翌朝、リビングで日下部くんと朝食の準備をする。
トーストとサラダと目玉焼き。それを三セット、ダイニングテーブルに並べた。
私の分と、日下部くんの分と、そして今、こっそりとリビングの扉を開けて、申し訳なさそうに眉を下げてこちらを見る桜井さんの分。
「桜井、おはよう」
「梓先輩、祈里さん、昨夜は本当に申し訳ありませんでした……!」
部屋に滑り込んできて、土下座でもしそうな勢いで桜井さんは私たちに頭を下げた。
「いいよ、面白かったし」
日下部くんが笑う。
「そうそう、気にしないでください。楽しかったんですよね、日下部くんとのお酒」
「……はい。久しぶりだったので、つい飲みすぎちゃって」
やってしまった、と桜井さんは頭を抱えてうなだれる。日下部くんはその肩を優しく叩いて、「ほら、朝飯食べよう」と椅子に座るように促した。
はい、と桜井さんはそれでもまだ引きずっている様子で食卓につく。バターが溶けて染み込んだトーストを一口かじって、「おいしい」とようやく表情をほころばせてくれた。その様子に安心したのは私だけではなく、隣に座る日下部くんも同じだったようで、ホッとした様子で彼もサラダに手をつけた。
年末年始の予定やこれからの仕事のことなど他愛ない話で盛り上がる。間もなく全員が朝食を食べ終わるというころ、
「昨日のこと、どれくらい覚えてる?」
脈略もなく、突然日下部くんが桜井さんにぶっこんだ。桜井さんは飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになったのか、慌ててテーブルの真ん中に置いていたボックスティッシュから一枚引き抜いて口元を拭った。
「なんですか、梓先輩、急に」
「いや、あんだけ酔ってたから。どうなのかなって思って」
「……まぁ、覚えてますよ」
ゴホン、と桜井さんは咳ばらいをする。それから居心地が悪そうに、一度椅子に座り直した。
「今、梓先輩と祈里さんが、梓先輩の家で、朝食を食べるために横並びで座っていても、何も気にならないくらいには、覚えてます」
「そう。それなら良かった。昨日、呑んでるときにも話したけど、俺たち付き合うことになったんだ。桜井、ごめん」
そう言って、日下部くんは桜井さんに頭を下げた。桜井さんはしばらくその様子をじっと見ていたけれど、「なんで謝るんですか」と表情を崩して呆れたように笑った。
「俺も初めから、桜井にはちゃんと祈里への気持ちを伝えておけば良かったと思って」
「そんなこと関係ないですよ。梓先輩が祈里さんにぞっこんなことなんて、初めから気付いていたし、それでも俺は止められなかったし。最終的に一番大事なのは、祈里さんの気持ちなので」
ふぅ、と桜井さんは息を吐き出す。それから、改めるように私たちを見た。
「梓先輩も色々あったみたいですけど、二人の想いがちゃんと通じ合って良かったです。これで僕も、本当にちゃんと祈里さんを諦められます。二人の幸せを、ずっと願ってますから」
穏やかで爽やかな冬の朝陽が、部屋いっぱいに気持ちよく広がる。柔らかくそう笑う桜井さんの顔は、とてもスッキリとしているように見えた。
日下部くんと想いが通じ合ってから、私は日下部くんの寝室で夜を過ごすことが多くなった。
日下部くんの香りがするベッドで、シーツにくるまって、行為後の後処理をしてくれる日下部くんをぼんやりと眺める。
日下部くんは部屋に置かれた小さな冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して、蓋を開けた。その様子を見ながら、ずっと思っていたことがふと口をついて出た。
「日下部くんって、初めてじゃないよね」
水に口をつけていた日下部くんからゴボッと大きな音がして、それから彼はゲホッと激しく咽た。「えっ!?」と焦ったように揺れる目で日下部くんが私を見ているから、頭の中で思っていたことが口に出てしまっていたのだと気付く。
「え…あ、いや……なんだろう。すごく、慣れてる? 気がして。こういうことに」
「は!? いや、別に慣れてるわけじゃ……」
「でも、私が初めてじゃないよね? お互いに、もう二十五とか二十六だし、当たり前だなとも思ってるよ」
嫉妬とかじゃなくて、と体を起こして手を顔の前で否定するように大きく振る。ふと気になっただけだ、と言えば、日下部くんは困ったように眉を下げた。
「経験は、ある。別に言う必要ないと思って、言ってなかっただけ」
「う、うん」
「中学のときに祈里と別れて、でもそのあともずっと祈里のこと忘れられなくて。高校と大学と、それから投資家として活動を始めてから、結構色んな人と付き合ったんだ。桜井が朝言ってた、色々っていうのはそのことだと思う」
日下部くんがベッドの端に腰かけた。項垂れるように言葉を続ける。
「祈里のこと忘れたくて、そのときに色んな人と関係を持ってる。でもどの人とも長続きは当たり前だけどしなくて……。あ、祈里に付き合おうって言ったときは、当たり前だけどそんなことはもうしてないから」
日下部くんが慌てた様子で私を振り返る。最初に付き合おうって言ったときも、もちろんそういう関係は全て切っていたと日下部くんは続けた。
「祈里と再会して、やっぱり祈里が好きだって思って……そういうことはもうやめようって決めたんだ。祈里と付き合うことはできなくても、誠実でいようって思ったから。ごめん、黙ってて」
私に触れようと伸ばした手を、日下部くんは躊躇うように引っ込めた。触られたくないと私が考えたと思ったのだろう。
「祈里に慣れてるって言われて……今までのこと後悔してる。でも、俺は、今まで感じたことないくらい、祈里とするのは緊張するし、今でも指が震えるくらいなんだけど……」
日下部くんの手に自分の手を伸ばす。指を絡めるように、その手をギュッと握り込んだ。こんな悲しい顔をさせたいわけじゃなかった。
「ごめんね、慣れてるなんて失礼なこと言って。私は、今でも日下部くんに触れたいし、触れてほしいって思ってるよ」
「……汚いとか、思ってない?」
「思わないよ。ちょっとびっくりはしちゃったけど……でも、日下部くんが一途なのは、私が一番よく知ってるから」
日下部くんから気持ちが離れていないことをどうしたら信じてもらえるだろうか。
繋いでいた日下部くんの手を私の頬に当てる。温かくて大きな手で、私は日下部くんのこの手が大好きだ。
「今日も、朝までここで一緒に眠ってもいい?」
日下部くんは一瞬、きょとんとした顔をしてから、暗がりでも分かるくらいボンッとその顔を赤くさせた。
繋いでいないほうの手で、その顔を隠すように覆う。
「~~~っ、祈里さんっ。それは、なに? わざとやってる?」
「うん、今日はわざとやってる」
ベッドが軋む音がする。日下部くんの手が、私の体の横に置かれて、気付けば視界は日下部くんの顔と天井を映した。
「先に煽ったのは祈里だからな」
「うん」
頬を優しく撫でてくれる指がくすぐったくて、くすくすと笑いが零れてしまう。日下部くんは眉間に皺を寄せて、不満そうな声を上げた。
「随分と余裕そうですね?」
「だって、日下部くんって私のこと大好きなんだなぁって思って」
日下部くんが黙る。それから、「それはそうだけど……」とごにょごにょと何かを言ってから、私の首筋に唇を寄せる。温かい吐息がくすぐったさと背中に痺れを走らせるから、思わず身を捩った。けれど、日下部くんの大きな体で上にあるせいで上手くそれを逃がすことはできなかった。
「朝までここにいてもいいけど、寝かせてあげられないかも」
余裕なく揺らめく日下部くんの瞳が私を映している。
それを受け入れる意味を込めて、日下部くんの首に腕を回した。