「……祈里は、今でも俺と離れたほうが良いって思ってる?」
日下部くんの問いかけに戸惑う私がいる。城川さんの顔が思い浮かんだからだ。
今回のことは、城川さん自身が仕組んだことだったとしても、城川さんが日下部くんを想う気持ちは変わらない。
それから、もう一人。お父さんのことが頭を過って、息が詰まる。あの人がいる以上、私はやっぱり日下部くんから離れたほうがいいんじゃないか。
それなら私は身を引いて、城川さんの恋を心から応援してあげたい。
曖昧に、ぎこちなく一度頷く。頷いたきり、俯いた顔を上げることができなくなってしまって、膝の上で握る自分の手を見つめることしかできなかった。
「ごめんね……私じゃ、やっぱり……日下部くんのことを幸せにできないと思う」
城川さんのほうが、と言いかけた私の肩を強く日下部くんが掴む。強引に振り向かされて、驚いて顔を上げれば日下部くんと目が合った。その表情は、とても苦しそうだった。
「なんで、俺の気持ちを無視して、勝手に決めつけるんだよ」
「勝手になんて、決めつけてないよ!」
「決めつけてるだろ! 俺が幸せかどうかは、俺が決める! 俺は、その相手が城川や他の誰かでもなくて、祈里がいいんだよ。祈里じゃなきゃ、ダメなんだ」
そう言って、私を抱きしめる。シャンプーの香りに混じる日下部くんの香りに胸が高鳴って、日下部くんのことが好きで仕方がないことを嫌でも私自身が分からせてくる。
(愛しているから離れたいのに……)
「私も、日下部くんのことしか好きになれないよ。日下部くんしかいないって思ってる」
でもね、と続けようとすれば、流したくない涙が溢れて止まらなくなる。私と一緒にいたら、絶対に不幸になる。私がお父さんと離れられない限り、日下部くんにまで迷惑をかけてしまう。絶対あの人は、日下部くんのお金にまで手を出そうとするから――……。
「でも、私じゃダメだよ。一度はそれでもって思ったの。でも、やっぱり、」
「何をそんなに俺から遠ざけたいんだ? 何をそんなに怖がってるんだよ。城川が俺のことを好きだからっていうのも、もちろんあるんだろうけど、それだけじゃないだろ」
少し体を離して、日下部くんは私の心の中を探るように見る。私はそれから逃れるように顔を逸らした。
「前にも話したけど、祈里と一緒なら、俺はそこが地獄でも構わない。地獄の中でも、祈里を絶対に幸せにする。もっと俺のことを信用して欲しい。お願いだから、一人で抱え込むのはやめてくれ。もう、失いたくないんだよ。祈里のこと」
「でも、日下部くんのこと、いっぱい困らせたり、悲しませたりするかもしれない」
「それでもいい。それでも俺は、祈里と離れるほうが嫌なんだ」
もう一度、日下部くんが強く私を抱きしめる。この背中に腕を回していいのだろうか。腕を回して、私も好きだと言っていいのだろうか。
「私も、離れたくない。本当はずっと一緒にいたい」
ごめんね、城川さん。やっぱり私、日下部くんのこと諦められない。ずっとずっと大好きだった。誰よりも幸せになって欲しいって願ってきた。城川さんが幸せにしてくれるならって思って、本気であなたの恋を応援したかった。でも、私、やっぱり日下部くんの隣に立っていたい。そして、いつか二人で幸せになりたい。
「好きだよ、日下部くん。愛してる。日下部くんから離れるなんて、もう絶対に言わないから、」
言い終えるよりも先に、日下部くんの唇が私の唇を塞ぐ。前にキッチンでした触れ合うだけのキスではなくて、もっと深いキス。唇の隙間を割って入ってくる日下部くんの舌が、私の舌を絡めとった。
全身の力が抜けて、ソファーに体が倒れ込んでいく。それを日下部くんが優しく支えてくれる。
呼吸が追い付かなくて、唇が離れるころには肩で息をしないと苦しいくらいだった。
「俺も、愛してる」
私を見下ろす日下部くんの表情は、初めて見るものだった。苦しそうで、でもどこか嬉しそうな。それでいて、射抜かれそうだと思うくらい真剣な瞳。
どちらからともなく、私たちはもう一度唇を重ねた。日下部くんの頬に触れる。この温もりが愛おしい。
……スマートフォンのアラームが鳴っている。微睡む頭のまま手を伸ばして、枕の下に埋まってしまっていたそれを取り出して、アラームを切った。
ボヤける視界は瞬きを繰り返すうちに鮮明になってくる。
目の前には、スヤスヤと穏やかな寝息を立てる日下部くんの顔。
「……。……っ!?」
(日下部くんが隣に!?)
慌てて体を起こせば、肌触りの良いシーツがはらりと滑り落ちる。一糸まとわぬ自分の体にまた驚いて、慌ててシーツを引き上げた。
ああ、そうだった、と脳が目覚めていくにつれ鮮明に思い出せる昨夜の記憶。
バスルームでつけてしまったアダルトビデオと昨日の私たちが重なって、顔から火が出そうなほど熱が上昇する。
ついに身も心も結ばれてしまったのだ、と考えるだけで逆上せそうで、ベッドの上に散らばった下着の回収を急ぐ。
起きたばかりなのと、半ばパニックに陥っている思考によって、急いでいるつもりでもモタモタした着替えになっていれば、くすっと静かな笑い声が聞こえてきた。
振り返れば、日下部くんがこちらを見ておかしそうに肩を揺らして笑っている。
「おはよう、祈里」
「……おはよう」
「何か怒ってる?」
日下部くんが後ろから私の肩に顎を載せるように抱きついてくる。お腹あたりに回された腕が温かい。
「余裕そうだなって」
「俺が?」
「うん」
「……全然、余裕ないんですけど」
日下部くんが盛大な溜息をつく。それと同時に回した腕にギューと力を込められる。昨日からだけで、どれだけ強く抱きしめられただろう。
「今も祈里が可愛くて仕方なくて、つい笑っちゃっただけだし……」
拗ねたような口調。軽く後ろを振り返れば、本当に拗ねた表情をしている日下部くんがいて、こんな表情今まで見たことあっただろうかと驚く。普段はクールな印象が強いから、その表情に可愛らしいとキュンとときめいてしまった。
「祈里さん」
「わっ」
ぐるっと視界が反転する。私を押し倒した日下部くんは、私の頭を撫でて髪を掬うと、そっとそこに唇を寄せる。
「もう一回、したいんですけど」
なんという破壊力の強い台詞を私に向けていってくるのだろうか。思わず顔を両手で覆ってしまう。体に心地良い重さがかかる。日下部くんが私の耳元に唇を落とすから、また心臓がうるさくなる。
けれど、私は今すぐに日下部くんを止めなければいけない。
細身の割に意外と筋肉質な日下部くんの胸を押して、体を離すように言う。怪訝そうな日下部くんの目に申し訳なくなるけれど、言わなければならない。なぜなら……。
「ごめん! 日下部くん、私、今日、これから仕事なの」
日下部くんと二人、すっかり明るくなった外の世界へ出る。ホテルの中に窓がなかったせいか、時間間隔がおかしくなった気がする。
夜よりも一層、人気はなく、誰かに目撃される心配もなさそうだ。
「このまま現場入り?」
「うん。スタジオで荒木さんと落ち合う予定」
「そっか。気を付けて」
「日下部くんも気を付けて家まで帰ってね」
私の言葉に日下部くんは頷いたあと、少しだけ困ったように視線を揺らした。それから、「あのさ、」と言いにくそうに言葉を紡ぐ。
「今日は、帰って来る?」
不安そうな彼を安心させてあげたくて、駅まで歩く道、繋いでいる手に力を込めた。
「うん、帰るよ。それから、話がしたい。私のこと。全部隠さず、日下部くんに話すね」
日下部くんとずっと一緒にいると決めたんだ。だから、お父さんとのことを日下部くんに全て話すと決めた。もう、逃げたりしない。