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第六十四話 あなたと過ごす夜

 エントランスに入ると既に暖房が効いていて、冷えた体が解かされていく感覚がする。

 とても静かで、誰もいない。この空間に二人だけということについソワソワとしてしまう。

 普通のホテルのような受付はなく、目の前には大きなパネルがある。部屋の様子が分かる画像とともに部屋番号と、休憩と宿泊、両方の料金が記されている。明かりが灯っていないところは、もうすでに埋まっているのだろう。


 ピンク色で統一された部屋だとか、黒色のシックな部屋。どの部屋にも大きなベッドが置いてあって、いかにもという雰囲気だった。


「どの部屋がいい?」


 日下部くんから質問が飛んでくる。


「えっ」


 思わず声が裏返った。


「ど、どの部屋でも! 日下部くん好みの部屋でいいよ」


 今度は日下部くんが「えっ」と声を上げて、タッチパネルの上を彷徨っていた指を止めた。そして恨めしそうに私を見る。


「そう言われると、すげぇ選びにくいんだけど」

「そ、うだよね。ごめん。えっと……ここにしよっか?」


 私から誘ったわけだし。言い出しっぺは私なのだから、一番『普通』に見える部屋を選んだ。そういうつもりでここを提案したわけではないんだ、というのも少しでもアピールしたくて。


 日下部くんは短く「ん」と返事をすると、私が選んだ部屋のボタンを押した。カードキーが出てきて、案内表示に従って私たちはホテルの奥へと進む。


 五階にある部屋らしい。エレベーターを待っている間も、エレベーターに乗ったあとも私たちは無言で、目を合わせることもしなかった。エレベーター内、上部にある階数表示を見ていると、防犯用の鏡が目に入った。そこに映る日下部くんは、長い前髪のせいでよく顔が見えなかった。

 五階に到着する。選んだ部屋の上で黄色いランプがチカチカと光っていて、場所を示してくれていた。



 日下部くんがカードキーを通して、部屋の鍵が開く。入ってすぐは短い廊下になっていて、その奥にもう一つ扉があった。


 扉を閉めると勝手に施錠されて、「外出禁止です。万が一途中退室されたい場合にはフロントまでお電話ください」という案内が貼られていた。


 日下部くんの背中を追って、私も靴を脱いで部屋へと上がる。


「わ……広いね」


 ホワイトとシャンパンゴールドで構成された部屋。ダブルベッドよりも遙に大きなベッドが中央に置いてあるにも関わらず、二人掛けのラバー生地のソファーやテーブル、さらにはマッサージ器に、大きな液晶テレビまで置いてある。しかもそれなりにゆとりがある広さに感動してしまう。

 日下部くんのマンション以外で、今まで私が住んできたアパートのどれよりも広いのではないだろうか。


 そう思うと、少し虚しくもなってくる……。

 そこで、部屋の広さに圧倒されて一瞬忘れかけてしまっていた日下部くんの存在を思い出し、ハッとする。そうだ、日下部くんを温めるために私はここに来たのだった。


「日下部くん、早くお風呂で温まっておいで」

「いや、俺は後でいいよ。祈里が先に……」

「私はそこまで体冷えてないから! お先にどうぞ!」


 半ば強引に日下部くんの体を押してバスルームへと追いやる。戸惑う日下部くんの顔が見えたけれど、そのままバスルームの扉を閉めた。


 強引にお風呂を薦めたのも変な風に捉えられていないだろうか。こういうところには、好きな人と一緒に来たいと思っていたし、日下部くんのことは今も好きで仕方がないけれど、こういう場所に来れるほど進展はしていない。していないどころか、私は関係を終わらせようとしているのだ。


 そういうつもりで入ったわけではないことは日下部くんだって理解しているはずだ。何もせず朝を迎えて、退室すればいい。


 ひとり自分を納得させ、うんうんと頷く。


 コートのポケットに入れていたスマートフォンを取り出す。荒木さんからメッセージが来ていて、今夜は城川さんを事務所に泊まらせることにしたとあった。ルイちゃんはマネージャーさんに迎えに来てもらい、家に帰したとのことだった。そして、日下部くんが間に合って良かったとも記されていた。日下部くんが助けにきてくれたことは、何かしらの形で知ったのだろう。もしかすると、日下部くんが連絡してくれていたのかもしれない。


 心配かけてごめんなさい、と返信をすると、ちょうど城川さんからもメッセージが飛んできた。


『ごめんね』


 一言、そう記されていた。それには、「また近いうちに話そうね」と返し、スマートフォンをテーブルの上に置いた。


 シャワーの音が微かに聴こえてくる。


(日下部くんが来てくれなかったら、今頃私はどうなっていたのかな)


 好きでもない人と取引のために肌を重ねて、自分の中の何かを失ってしまっていたのだろうか。でも、それでも、それで二人を守ることができたなら、私は幸せだったのかもしれない。


 いつの間にかシャワーの音はしなくなっていて、バスルームの扉が開いた。頭を拭きながら、先程よりも頬の血色が良くなった日下部くんが出てきた。服は、備え付けの白いバスローブを着ている。


 ついその姿にドキドキしてしまって、目が合う前に日下部くんから慌てて視線を逸らした。何かおかしなことを口走ってしまう前に、ソファーから勢いよく立ち上がる。


「あ、私もシャワー浴びてくるね!」

「え、ああ、うん」


 いってらっしゃい、という日下部くんのすれ違うように、今度は私がバスルームの中へと逃げ込んだ。


 絶対挙動不審だよな、私。

 でも……。


(もう会わないって決めていたのにな……)


 大好きだっていう気持ちを忘れられるはずもなく、自分から離れることを日下部くんに伝えたのに、彼を見ると胸が高鳴る。


 抱き寄せられた体温、ここに入る前に繋がれた手の感触にさえ、今もまだときめいてしまうのに。


 広い脱衣所にある洗面台に手をついて、大きく溜息を吐く。鏡に、頬をうっすらと染めた自分がいることが憎らしい。


 浴室さえもこれまで自分が住んできたどの部屋よりも広く、感動してしまう。色々なボタンがあって、浴槽が七色に光ったりジャグジー機能が作動したりして、その度に「おお……」と小さく感嘆の声を上げてしまった。


 浴室の壁にモニターがついている。そういえば、お風呂でもテレビが見れると噂で聞いたことがあって、電源ボタンを押した。


 直後、画面いっぱいに映る女性の裸体。響き渡る嬌声に、ビャッと驚いた猫のように体が跳ね上がった。慌てふためきながら、なんとかモニターの電源を落とし、ホッと息を吐く。日下部くんには聞こえていないだろうかと、バスルームの向こう側へと耳を澄ませてみたけれど、特に何も物音はしなかった。聞こえていなかったと思いたい。


 私にテレビがあると教えてくれた、もう顔も覚えていない人。こういうチャンネルが備わっているのだということも教えて欲しかった。


 パニックになった鼓動のせいで体温が一気に上がってしまった。逆上せてしまいそう。


 情けない、とまた溜息を零しながら、お風呂を出る。体を拭いて、着替えなんて持ってきていないから先程まで来ていた下着を身に着けて、日下部くんと同じようにバスローブを着込んだ。


 お風呂上りで薄着なのに、寒さを感じないくらいの空調にも感動してしまう。それと同時に今まで住んできた家のランクの低さにも思わず笑ってしまった。

 若干のトラブルはあったものの、良いお風呂だったと思いながら、バスルームの扉を開ける。


「すごいお風呂だね、びっくりしちゃった」

「祈里、こっち来て」


 気まずさを感じさせないように明るく話しながら扉を開けた私を、待ち構えていたかのように、ソファーに座る日下部くんが手招き呼ぶ。真剣な目だ。


「うん」


 ピンと糸が張ったような緊張を感じる。変に明るく振る舞うのはやめて、大人しく日下部くんの隣に腰を下ろした。


「もう一回、ちゃんと、祈里と話がしたかった」


 日下部くんは、そう静かに口を開く。目を見れば、長い前髪の下で切なそうにその瞳が揺れているのが分かった。


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