶかも、大丈夫?」

「うん、俺は平気」

「それじゃあ、並ぼうか」


 レストランの入り口前に置かれたボードに梓くんが『日下部』と名前を書いてくれる。それから順番待ちの列の最後尾に並ぼうと移動しようとしたときだ。


 どん、と腹部に衝撃を受ける。


「あっ」という誰かの声がして視線を下に落とせば、着ていたコートがべったりと濡れていて、「しまった」という顔をした男の子が私を見上げていた。


 その手には、ジュースのカップが握られている。

 どうやらぶつかって拍子に、その中身が私に全部かかってしまったらしい。


「ごめんね! 私が前ちゃんと見てなかったから」


 男の子に目線を合わせるようにしてしゃがみ込む。


「ううん、僕もちゃんと前見てなかったから、ごめんなさい」


 男の子は、私にジュースをかけてしまったことや、せっかく買ったジュースがなくなってしまったことにショックを受けているのだろう。大きな瞳は今にも涙が溢れそうなほど潤んでいる。


「怪我してないか? 服は濡れてないな」


 梓くんも一緒に私の隣にしゃがみ込んでくれて、男の子の体をチェックしてくれる。「ハヤト!」という声がして、男の子が振り返る。その視線を追えば、男の子よりももう少し小さな子と手を繋いだ若い女性が、こちらに走り寄ってきた。男の子のお母さんなのだろう。


 女性は、私たちの光景を見て瞬時に状況を理解すると、青ざめた顔をした。


「ご、ごめんなさい! お洋服、クリーニング代出します……!」

「いえいえ、全然大丈夫です! 私からぶつかってしまったので。ジュース代、払わせてください。本当に申し訳ありません」

「そんな……こちらが目を離してしまっていたので……」


 謝り合いが始まってしまって、お互いに譲れず「でも、」「でも、」と言い合いが続く。


「ハヤトくんだっけ? 何ジュース飲んでたの?」

「オレンジ……」

「へぇ、俺も飲みたくなってきた。どこで買ったか教えてくれる?」

「いいよ!」


 いつの間にか、私たちの隣で梓くんと男の子で話が進んでいて、梓くんは男の子の手を引いて歩き出す。


「えっ、ちょ、梓くん!?」


 慌てて声をかければ、梓くんは振り向いて「ちょっとジュース買ってくる」と笑った。


「祈里はその間にコート拭いておいで」

「う、うん」

「ちょっと、ハヤト……!」


 すみません、と女性はもう一度私に深く頭を下げて、男の子を追いかける。


 私ひとり、取り残されてしまった。

 騒ぎを聞きつけて、レストランからひとり、店員さんがモップを持って来てくれた。


「ここは私が拭いておきますので。コートに染みができてしまう前に」


 そう言って店員さんは、私をトイレがあるほうへと促してくれた。お礼を言って、トイレへ向かう。


 手洗い場でショルダーバッグを下ろし、コートを脱いだ。バッグの中からハンカチを取り出して、濡らしたハンカチでジュースがかかった場所を拭う。


 グレーのコートだから、仮に染みが残ってしまったとしても、あまり目立つことはなさそうだ。


 水族館の中も暖房が効いているし、コートがなくても問題はなさそう。


 自分と綺麗にジュースの汚れも落ちてきた。これなら男の子のお母さんに気を遣わせることもないだろう。クリーニングの必要も全くなさそうだ。


 バッグの中で、スマートフォンがバイブレーションを鳴らす。


 梓くんかな。


 染み取りの手を止めて、バッグの中からスマートフォンを取り出し、画面をつけた。


 メッセージが一件、梓くんから届いている。


 通知からメッセージを開けば、写真が表示されて、さっきの男の子と梓くんが、ジュースのカップを持って笑顔で映っていた。


『こっちは心配しないで』


 そんなメッセージも添えられている。

 自分のジュースを買いに行く、なんて言いながら、男の子の分も買ってくれたのだろう。拒むお母さんを流しながら、ジュースを買った梓くんを想像して、思わずくすりと笑ってしまった。



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