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第六十九話 雪解けの予感

 ダイニングテーブルを挟んで、私たちは向かい合って座っていた。お昼ご飯が終わって、一息ついたころ。


「それじゃあ、話すね」

「うん」


 私は日下部くんに、お父さんのことを話し始めた。

 物心ついたときから、家は借金まみれでその返済に追われていたこと。そのせいで、お母さんは体調を崩し、今も入院していること。


 中学時代、日下部くんと別れを決意した、あの日のこと。


「私と付き合ったら、日下部くんまで不幸になると思った。お父さんは、それほどお金にがめつい人だから」


 日下部くんは静かに、途中で何か言葉を挟むことをせず、私の話を聞いてくれる。途中、自分の手が震えていることに気が付いたとき、日下部くんがそっと私の手を握ってくれた。その手は温かくて、とても優しかった。


「日下部くんが桜井さんとのお仕事を紹介してくれたり、私を色々な企業と繋げてくれたおかげで、一度は借金の返済ができたの」


 それが日下部くんと一緒に暮らしだす、少し前のことだった。


「そのときに、お父さんには縁を切るって伝えてた。それからお父さんから連絡はなかったし、平和な日々が訪れると思っていたの」


 でもね、と続ける。日下部くんの目を見れば、彼は一度「うん」と相槌を打ってくれた。


「お父さんが、会いに来たの。私に。そんな話、誰にも一言も話したことがないのに、日下部くんと一緒にこのマンションで暮らしてることも知ってた。怖かった」

「お父さんが、目の前に現れたことが?」

「それもあるんだけど、そうじゃなくて。お父さんはまた借金をしていて、またその返済を私に払わせようとしているの。でも私が渋ったら、あの人、日下部くんに近付こうとしてた。私、それが一番怖かった。今度こそ、日下部くんに迷惑をかけてしまうんじゃないかって」


 泣き顔を見られたくなくて、顔を両手で覆う。


「それに、借金取りだって何度もこの家に来るようになるかもしれない。だから、もう日下部くんの隣にはいられないって思った。やっぱり、二度と会わないほうがいいんじゃないかって。私は、どうあがいても、あの人の娘だから」


 日下部くんに抱き寄せられる。力強く、温かい体温に体が包まれる。日下部くんは優しく私の頭を撫でて、「大丈夫だから」と子どもを宥めるように言った。


「ありがとう、祈里。話してくれて。それから、それでも俺の傍にいるって選んでくれて」

「でも、やっぱり迷惑はかけられないから……。お父さんのことは、自分で何とかする」

「それだけはダメだ。きっとそれじゃあ、何の解決にもならない。何度も同じことを繰り返すことになると思う」


 体を離した日下部くんは腕を組む。それから少しだけ怒ったように、ムッと眉間に皺を寄せる。


「俺と祈里の関係は?」

「え? えっと……恋人、です」

「うん。恋人になるとき、俺がなんて言ったか覚えてる?」

「ええっと……」

「もっと頼って欲しいって言った。祈里だって、俺が困ってたら助けたいって思うだろ」

「それは……」


 そうだけど、と頷く。


「実際、祈里は俺のために……あのときは城川もいたけど、俺たちのために体まで売ろうとしてくれてただろ。それと同じ気持ちが、俺にもあるわけ」


 日下部くんは組んでいた腕を解いて、私の手を、指を絡めるように握る。


「何があっても、俺は祈里から離れるつもりはない。何度だって言う。俺は、ずっと祈里の傍にいる。助けたいんだ、祈里のこと。協力させてくれないか」

「本当に……いいの?」


 日下部くんの目を窺い見る。日下部くんは真っ直ぐな目で私を見る。その瞳には、情けない、泣き顔の私が映っている。

 日下部くんは一度大きく頷いて、「当たり前だろ」と笑った。


「一緒に、ちゃんと幸せになろう。もう祈里のことをひとりぼっちにはさせないから」


 また日下部くんに抱きしめられる。ふわりと香る甘い香り。私と同じ洗濯洗剤の香りの中に、日下部くんの香りが混じっている。それは私の心をほどいて、安心させてくれて、勇気をくれる。


「ありがとう」


 日下部くんの背中に回した腕に力を込める。もう決して離れることがないように、日下部くんの服をギュッと握った。



 ルーチェプロモーションの報道が世間に流れたのは、それから三日ほど経ったころだった。

 週刊誌やワイドショーなど、様々なメディアで【所属タレントに不適切な接待を強要】という見出しで取り上げられた。


 瞬く間にそれは人々の間で大きな話題となり、ルーチェプロモーション、そして不適切な接待を受けたと言われている企業はその対応に追われることになった。

リークした日下部くんだけでなく、報道後はルーチェプロモーションに所属しているタレントたちからも告発する声が多く上がり、桐生院社長は逃げられないと思ったのだろう。長時間に渡る記者会見を行った。


 ルーチェプロモーションは有名タレントを多く輩出し、芸能界でも一、二を争う大手プロダクションだ。注目を集めるのは当然で、テレビ各局ではその様子を中継し、動画投稿サイトでもライブ配信が行われるほどだった。

 記者会見の最後には、社長という役職を退くことが発表された。児童養護施設の経営からも外れるという話だった。


「と、いうわけで。今日付けでコスモプロダクション所属になります。城川真希乃です」

「久留生栄斗です」

「よろしくお願いします!」と、二人のフレッシュな声がコスモプロダクションの事務所に響き渡る。

「えっ、ええ? どういうこと、荒木さん!?」


 よろしくねー、と呑気に拍手をしている荒木さんに詰め寄る。荒木さんは「どういうこともなにも」と笑っている。


「この二人は、うちが引き抜きました!」

「引き抜かれましたー!」

「引き抜いたって……ええ?」

「ずっと話してたんだよ、あの日から」


 困惑する私に荒木さんは穏やかな声で説明する。


「あの日って……あの、記者の人と色々あった日?」

「そう。ここに連れて帰ってきて、城川さんが望むなら、うちにおいでって話をしてたんだ」


 祈里ちゃんだって考えてたでしょ、と荒木さんが続ける。


「あの履歴書を見て、そこに嘘はないんじゃないかって思わなかった?」


 真希乃ちゃんがうちに持ってきた履歴書を思い出す。『羽柴祈里さんと共に、コスモプロダクションの看板女優を目指します』という文字からは、可愛らしさだけはなく、力強さも感じた。


「何か変えたくて。でも、方法が分からなくて。こういう機会にならないと抜け出せなかったのは情けないけど、でも、私、ここで生まれ変わりたいって思ったの。祈里ちゃんのポスターを見たときに、それを感じたんだ」


 真希乃ちゃんが私の手を握る。ふわりと笑うその笑顔は、とても優しくて愛らしさがある。ひとつ、何かから抜け出せたような、そんな笑顔だった。


「というわけで、コスモプロダクションは今日から所属タレントが3人になります! 社長兼マネージャーの荒木瀬那、頑張らせていただきます!」

「一緒に頑張ろうね、瀬那さん」


 意気込む荒木さんに真希乃ちゃんも同じように、小さくガッツポーズを作っている。その姿はとても微笑ましく、思わず笑ってしまう。


「そういえば、どうして久留生さんも一緒に移籍を?」


 久留生さんに尋ねる。久留生さんは「えっ」と一瞬驚いた顔をしてから、「それは……」と言葉をまごつかせた。


「真希乃ひとりじゃ、心配だから……」


 そう、照れたように久留生さんは少し小さな声が言う。その頬が耳まで赤くなっていることに気付いて、口を両手で覆ってしまった。もしかして、と真希乃ちゃんに聞こえないように尋ねれば、彼はこくんと小さく頷いた。


「向こうは、ただの兄妹だと思ってるみたいだけど」

「じゃあ、これから頑張らないとですね!」


 これから始まる未来はとても温かな予感がする。新しい一日が幕を開く。


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