「祈里、おかえり」
「ただいま。ありがとう、迎えに出て来てくれて」
お父さんがマンションの外で待ち構えているかもしれないと相談してから、日下部くんは私の帰宅に合わせてエントランスの外で待っていてくれるようになった。
今のところ仕事現場にお父さんは来ていないが、そちらも時間の問題かもしれない。荒木さんにも話したほうが良いという日下部くんのアドバイスから、事務所で荒木さんに今の状況を話した。
荒木さんもとても心配してくれて、しばらくは、なるべく仕事現場に同行するようにすると言ってくれた。
申し訳ないと謝れば、「またすぐそうやって謝る」と荒木さんは少しだけムッと怒ったような表情をした。タレントを守るのは俺たちの仕事だと言う荒木さんに、「ありがとう」と返せば、いつもの柔らかな笑顔で私の頭を撫でてくれた。
「夕飯、作ってあるけど。何か食べてきた?」
「ううん、今日忙しくてご飯食べる時間なくて、お昼から何も食べてないの。日下部くんのご飯、食べたいな。お腹ペコペコ」
「ん。じゃあ、すぐ準備する」
「私も手伝うよ」
玄関で靴を脱ぎながらそんな会話をする。自分の部屋に荷物を置きにいって、一緒にキッチンに立って日下部くんが作ってくれた夕食を食卓に並べる準備をする。
お鍋の中にはクリームシチューが入っているのだろうか。クリームの甘い香りが鼻をくすぐる。セーターの袖をまくって、お玉でお鍋の中を日下部くんがかき混ぜている。温かそうな湯気と日下部くんの横顔に肩の力が抜けて、心が満たされていく感覚。
「なに? 俺の顔、なんかついてる?」
じっと見つめていた私の視線を日下部くんが笑う。私はそれに「ううん」と首を横に振った。
「幸せだなーって思って」
心の奥から、自然とその言葉が出た。
好きな人の傍にいられること。温かい部屋で、温かな料理を一緒に食べられること。なんて穏やかな空間なんだろう。
「俺も幸せ」
コンロのスイッチを切って、日下部くんが私の前に立つ。私の髪を耳にかけるようによけると、そっと頬に手を添えて優しく口づけをしてくれた。
日下部くんに抱き着いて、胸元に耳を当てる。少しだけ早い日下部くんの鼓動が、自分と同じで嬉しくなる。
大きな幸せはいらないから、こんな風にささやかで静かな幸せが、いつまでも続いて欲しい。
「あ、そうだ。明日の夜、出掛けてきてもいい?」
夕飯を食べながら日下部くんが思い出したように言った。
「うん、もちろん。どこに行くの?」
「ちょっと桜井と吞んで来る。忘年会みたいな感じ」
「分かった、楽しんで来てね」
桜井さんの名前が出て、少しだけ心臓がドキッとした。桜井さんにはまだ日下部くんと正式にお付き合いを始めたことを話せていなかったから。
見返りなんて求めずに、桜井さんはとても良くしてくれた。だからこそ、私も誠実に桜井さんと向き合いたいと思っている。
「祈里? どうした?」
「ううん、何でもない」
日下部くんに首を横に振って見せる。桜井さんには、ちゃんと自分の言葉で伝えたい。近いうちに私も桜井さんに連絡を取って、しっかりと目を見て話をしよう。
日下部くんが作ってくれたクリームシチューに入っていた人参を頬張る。優しい甘さが口の中いっぱいに広がる。「おいしい」と日下部くんに笑いかけた。
翌日の夕方、私の帰宅と入れ違うようにして日下部くんは桜井さんと食事をするために出掛けて行った。久しぶりに家で一人の時間を過ごす。
洗濯物を畳んだり、自分で作った夕食を食べたりしながら日下部くんの帰りを待つ。
明後日に控えた新しいドラマの撮影のために、台本を開いて、セリフの最終確認をしていたときだ。
日下部くんが家を出てから、三周ほど時計の針が回ったころ。
玄関扉が開く音がしたと思ったら、ドタバタと大きな音がした。
「えっ、誰……? 日下部くん?」
恐る恐る玄関へと続く扉を開く。ドアの隙間から覗き見れば、日下部くんが倒れ掛かっていて、その肩には桜井さんの腕がかろうじて引っかかっている状態だった。
「おい、桜井! しっかり立て……あ、ここで寝るな!」
「日下部くん、大丈夫?」
「ああ、祈里。悪いけど、水持ってきてくれる? 完全に酔いつぶれて、ひとりで帰らせるの心配だったから、連れて帰って来た」
こいつこんなに酒癖悪かったかな、と日下部くんは苦笑いをしながら、玄関先で仰向けに寝転ぶ桜井さんの靴を脱がせている。
「梓せんぱ~い、ありがとうございます~」
桜井さんがワハハと笑いながら、ふわふわと言葉を紡いでいる。
「分かった分かった。今、水持ってきてやるから」
それを日下部くんは適当にいなしていて、私は水を取りに一度キッチンへ向かった。次に水の入ったグラスを持って玄関に戻ったときには、なんとか桜井さんを壁にもたれさせながら座らせることができているようだった。
「桜井さん、お水です。大丈夫ですか?」
「ありがとうございます~。って、あれ? 祈里さぁん?」
グラスを受け取った桜井さんが、ぼんやりとした瞳で私を見る。それから、へらりと笑って、小さい子のようにもう一度「ありがとうございます~」と回っていない舌と共に頭を下げた。
「ここ、梓先輩の家じゃないんですかぁ?」
「そうだよ、俺の家だよ」
「なんで祈里さんがぁ?」
そう桜井さんは首を傾げてから、一拍置いたあとにハッと目を丸くさせる。それからパッとその表情を明るくさせて、隣にしゃがみ込む日下部くんの肩をバシバシと叩いた。
「ついにですか! ついにちゃんと交際をスタートさせたんですね! いやぁ、よかった!」
「桜井、お前、酔い過ぎだ、」
「これで僕も、やっと祈里さんを諦められます! 本当に二人とも幸せになってくださいね!」
そう言う桜井さんは本当に嬉しそうで、それでいてどこかスッキリと晴れやかな表情をしているから面食らってしまった。
桜井さんには傷ついて欲しいわけじゃない。けれど、こんなにも幸せそうな表情で言われることも全く予想していなかった。桜井さんを日下部くんに紹介してもらったころ。日下部くんが「桜井に迷惑をかけるな」と言ったのは、きっと彼がとても優しい人だと知っていたからなのだろう。
「桜井さん……」
ありがとう、と言いかけて口を閉じる。日下部くんに抱き着いたままの桜井さんから、スーと静かな寝息が聞こえてきたからだ。
日下部くんと顔を見合わせる。そして私たちは同時に吹き出した。
「桜井はこのまま俺のベッドに連れて行くよ」
日下部くんが桜井さんを抱きかかえるようにして起き上がらせる。けれど身長がほとんど同じ二人だから、ほとんど桜井さんは引きずられる形になっていた。
それでも起きないところを見ると、相当お酒を呑んで酔っ払っているようだ。
「うん。荷物とか上着は私が運ぶね」
日下部くんが脱がせてくれていた上着や、転がったままになっていた桜井さんのバッグを抱えて、日下部くんの後をついていく。
なんとかといった形で、日下部くんのベッドに桜井さんを寝かせる。くたびれた、と日下部くんはおかしそうに笑った。
「桜井、ちゃんと今日のこと覚えてるかな」
「どうだろう」
どこかまだ幼さの残る桜井さんの寝顔を日下部くんは覗き込む。
「桜井のおかげで、祈里に気持ちをちゃんと伝えることができたよ。また改めてちゃんとお礼は言うけど、ありがとう」
日下部くんはそっと桜井さんの頭を撫でた。日下部くんのその柔らかい表情から、桜井さんのことを後輩としてとても大事にしていることが分かった。
ゆっくり寝かせてやろう、と日下部くんに促されて部屋を出る。すやすやと眠る桜井さんを起こさないように、私たちは静かに扉を閉めた。