日下部くんの制止を振り払いながら、マンションを飛び出した。
「祈里ちゃん、どうしたの?」
ほかに行く宛てもなくやって来たコスモプロダクションの事務所。ソファーに寝転び、目元を腕で覆う。その上から、荒木さんの声が降って来る。
「ううんー、ちょっと休憩しに来ただけ」
「自分の家に帰って休みなよ。日下部くんの家、そう遠くはないでしょ?」
「んー」
荒木さんの足音が遠ざかっていく。デスクのほうへ向かったのだろう。
「ねー、荒木さん」
「うん?」
「すぐに新しい家、見つけるから、しばらくここで寝泊まりしてもいいかな?」
「えー? まぁ、いいけど」
荒木さんはそう言ったあと、少しだけ黙り込んだ。足音も止まっている。数秒の沈黙ののち、「はぁ!?」と大きな声が決して広くはない事務所中に響いた。
「ど、どどど、どういうこと? え? なに、喧嘩でもしたの?」
「してない、してない」
上体をソファーの上に起こす。寝転がっていたせいで乱れた髪を手で梳いた。荒木さんに笑ってみせる。
「喧嘩とかじゃなくて、お付き合いするのはやめようと思ったの」
「え、なんで……? だって、あんなにもラブラブだったのに……」
「それは、再会して、一時的に気持ちが盛り上がってただけ。私も、日下部くんも。やっぱり、ちょっと違うなーって思ったの」
「嘘……」
「嘘じゃないって。まぁ、だから、そういうこと。ね、いいでしょ? しばらく泊まっても」
「う、うん……」
荒木さんは納得いっていないという顔をしながらも、ぎこちなく頷いた。
近いうちに、日下部くんの家に置かせてもらっている荷物をどうにかして引き取らないといけない。その間もできるだけ日下部くんとは接触したくない。
(私のこと、最低だと思ってくれたかな……)
最低で、最悪だと思って欲しい。そして、私のことなんて嫌いになってくれたらそれでいい。いつかこんな女のことなんて忘れて、日下部くんを心から愛して、幸せにしてくれる人と一緒になってくれたら、私はそれだけで幸せだ。
もう一度、ソファーに仰向けで寝転ぶ。熱く滲む目元を隠すために、また両腕で目元を覆った。
事務所で一夜を過ごした。
「祈里ちゃん、起きて」
荒木さんが貸してくれた毛布を頭まで被っていた私は、体を揺すられる感覚に目を覚ます。まだ眠たくて、瞼が重い。
「あと十分……いや、五分だけ」
「ダメ。コスモプロダクションはもう始業時間になりますー」
壁にかかった時計は間もなく九時になろうとしている。「サンドイッチかおにぎり、どっちがいい?」と手に持っていたコンビニの袋を荒木さんはガサガサと漁った。
「なにおにぎり?」
「えっと、ツナマヨ」
「じゃあ、おにぎり貰ってもいい?」
「もちろん、どうぞ」
ソファーの前にあるテーブルに荒木さんがおにぎりを置いてくれる。私も体を起こして、荒木さんと自分の分のお茶を淹れにいく。「冷たいお茶と温かいお茶、どっちがいい?」と、さっきまで私が座っていたソファーの、テーブルを挟んで向かいにある席に座った荒木さんに尋ねれば、「温かいの」と返ってきた。荒木さんはもうサンドイッチの袋を開けていて、今まさに頬張ろうとしているところだった。
二人分の温かいお茶をマグカップに淹れてテーブルへと戻る。「ありがとう」と荒木さんは受け取ってくれて、私もソファーに座って「いただきます」とおにぎりの封を開いた。
ちらちらと視線を感じる。荒木さんが私の様子を伺っているのが分かる。
日下部くんとのことを詳しく聞きたいのだろう。けれど、一歩踏み出せないでいることが分かって、申し訳ない気持ちになった。
荒木さんには、ちゃんと日下部くんや城川さんと何があったのか話すべきだろうか。それと、どうして私が日下部くんと距離を置くという選択をしたのか……。
でもこの話をしたらきっと、荒木さんも「俺が何とかする」と言って無理をしてしまうだろう。荒木さんはどん底だった私を拾って、救ってくれた人。日下部くんのおかげで女優としての知名度が上がって、仕事が少しずつ増えて、荒木さんが創り上げたコスモプロダクションへも貢献ができるようになってきた。そんなときに、余計な心配をかけたくない。やっぱり、お父さんのことは、私がひとりで何とかする。大丈夫。お金がなかったあの頃とは、環境も違うんだし……。私だけでも解決できる。
「ねぇ、荒木さん」
「うん?」
「次の仕事、いつだっけ?」
「次は明後日。雑誌の取材が入ってるよ」
「そっか、ありがとう。これから、もっと仕事入れてくれていいよ」
荒木さんは「えっ?」と驚いたように目を丸くさせる。
「映画の撮影が終わったばっかりだし、もう少しゆっくりしてもいいんじゃない? 近いうちに映画の宣伝とかで、またすぐに忙しくなるし」
「それはそうかもしれないんだけどね。今はもっと仕事したいんだ」
「でも、前にスケジュール詰め込みすぎて、熱出したことあったでしょ?」
「あれは、なんていうか……急に忙しくなったから驚いちゃっただけ。今はもう慣れたよ、忙しいのも。ね、だからお願い」
「んー……うん、分かった。じゃあ、もっと積極的に仕事取っていくね」
「うん、NGはなしでよろしく」
「あまりに無茶なオファーは取らないよ」
荒木さんは困り顔ながらも、ジョークだと受け取ってくれたようで笑ってくれる。
「じゃあ、またスケジュール調整するね。変更があったら連絡する」
「お願いします」
立ち上がった荒木さんは、食べ終わったサンドイッチの包みを丸めてゴミ箱に入れると、そのまま自分のデスクへと向かった。さっそく今来ている仕事のオファーを確認してくれているのだろう。
今以上にお金に余裕を持たせたい気持ちが一番だけれど、忙しくすることで日下部くんへの気持ちを紛らわせることができるんじゃないかと思っている。そうしたら、この胸の苦しさからも解放されるんじゃないか。
(私が自分で選んだ道なのに……)
私が苦しんでいるなんて、なんてバカらしいのだろう。今、一番苦しいのは絶対に日下部くんだ。一日でも早く、私のことなんて忘れて、笑顔で穏やかな日々を過ごして欲しい。そう祈るために、少しだけ目を伏せた。
そのときだ。テーブルの上のスマートフォンが着信を知らせるために、バイブレーション機能で震えている。チカッと点灯したディスプレイには『友上ルイ』と表示されていて、緊張が走る。
「ルイちゃん……」
日下部くんとのことを、聞かれるのだろうか。きっと、私が日下部くんに想いを告げたかどうか気になっているだろうし。
もしそう聞かれたとき、どうやって答えたらいいだろう。城川さんとのことを話すわけにもいかないだろうし、「日下部くんとはもうそういう関係ではなくなった」と言って、「はい、そうですか」とあっさり理解してくれる子ではない。きっとすごく心配させてしまう。私も、ルイちゃんにはたくさん相談をしてきたし、色々な話を聞いてもらったからこそ、あまり嘘はつきたくないし、悲しませたくない……。
「祈里ちゃん? 出ないの?」
長く鳴るスマートフォンを見つめるだけの私に、荒木さんからは不思議な声が飛んできた。
「あ、ううん。今、出るよ」
いつまでも着信を取らないのは不自然かと、意を決して緑のアイコンをタップした。
「もしもし、ルイちゃ――」
「羽柴ちゃん!? テレビ、見た!?」
私の声を遮るようなルイちゃんの大声に思わず一度、スマートフォンを耳から遠ざける。
「え、テレビ? 何かあったの?」
「見てないなら早く見て!」
チャンネル番号を伝えてくるルイちゃんの声はひどく焦っている。スマートフォンのスピーカーから漏れる声は荒木さんにも聞こえていたようで、荒木さんがリモコンのスイッチを押して、テレビの電源を点けた。