梓くんに電話をかけてきた相手は、東間環だった。
私も話を聞きたいと梓くんにお願いし、スピーカーフォンにしてもらう。
「祈里の親父がどこから金借りてるか、分かったぞ」
スピーカーを通した東間の声はノイズが乗って、いつもより少し低く聞こえる。
「仕事が早くて助かるよ」
梓くんが私を見る。その瞳が「大丈夫?」と言っている気がして、心配しなくて大丈夫という意味を込めて、一度頷いて見せた。
「それで、その場所は?」
「チカフジファイナンスってところだ。表向きは普通の金貸しって感じだが、後ろにいるのは近藤組っていう暴力団。中身は真っ黒だ」
東間が鼻で笑う。梓くんは「そう」とだけ頷いた。私も特別、東間からの話を聞いて驚くことはなかった。「やっぱりか」としか思わなかった。お父さんは色んなところで借金を繰り返していて、信用なんてない。普通のところではお金を借りられないことを知っていたから。
「それで、」
東間が続ける。布が擦れる音が聞こえた。東間が座り直したのだろう。
「近藤組とは、うちも何かと縁があってな。向こうの組長と色々話をさせてもらった」
「どんな?」
梓くんが問いかける。
「悪い話じゃない」
東間が笑う。
「向こうも祈里のこと心配してたぜ? ろくでもない親父がいて可哀想だって。だから、少し釘をさして置いた。ちゃんとわかってくれたよ」
「それって……つまり……」
私が問いかければ、電話の向こうで東間が一瞬黙ったのが分かった。「なんだ、祈里もいたのか」と東間が小さくボヤいた。それから、小さく舌打ちが聴こえてくる。
「本当にお前は察しが悪いな」
「すみません」
はぁ、と東間が溜息を吐く。梓くんが隣でくすくすと、私たちのやり取りを聞いて笑っている。梓くんは、東間の話を聞いて、何を言っているのかちゃんと理解できたのだろうか。梓くんを見れば、梓くんは私がムッとしていることに気付いたようで「ごめん」と謝ったあとに咳払いをした。緩む口元を引き締め直したらしい。
「祈里に、親父の借金の肩代わりをさせるなって言ってある。俺と祈里に関わりがあるって分かったみたいだから、向こうからお前に手を出してくることはないだろうよ」
「東間、ありがとう」
梓くんが、テーブルの上に置かれたスマートフォンに向かって頭を下げた。スピーカーからは不貞腐れたような東間の声で「別にお前のためじゃねーよ」と聞こえてきた。
「ありがとうございます、本当に」
私も梓くんと同じように頭を下げた。
まさか、東間がこんな風に動いてくれるなんて思ってもいなかった。
「やめろ、やめろ。気持ち悪ぃから。俺は俺のために動いただけだ。そこの男に弱み握られてるからな」
ケッ、と東間は吐き捨てるように、苦々しい口調で言う。
「俺からはこれだけだ。じゃあ、電話切るぞ」
「ああ、助かったよ」
梓くんが通話を切るために赤いアイコンへと指を伸ばす。それに触れる直前、「あ、」と何かを思い出したような声を上げた東間の声に、ぴくりと指先を震わせた。
「近藤のとこが、祈里に近づくことはないと思うが、気を付けろよ」
「えっと……なにを?」
私は首を傾げた。
「お前のろくでもない親父だよ。そこまではさすがに俺からはどうすることもできなかったからな。取り立ては来ないけど、親父自身がお前のところに来る可能性は充分ある」
「あ……そっか……」
梓くんを見る。目が合った梓くんは私を安心させるように、ふわりと柔らかい笑顔を見せてくれて、私の肩をさっきよりも強く抱き寄せた。
「あとのことはこっちに任せてくれ。俺がちゃんと祈里のことを守るよ」
力強い梓くんの言葉。
東間はしばらく黙ったあとに、「そーかよ」と豪快に笑った。
「ま、せいぜい頑張れよ」
「ああ」
じゃあな、と言って通話は東間のほうから切られた。
梓くんの肩にもたれかかるように、頭を預ける。
「東間って、あんな感じの人だったんだね」
「男気があるって言っただろ」
くすくすと梓くんが笑う。そのあと、どちらも会話がなくなって、沈黙が部屋の中に広がっていく。
それと同じように、私の胸の中にも不安が波紋を広げるように満ちていこうとしている。
「……お父さん」
「うん」
「やっぱり……来るのかな?」
「分からない」
私の体を抱き寄せる梓くんは、指で私の髪を梳くように撫でた。安心させたいのだろう。ゆっくりと、私の心を解すような仕草だ。
「分からないけど、大丈夫だよ。俺が、絶対に祈里を守るから」
「うん」
「……まだ不安はある?」
梓くんが私の顔を覗き込んだ。その瞳には、不安そうな表情を残したままの私が映っている。真っ直ぐに私を見つめてくれる瞳には、嘘はつけそうにない。
「お父さんの言葉が、ずっと頭を回っているの」
「どんな……?」
「娘に会いに来て、何が悪いんだって。前に、会ったときに言われたの」
「うん」
「私はお父さんの娘で……お父さんには、私に会う権利があって、私は家族だから……お父さんのこと、助けなきゃいけないんじゃないかって」
声が震える。
東間の話を聞いたとき、これは家族を見捨てることなのではないかと思ってしまった。「もう私たちに会いに来ないで」とお父さんに私自身が言ったし、望んでいたことなのに。なんだかとても悪いことをしているように思えてしまった。
私だけが幸せになったらいけないんじゃないか。
そんな考えが、私の思考を鈍らせる。
「祈里」
名前を呼ばれ、顔を上げる。梓くんが私をきつく抱きしめてくれる。
「痛いよ、梓くん」
「祈里、いいんだよ。捨てていいんだよ」
梓くんの必死な声が、私の鼓膜を揺らす。私の胸の中に広がる不安や葛藤を溶かすように、優しく響く。
「本当に、いいのかな?」
目が熱い。鼻の奥がツンと痛んで、頬を生温かい涙が伝っていく。
梓くんから離れてしまうことがないように、広い背中に腕を回して、ぎゅっと服を握る。
「家族だからって、何もかもしなきゃいけないわけじゃない」
「うん」
「家族でも捨てていいんだよ。祈里の人生を犠牲にしなきゃいけないことなんてなにもない。祈里は、祈里の幸せのために生きていいんだ」
「うん」
梓くんの肩に私の声は吸い込まれていく。
「祈里は、幸せになっていいんだよ」
うん、と頷いた声には涙が滲んで、もう言葉にすらなっていなかった。
「祈里が不安になったら、何度でも言ってあげる。何度だって俺が助けるから」
梓くんが私を抱きしめていた腕を緩めて、体を離す。梓くんの紺色のトレーナーの肩の部分は、私の涙で色を濃くしていた。
梓くんの長くて骨ばった指が、私の目元の涙を拭って、親指で頬を撫でてくれる。
柔らかな体温が心地いい。
その手に自分の手を添えて、頬擦りをするように目を閉じた。
――幸せになっていい。
梓くんの声は、私にかかった呪いを解いてくれるようだ。
「ありがとう」
梓くんだけじゃない。今日まで私の傍にいてくれた人のおかげで、私は生きていることができた。
その感謝は、きっと、私自身がちゃんと幸せになることで伝えられる。
その幸せには、梓くんだけじゃなくて、お母さんやコスモプロダクションのみんな、桜井さんやルイちゃん、仕事で関わった人たち全てが欠かせなくて。
私が、お父さんとの関係を曖昧に、長く続ければ続けるほど、それは壊れていってしまう。
だからこそ、私はちゃんと、ここでしっかりとお父さんとの縁を切らなきゃいけないんだ。
「大丈夫だよ、梓くん。私、もう迷わないから」
私は、私の幸せのために生きていく。
私の幸せのために必要なものを、命がけで守るんだ。