「どうぞ」
荒木さんが、向き合って座る私と久留生さんの前にコーヒーの入ったマグカップを置く。それから、荒木さんも私の隣に腰を下ろした。
「あの……城川さんを助けてほしいって、どういうことですか?」
久留生さんに尋ねる。彼は一度、頷いてから、言葉を選ぶように慎重に口を開いた。
「羽柴さんたちは、俺と真希乃が児童養護施設で育ってきたって知っていますか?」
「桐生院さんがそういう施設を経営されているのは知ってるよ」
「私は、城川さんから聞いて知ってる。お二人が、きょうだいのように育ってきたって話もしてもらったよ」
「ということは、久留生さんと城川さんは、桐生院さんの施設で育ってきたってことなのかな?」
今度は荒木さんが久留生さんに尋ねた。
「そうです。俺たちはそこで育って、それから桐生院さんが経営しているルーチェプロモーションからデビューしました。うちの事務所、そういう人が多いんです」
「えっと……それで、助けて欲しいっていうのは?」
荒木さんはそこからどう話が繋がっていくのか分からないようで首を傾げた。私も分からず頷いて、続きを話してもらえるように促す。
久留生さんが、膝の上で拳を固く握るのが見えた。少しだけ、その手が震えていることにも気付く。一体、何があったのだろうか。胸に不安が広がる。
「真希乃が、日下部さんと羽柴さんの仲を裂こうとしているのは、桐生院さんからの指示です」
「……え?」
その言葉の意味をすぐに理解できず聞き返してしまう。それは隣で話を聞いていた荒木さんも一緒だったようで、「どういうこと?」と難しい顔をした。
「羽柴さんはもう知ってる? 昔、日下部さんと真希乃がどういう関係だったのか」
「あ……うん。城川さんと日下部くん二人から話を聞いて、一応。ただ、日下部くんは交際していたことは一度もないって言ってるんだけど、城川さんのほうはちょっと違ってて……」
「それが、さっき祈里ちゃんが言ってた日下部さんと城川さんの間で起きてる誤解ってやつ?」
荒木さんが首を傾げるから、私は首を横に振った。ここまで話をするならば、きちんと話をしないといけないと思ったから。
「少し、違うの。昔、城川さんは日下部くんに告白して振られてて。そのときの城川さんは納得してる感じだったらしいんだけど……」
日下部くんから聞いた話をそのまま荒木さんに伝える。話をすればするほど、荒木さんの表情はみるみる険しくなっていって、最後まで聞ききるころには盛大に溜息を吐いた。
「それ、祈里ちゃんも日下部さんも、ひとりで抱えていい問題じゃないよ」
「……ごめんなさい」
「俺が今から話そうとしてたことも、日下部さんが羽柴さんに話をした内容とほぼ一緒です。ただ、ひとつ日下部さんが知らないのは、最初の告白も、桐生院さん……うちの社長からの指示でした。日下部さんとうちの繋がりを強くすることで、より利益になると考えていたんだと思います」
「つまり、城川さんは初めから日下部くんのことは好きじゃなかったってこと?」
「いや、それは違うんじゃないかな」
荒木さんの言葉に反射的に否定してしまう。
「たぶん、城川さんは、本当に日下部くんのことが好きだったんだと思う」
あの表情が嘘だったなんて思えない。久留生さんは私の言葉に賛同するように一度頷いた。
「真希乃が日下部さんに好意を寄せてた気持ちは本当です。社長は、それをうまく使いたかった。でも、真希乃は日下部さんに『ずっと好きな人がいる』と言われたとき、納得して、一度諦めたんです。そう言われて振られちゃったんだって、俺に笑って話してくれて……」
でも、と久留生さんは苦しそうに言葉を吐く。
「社長は許さなかった。なんとしてでも、日下部さんを手元に置いておきたいって思ってる。自分が目をかけてやったんだからって気持ちももちろんあると思います。あの人、そういう人だから。だから、真希乃は桐生院さんに逆らえない」
俺も真希乃も、生まれたときからお世話になっているから、と久留生さんは自嘲気味に微笑んだ。
「仕事を取るために、桐生院さんの指示なら俺たちは何だってしてきました。接待も、それ以上のことも。だからこそ、ルーチェはここまで大きくなった。桐生院さんには感謝しています。ここまで育ててくれたことや、仕事を与えてくれたこと。でも、こんなやり方は間違ってる」
「……どうして間違ってると思うの?」
荒木さんが静かに問いかける。久留生さんはその目元を涙で滲ませていた。
「真希乃、言っていたんです。自分の好きな人には、ちゃんと好きな人と幸せになってもらいたいって。壊れていく真希乃をもう見てられない。海外に留学に行ったのだって、ほとぼりを冷ますだけだった。真希乃が帰ってきた世界は、何も変わってないどころか、真希乃自身がまた手を汚さなくちゃいけない。違っていても、止められない世界に俺たちはいる。同じ世界にいる俺じゃ、真希乃を助けてやれないんです」
お願いです、とテーブルに頭がつきそうなくらい、久留生さんは深く深く頭を下げる。
「真希乃が、あんなに嬉しそうな顔で誰かと話すのは初めてだった。羽柴さんと親友になれたらいいのにって、ずっと言ってた」
「城川さんが……?」
「真希乃は、羽柴さんに本当にひどいことをしたと思う。それでも、助けてもいいって思ってもらえるなら、真希乃のことを救ってください」
久留生さんが目元を拭う。涙交じりのその悲痛な声に、私も荒木さんも、すぐには何も言えなかった。
また連絡することを約束して、その日は久留生さんに帰ってもらった。帰り際、久留生さんはもう一度私たちに「お願いします」と丁寧に頭を下げていった。
「……城川さん。うちに移籍したいって言ったとき、どういう気持ちだったのかな」
ソファーに深く腰かけて、背もたれに背中を預ける。
「どうだろう。でも……すごく丁寧な履歴書だったよ」
適当に書いたとは思えない感じ、と荒木さんはデスクの引き出しから一枚の紙を持ってくると、それを私に差し出した。城川さんの履歴書だった。ニッコリと微笑んだ証明写真が可愛らしい。
自由欄には、『羽柴祈里さんと共に、コスモプロダクションの看板女優を目指します』と可愛らしい字で書かれていて、思わず口角が上がった。
「今の状況を、城川さんが本当に望んでいないなら……私は助けてあげたい」
「うん、祈里ちゃんならそう言うと思った。何ができるのか、一緒に考えてみよう」
優しく、そして力強く言ってくれる荒木さんに勇気をもらう。
親友として、私は城川さんに幸せになってもらいたい。なんのしがらみもなく、日下部くんに想いを寄せて欲しい。
――好きな人には、好きな人と幸せになってもらいたい。
城川さんが久留生さんに言った言葉。私も同じことを思ってるよ。その気持ちは痛いほど分かる。
そして、あなたが助けてと望むなら、私は絶対にそこから救いだしてあげたい。
「でも、祈里ちゃん。ひとつだけ約束がある」
荒木さんの声がワントーン低くなる。真剣な目が私を見ている。
「桐生院さんが手段を選ばない人だっていうのは俺も聞いたことがある。だから、祈里ちゃんに危険が及ぶのだけは絶対に避けたい。だから、約束して」
荒木さんに両肩を掴まれる。拒否権はそこにないと分かる。
「絶対に、ひとりで色々なところに首を突っ込まないで。何かするときは絶対に俺に相談すること」
「うん、分かった」
頷いた視界の端で、スマートフォンがメッセージを受信してポップアップを表示させたのが見えた。
その受信したメッセージがルイちゃんからで、『羽柴ちゃん、今、事務所!? これからから行くから!』という、私たちに対する怒りや憤りが伝わってくる文章だったことには、このあと彼女がコスモプロダクションに荒々しく乗り込んでくるまで気付かなかった。