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第六十三話 まるで口実

「どこか静かなところでゆっくり話そうか」


 男性記者の腕が私の肩に回される。密着する体を離したくなる拒否反応がでるけれど、笑顔を浮かべて誤魔化してみる。


 久留生さんの話では、久留生さんも城川さんも何度もこういう経験をしてきたようだけれど、二人はどんな気持ちで乗り越えてきたのだろう。

 おかしいとは思いながらも、抜け出す道が見つからなかったという感じだったのだろうか。

そんな環境は普通ではなく、ルーチェプロモーションの社長に対してふつふつと怒りが沸いてくる。


 今日をキッカケに、城川さんたちがこういう環境から抜け出すことができるなら、それは私にとってとても幸せなことだ。彼女たちは、そんなことしなくても充分に俳優として輝くことができると思うから。


 『休憩』と『宿泊』の文字が明るく照らされている看板が目に入る。これまでの人生で一度もこういう場所に足を踏み入れたことはなく、あまりのも毒々しい文字に見えて手が震えた。

 こういう場所には好きな人と一緒に、と思っていた。それはあまりに純粋すぎる考えだったのかもしれない。日下部くんの顔が一瞬瞼の裏に浮かんだけれど、こんなときに思い浮かべるにはあまりにも辛くなる。



怖いけれど、私がみんなを助けられるなら――。



「祈里!」



 不意に腕を掴まれる。私の名前を呼ぶ低い声を忘れるはずなんてなくて、けれどどうして彼の声がするのかも理解ができなくて、振り向いた私はただ目を見開くことしかできなかった。

 走ってきたのだろうか。肩で息をする日下部くんが、私の腕を強く掴んでいた。


「な、なんで……? どうして日下部くんがここにいるの?」


 日下部くんは冬なのに額に滲む汗を袖で拭う。


「城川が連絡くれた」

「城川さんが……?」

「俺も近くまで来てたから間に合ったけど……無茶なことするな、バカ」

「でもこれ以外、私には方法がなくて……」


 肩を引き寄せていた男性記者が大きく溜息を吐く。


「日下部梓まで……一体なんなんだよ、お前たちは」


 どういう関係? と私と日下部くんを交互に見る。日下部くんは男性記者から私を引き離すように腕を強く引くと、私を日下部くんの背中側へと追いやった。さっき、私が城川さんにやったように、日下部くんの背中に隠される。


「ルーチェの記事なんですけど。俺からのリークってことで、出しませんか?」

「はぁ?」


 日下部くんの言葉に、男性記者は怪訝そうに表情を歪ませた。


「俺も桐生院さんにはたくさんお世話になったので、内部についてもそれなりに詳しいです。例えば……」


 日下部くんが男性記者の耳元に口を寄せる。こそっ、と呟かれた言葉は私にも届かないくらい小さかった。


 しかしそれは男性記者を驚かせ、納得させるには充分なものだったらしい。


 男性記者は嬉しそうに口角を上げると、日下部くんの肩をバシバシと叩いた。


「またその話、詳しく聞かせてくれ。近いうちに連絡させてもらいたいんだけれど」

「はい。いつでも。これ、俺の名刺です」


 そう言って日下部くんは慣れた手つきで名刺を取り出すと、男性記者に手渡した。


「羽柴さんも、ごめんね」


 男性記者は私に片手を上げて謝ると、軽い足取りで夜の街へと消えていく。いつの間にか、私の呼び方までも「さん付け」になっていて、ただ放心しながらそれを見送ることしかできなかった。


「……なんて言ったの?」

「別に大したことは言ってない。俺が知ってるルーチェの情報を話しただけ」


 それよりも、と日下部くんは私のほうを向くと、強く私の体を引き寄せて抱きしめる。その腕に込められた力が強くて息苦しいくらいだ。


「こんなことで、自分を犠牲にしようとなんてするな」

「こんなことって……」

「城川だってそうだ。荒木さんが、俺に電話くれて色々教えてくれたんだ。それで全部納得できた。城川がどうしてまた俺に近付いてきたのかも」


 さらにギュッと力を込めて抱きすくめられる。


「なんで自分だけで何とかしようって無理するんだよ。相談してくれよ、ちゃんと。そんなに俺って頼りない?」

「……ううん、そんなことない」


 日下部くんが誰よりも頼りになることは、きっと他の誰よりも私たちが知っている。ただ、私も城川さんも、あなたを巻き込みたくなかっただけだ。巻き込まずに助けられるなら、それが一番良かった。でも結局、私たちは日下部くんに助けられることになってしまった。


 もし、城川さんがああいう形で日下部くんと再会を果たさなかったらどうなっていたのだろう。初めから「助けて欲しい」と言っていたとしたら、上手く行っていたのだろうか。でも、城川さんは、誰よりもルーチェの社長のことを知っていて、それができないと思ったから今回のような道を選んだのだろう。一緒にルーチェと共に沈んでいくことが、一番の最適解だと……。


「そういえば、城川さんは……?」


 ようやく腕の力を緩めてくれた日下部くんから少しだけ体を離す。


「今、荒木さんと友上さんと一緒にコスモプロダクションにいる。城川のことは俺も考えてるから、安心して。簡単にルーチェに返したりはしない」

「うん、それならよかった……」


 ホッと胸を撫で下ろす。私もあとでコスモプロダクションに合流して、城川さんと話がしたい。今回やこれからのことについて、彼女の話を聞きたい。そうだ、あとで久留生さんにも連絡しないと。きっと心配しているはずだ。良い方向に向かう道もあるのだと教えてあげたい。


「それから、祈里、」


 日下部くんは私に何かを言いかけたけれど、その直後に「くしゅん」とくしゃみをした。よく見れば日下部くんはコートを着ていなくて、ひどく薄着だ。よっぽど急いでここまで来てくれたのだろう。


「一回、どこかお店に入ろう。それで何か温かいもの飲むか食べるかしよう。風邪ひいちゃう」


 この時間ならまだ、居酒屋以外でもやっているお店がギリギリあるだろう。辺りを見渡してちょうど良さそうなお店がないか探してみる。しかし近場にそういうお店は何もなさそうで、ふと艶めかしいネオンの明かりに視線が惹かれた。


 『休憩』『宿泊』の文字が並んでいる。近場で一番ゆっくりできて、暖が取れる場所かもしれない。


(いやいやいや、ここは絶対ありえないでしょう……!)


「寒い……」


 色々なことがひと段落ついたからだろうか。日下部くんは本当に寒そうで、小刻みに体を震わせている。


 背に腹は代えられないか。日下部くんとは離れる決心をしていて、こういう場所に一緒に入るべきではないと分かっているけれど、日下部くんに風邪を引かせるわけにもいかないし。助けてもらったお礼もある……。一緒に入って、何かあると決まったわけでもないし。


「く、日下部くん!」

「うん?」

「ここに、入ろう!」


 指を差して、日下部くんの手を取る。彼は、「え?」と言った後に、視線を動かすとギョッとしたように体をびくつかせた。


「いや、祈里、ここは……」

「ちょっと体、温もらせるだけだから……!」


 変な意味で言ったつもりはないのに、変な意味に聞こえてしまうのは、ラブホテルの前という場所のせいだ。まるで私が、日下部くんを誘っているように聞こえてしまう。そんなつもりはないのに……!


「……分かった」

「やっぱりダメだよね、こんなところ……って、え!?」

「祈里も体、結構冷えてるだろ。仕事に支障が出たらいけないし、入ろう」


 自分から提案したものの、日下部くんが繋いだ手を引いて、いやらしくネオンが光る入り口を進んでいくことに脳がついていけていない。


 あまりにぎこちなく、私たちは、その場所へと足を踏み入れた。恋人では、ないのに。


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