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第七十二話 呼び方

 真希乃ちゃんから連絡があって、一緒に遊園地に行くことになったのは十二月三十日のことだった。

 『梓くんも一緒に』という言葉通り日下部くんも連れて行くと、真希乃ちゃんも久留生さんと一緒だった。


「祈里ちゃん!」

「真希乃ちゃん! あれ、髪切ったの?」

「そうなの、バッサリ」


 そう言って、真希乃ちゃんはショートボブになった毛先を掌でぽんぽんと弾ませる。黒髪のストレートロングもとてもよく似合っていたけれど、ボブもとても可愛い。

 久留生さんと日下部くんは久しぶりに顔を合わせたようで、元気だった? とお互いに声を掛け合っていた。


「本当はルイちゃんも誘いたかったんだけど、今日お仕事みたいでさ」


 残念、と真希乃ちゃんは肩を落とす。


「あ、そうそう。年末年始の特番に出るんだよね」

「忙しいねぇ。でも、熱愛報道も肯定的な意見が多くて安心した」


 真希乃ちゃんに私も頷く。ルーチェのスクープが出た数日後、ルイちゃんの熱愛報道も出たけれど、世間からは応援するようなコメントが多かった。まだルーチェのほとぼりが冷めていないころの報道というのも、タイミング的に良かったのかもしれない。


 ルイちゃんの仕事に大きな影響はなく、ホッと胸を撫で下ろした。



 開園時間になりゲートが開かれる。


 早々に真希乃ちゃんに腕を引かれてジェットコースターに並び、そのあともフリーフォールや空中ブランコなど派手なアトラクションに引っ張り回されることになった。


「次、次! 次は、コーヒーカップ乗ろうよ!」


 そう、楽しそうに私の手を引きながら先導する真希乃ちゃんのその言葉を聞いた瞬間。


「「ダメだ!」」


 久留生さんと日下部くんの声が重なる。その切羽詰まった声にギョッとする私と、「えー」と不満そうな声を上げる真希乃ちゃん。


「真希乃、羽柴さんとコーヒーカップは絶対ダメだ。俺が一緒に乗るから」

「祈里も少し休もう。前みたいに気持ち悪くなってもいけないから」

「え、あ、うん」

「祈里ちゃんと乗りたかったけど仕方ないか。栄斗、行こ!」


 真希乃ちゃんが久留生さんの腕に自分の腕を絡ませて、弾むような足取りでコーヒーカップのほうへ向かっていく。


 私と日下部くんはその近くにある、パラソルがついた休憩用のテーブルに腰を下ろした。

 少し離れていても聴こえてくる真希乃ちゃんの笑い声。見れば、高速でグルグルと回るコーヒーカップがひとつ。


 数分後、私たちの元へやって来たのはピンピンニコニコとした真希乃ちゃんと、足取りフラフラで顔面蒼白気味の久留生さんだった。


「超楽しかったー!」


 そう言って真希乃ちゃんが私たちの向かいに座る。その隣に座った久留生さんに、日下部くんは「お疲れ」と憐れむように言って、冷たいドリンクを差し出した。


 そこでハッと私は気付く。

 日下部くんと遊園地に来たあの日。日下部くんがコーヒーカップの回転に「慣れている」と言った理由。


「もしかして、日下部くんって、真希乃ちゃんとコーヒーカップに乗ったことある?」


 恐る恐る尋ねれば、日下部くんは神妙な面持ちで頷いた。


「何っっ回も連れ回されて、慣れた」

「やっぱり、それで……」

「なによ、二人してその目は。楽しいのに、コーヒーカップ」

「城川は回しすぎなんだよ」


 そうかなぁ、と不満そうに唇を尖らせながらも、真希乃ちゃんは久留生さんに「ごめんね」と謝って背中を摩った。


 もうしばらく休憩しないと久留生さんは復活しそうになく、私たちも休憩することにする。率先して近くの売店で真希乃ちゃんが私たちの分も飲み物も買って来てくれて、温かいコーヒーで掌を温めた。


「ごめんなさい、梓くん。あなたを利用してしまって」


 タイミングを窺っていたように、真希乃ちゃんがそう日下部くんに頭を下げた。日下部くんの顔を窺いみれば、彼は一口コーヒーを啜ってから、「いいよ」と軽く応えた。


「結果的に、全部上手くいったわけだし」

「……」

「俺の方こそ、すぐに城川を助けてやれなくてごめん」

「そんなこと、ないよ。助けてくれて、ありがとう。梓くんがいなかったら、今もまだルーチェから抜け出すことができなかったかも。お仕事のほうは、大丈夫?」

「ああ、全然問題ない。こっちは大丈夫だよ」


 ちらりと真希乃ちゃんが私を見る。日下部くんから直接仕事の深い話を聞いたことはないけれど、相変わらず忙しそうで、特に大きく仕事が減っているという様子もなさそうだ。桐生院さんから得た仕事だけではなく、日下部くん自身が自分の力で得た仕事がそれほど多かったということなのだろう。真希乃ちゃんを安心させるために、私も一度大きく頷く。そこでようやく、真希乃ちゃんは安心したようで「よかった」と表情を和らげた。


「二人の仲もとても良さそうで、私は安心」


 よかったね、梓くん。と笑う真希乃ちゃんに、日下部くんも「おかげさまで」と笑った。


「でも、祈里ちゃんはずっと梓くんのこと『日下部くん』呼びなんだね?」

「あー、そういえばそうだね。あんまり考えたことなかった」


 昔からそうだから、と真希乃ちゃんに返す。中学生で出会ったときから、ずっと日下部くんと呼んでいて、その呼び方に慣れてしまっているのもあって、他の呼び方をするなんて考えたこともなかった。


「梓って呼ばないの?」

「えっ」

「だって、梓くんは祈里ちゃんのこと、祈里って呼んでるんでしょ?」

「あ、う……うん」

「今、梓って呼んでみたら?」

「えぇ!?」


 別に恋人なのだから、下の名前で呼ぶことに何にもおかしいことなんてない。今まで考えたこともなかったのに、いざ「梓と呼んでみたら?」と言われると、妙に意識してしまって、途端に心臓が早鐘を打ち出した。


 そっと日下部くんの顔色を窺ってみる。カップのコーヒーを飲みながら、私のことを見ていた。その目は、期待に満ちている……?


「あ……」


 真希乃ちゃんに囃し立てられ、日下部くんのほうへ体を向ける。


「あ……あず……」


 自分の顔に熱が集まってくるのが分かる。なぜだろう、梓ってただ呼び方を変えるだけなのに、どうしてこんなにも緊張してしまうのだろうか。

 思わず顔が俯く。ギュッとロングスカートの上で拳を握りしめてしまった私の頭に、ふわっと何かが被さる感覚がした。


「ファンが気付いてる。移動しよう」


 日下部くんに被せられたのは、自分のコートのフードだと気付く。


「あ、本当だ。行こっか。人が集まってきても面倒だし」


 栄斗行くよ、と日下部くんの言葉を受けて、真希乃ちゃんが久留生さんの肩を揺らした。

 日下部くんに手を引かれて、気付いたファンを撒くように人混みの中を抜けていく。私たちの前を歩く真希乃ちゃんはこんな状況さえも楽しんでいるようで、久留生さんと繋いだ手をブンブンと振っている。


 久留生さんは真希乃ちゃんに恋心があることは最近知ったけれど、真希乃ちゃんはどう思っているのだろう。真希乃ちゃんを見つめる久留生さんの目は本当に優しくて、真希乃ちゃんにも少しずつその気持ちが伝わるといいのだけれど。


「祈里、前」


 真希乃ちゃんたちを見すぎてしまった。前から来ている人に気付かず、ぶつかりそうになったのを日下部くんが軽く引っ張ってくれたおかげでぶつからずに済んだ。


「ごめん、ちょっとボーッとしてた」

「大丈夫? まだ休むか?」

「ううん、大丈夫!」


 辛くなったら言って、と微笑む日下部くんの瞳は温かい。そういえば、真希乃ちゃんの話を聞いて、日下部くんはどう思ったのだろう。


「あのさ、日下部くん」

「ん?」

「日下部くんは、その……下の名前で、呼ばれたい?」

「え? ああ……そうだな。まぁ、いずれは呼んでくれたら嬉しいけど。でも、別にすぐじゃなくていいよ」

「そうなの?」

「うん。そのうちでいいよ。ゆっくりいこ。祈里になら、日下部くんでも嬉しいし」

うん、と頷いて、日下部くんの手を握る手に力を込める。

どんどんと先に行く真希乃ちゃんたちの様子を見て、「元気だなー」と日下部くんは笑っている。


 息を吸って、一度吐き出す。震える息は、少しだけ白く残った。


「梓、くん」


 呼び捨てはできなくて、付け加えるように「くん」を付けた。ピタッと足を止めた日下部くんが、「はい」とぎこちなく私を振り向く。


「ごめん、なんでもない。呼んでみた、だけ」


 行こ、と今度は私が日下部くんの手を引く。まだまだ、スムーズに「梓くん」とは呼べそうにないくらい、ただ名前を呼んだだけの私の心臓はひどく跳ねて煩い。


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