私たちは互いを求めるように何度も唇を重ねる。
「ね……玄関じゃダメだよ」
私のコートを脱がせて、ブラウスのボタンに指をかけた日下部くんを咎める。それから、私たちはもつれ込みながら部屋の奥へと進む。日下部くんの寝室に入るのは、日下部くんが熱を出したあの日以来だった。
雪崩れ込むようにベッドへ。口元から頬、そして首筋に日下部くんの熱っぽい唇が当たって、そこから火が灯るように体が熱を帯びていく。
私の手を掬い取って、指先にまでキスを落としてくれる日下部くんの真っ直ぐな瞳を、見つめ返す勇気はなくて、伏せるように目を逸らした。
日下部くんの指がスカートの中へ忍び込んできて、下着に指を引っ掛けたところで、とても大事なことを忘れていたことに気付く。
「あ……っ、日下部くん、ちょっと待って、」
「待てない」
身を捩る私を捕まえるように、私の脚の間に割って入った日下部くんに腰を掴まれる。触れられるたびに甘い痺れに体が反応してしまうけれど……。
「だ……ダメ! 日下部くん、ストップ!」
まるで犬を躾けるように言ってしまった。びくっ、として動きを止めた日下部くんの腕の中から抜け出して、廊下へと出る。
廊下の隅に置かれていた小さな白い箱を手に取った。まずは箱がひっくり返っていなかったことにホッと胸を撫で下ろした。
「祈里?」
怪訝そうで、そして不満そうな顔で半裸の日下部くんが部屋の中から顔を出す。
「ケーキ! 真希乃ちゃんが、日下部くんにって持たせてくれたの。よかったぁ、崩れてなくて」
箱を持って振り向いた私を日下部くんは一瞬、唖然としたような表情で見たけれど、すぐにその口元を柔らかく緩めてくれた。それから、くすくすと笑いを零しながら私のほうへと近寄ると、乱れた私の服を直してくれる。
「コーヒーか紅茶か淹れる。一緒に食べよ」
私の頬に触れるだけのキスをして、彼は頭を撫でると、自分の寝室ではなくダイニングとリビングがある部屋のほうへと進んでいく。私もケーキと脱ぎ散らかしたままだったコートを手に取って、その後に続いた。
日下部くんがお湯を沸かしてくれている間に、ケーキ用のお皿とフォークを用意する。紅茶かコーヒー、どちらが良いか聞かれ、コーヒーをお願いした。
「ケーキ、半分こにする?」
「ううん、私はもう真希乃ちゃんの家でいただいてきたから。これは日下部くんが食べて」
「ん、分かった」
インスタントコーヒーを個包装の袋から出して、日下部くんがカップに引っ掛ける。お湯を注ぐと、ほろ苦い香りが部屋中に広がって癒される。
「ケーキ出すね」
「ありがとう」
箱を開けて、ケーキを覗いてまずは崩れていないことに安心する。それから、それが小さなホールケーキであることに気付いて、疑問に思う。私が真希乃ちゃんと食べたのはカットケーキだった。日下部くんに対してのお礼や謝罪の気持ちからホールケーキにしたのだろうか。日下部くんは体も大きいし、これくらいならひとりでペロッと食べられちゃうのかもしれない。
形が崩れないようにケーキを慎重に引っ張り出して、真っ白なクリームが美しいデコレーションケーキの上に乗ったチョコレートのプレートを見て、私は思わず「え?」と声を上げてしまった。
「なに? どうした?」
日下部くんが私の声に驚いたように、私の手元を覗き込む。私は恐る恐る、日下部くんを見た。
「今日って、何日だったっけ」
「……十二月二十四日」
私の意図を察したのか、日下部くんは言いにくそうに答えた。『HAPPY BIRTHDAY 梓くん』と書かれたチョコレートの文字を見て私は頭を抱える。
すっかり忘れていた。日下部くんの誕生日を、というよりは、今日が何日かということを。
「本当にごめん! 私、何にも用意してない……!」
「全然いいよ、それどころじゃなかったし。実際」
「で、でも……」
「いいって。本当に。プレゼントとかなくても、祈里が帰ってきてくれたし」
日下部くんは優しく微笑むと私の腰を引き寄せる。それから私の瞼にキスをして、唇にも重ねるだけのキスを落とす。
「今、こうやって一緒にいられることが何より幸せだし、これ以上ないプレゼントだよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいし、私も幸せ……でも、後でちゃんと盛大にお祝いさせて?」
「分かった。楽しみにしてる」
じゃあケーキ食べよう、と日下部くんが私から離れてコーヒーカップを二つ持つ。私もお皿に乗せたケーキを丁寧に持ち上げて、ダイニングのテーブルがあるほうへと移動した。
「俺ひとりじゃこれ食べきれないから、祈里も一緒に食べてくれる?」
「いいの?」
「もちろん。そのほうが俺も嬉しいし」
「それじゃあ、ありがたくいただくね」
フォークもう一つ持ってくるね、と再びキッチンのほうへ戻ろうとした私は、日下部くんの思い出したような「あ、」と言う声に振り返った。
「あのさ、プレゼント……欲しいものがあるんだけど」
「あ! うん。リクエスト? もちろん、いいよ。なんでも言って! 高いものはちょっと難しいかもしれないけれど……」
「いや、あの……」
日下部くんは言いにくそうに言葉をまごつかせると、視線を泳がせる。それから、一度唇を引き結んでから、意を決したように口を開いた。
「ケーキ食べたら、さっきの続きがしたい」
「さっき……?」
なんだ、と思考を巡らせ、それがすぐに何を意味しているか分かり、顔に熱が一気に集まってくる。日下部くんに触れられたところがぶり返したように熱い。
「え、あ、あの、」
「今朝も、お預けくらったし……! 今度は、最後まで……!」
何言ってたんだ、俺、と今度は日下部くんが顔を両手で覆って天井を仰ぐ。顔は見えなくなってしまったけれど、耳まで真っ赤になっていることに気付いた。
勇気を出して、言いにくいことを口に出してくれたのだと思うと、胸がギュッと掴まれるような感覚がする。好きな人と結ばれて、求められることがこんなにも嬉しいと知らなかった。
(ううん、私は知ってたはず……)
日下部くんがいつも私を必要としてくれて、求めてくれていたこと。そして、愛をたくさん与えてくれていたこと。
だから、これからは私も……。
「私も……。私も日下部くんとひとつになりたい」
私もこれから、日下部くんにたくさんの愛を伝えていく。もう彼を、自分から手離すことはしない。ずっと一緒にいられるように、努力する。
私からの返事に日下部くんは恥ずかしそうにハニカムと、「うん」と頷いた。
「それじゃあ、ケーキ食べよ」
「うん」
目が合って笑い合う。気まずいような、でも心地の良いような、くすぐったい時間が流れる。いつまでも、こんな時間が続けばいいのにと願う。
間接照明の明かりが灯る、薄暗い日下部くんの部屋。甘い余韻に浸る。
「大丈夫?」
「うん、平気」
ベッドに力なく横たわる私の、汗で額に貼り付いた前髪を払うように日下部くんが指で梳いてくれる。
日下部くんのベッドの隣には小さな冷蔵庫が置いてあって、彼はそこから水の入ったペットボトルを取り出すと、栓を開けて私に差し出してくれた。
体を起こして、水を口に含む。冷たい水が喉を通って、火照った体を冷ましてくれるように心地いい。
ふと時計を見れば、間もなく零時になろうとしているところだった。
「日下部くん」
「ん?」
ベッドの淵、私の横に日下部くんは腰を下ろす。
「お誕生日おめでとう。まだ、ちゃんと言ってなかったから」
彼の体に抱き着くように腕を回す。
「あと……愛してる」
しばらく経っても、日下部くんからは何も反応が返ってこなくて、恐る恐るその表情を伺い見る。
「あの……? 日下部くん……?」
「ごめん、よく聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
「え? あ……えっと……愛してる」
一度目は自然と口から出たけれど、もう一度、その言葉を紡ぐには随分と勇気がいる。躊躇いがちに言えば、また日下部くんから「ごめん、また聞こえなかった」と言われた。
「ねぇ、日下部くん、わざとだよね!?」
「何回だって聞きたいだろ!? 好きな人からの愛してるなんて! 次は、梓って名前付きで、」
「あ、そういえば、私たち夜ご飯食べてない!」
「あ! 誤魔化した……!」
お互いㇺッとした顔を向けて、目が合って数秒。耐え切れなくて、同時に吹き出す。笑い合い、 日下部くんは私を抱きしめるようにして、隣に寝転んだ。
「いいよ、夜ご飯なんて。もう俺、お腹いっぱいだし」
想いを伝えあってから何度目だろうか。日下部くんが私の額にキスをしてくれる。私もそれから彼の胸元へと擦り寄った。
「ねぇ、日下部くん」
とくとくと、日下部くんの規則正しい心臓の音が聴こえる。それだけで、心のモヤモヤもざわめきも静かになっていくような気がする。
「明日、話すね。私のこと。全部」
これからも、ずっと一緒にいたいから。
日下部くんは、静かな声で、そして私を安心させてくれるように、「うん」と優しく頷いてくれた。まわされた腕は力強く、いつまでも私を抱きしめてくれていた。