一日ぶりの日下部くんのマンション。玄関扉を閉めて、そのまま扉に背中を預ける。玄関先には日下部くんの靴はない。部屋の中にも気配はなく、彼が出掛けていることが分かった。
寒い外から帰ってきたというのに額に滲んだ汗を拭う。
お父さんとはあれから少し話をして、そのまま帰ってもらった。このマンションには、二度と近付かないということも約束してもらったけれど……。
(ちゃんと約束、守ってもらえるかな……)
お父さんと日下部くんを引き合わせるわけにはいかない。絶対に、何があっても、接触させるわけにはいかないのだ。ギュッとスカートの裾を握り込むように拳を握った。
私が帰宅してから一時間もしない内に日下部くんが帰ってきた。珍しくバタバタと足音を鳴らしてリビングへと入ってきた日下部くんは私を見ると、少しだけ安心したようにその表情を緩ませた。
「おかえり、祈里」
「うん、ただいま。日下部くんもおかえりなさい」
「ただいま」
日下部くんはロングコートを脱いで、スーツのジャケットを脱ぐ。企業との打ち合わせに行っていたのだろう。紺色のネクタイを外すと、ワイシャツの首元を緩めた。
「なにか飲み物淹れるよ」
私はソファーから立ち上がってキッチンへと向かう。ケトルでお湯を沸かして、インスタントのコーヒーを棚から出した。コップの淵に引っ掛けるようにしてコーヒーのパックをセッティングする。まだお湯を注いでいないけれど、コーヒーのほろ苦い香りが広がっていく。
不意に後ろから腕を回され、抱き締められる。日下部くんの細いけれど筋肉質な腕に力が込められた。
「帰ってきてくれてありがとう」
「帰ってくるよ。日下部くんと話、したかったから」
「ありがとう」
「コーヒー飲みながら、話を聞かせて」
ああ、と日下部くんは頷いて、私から腕を解く。お湯を注いで出来上がったコーヒーが入ったマグカップを持って、私たちはリビングのソファーに座った。
同じタイミングでコーヒーに口をつけて、私たちは一呼吸置く。日下部くんが話し出すのを待っていると、彼は神妙な顔で、慎重にその口を開いた。
「……俺が城川に出会ったのは、大学四年のときだった」
大学四年生の日下部くんは、そのころから投資家の仕事を始めていたらしい。より多くの企業と取引をするために、紹介してもらったのがルーチェプロモーションの桐生院さんだったそうだ。
桐生院さんは日下部くんのことをとても気に入り、多くの企業と繋いでくれた。ある日、桐生院さんが設けてくれた食事の席にやって来たのが、城川さんだったらしい。「同い年で話も合うだろう」、「真希乃は友達が少ないから友達になってやってくれ」と言われ、桐生院さんにお世話になっている手前、無下にもできず、何度か一緒に食事をしたり遊んだりするようになったのだそうだ。
何度目かの食事のあと。城川さんは日下部くんに好きだと告白してきたそうだ。日下部くんは、「中学生のときから想っている人がいる」と、その告白を丁寧に断ったという。城川さんもショックを受けながらも受け入れてくれたように見えた。
しかし、数日後――……。
日下部くんは桐生院さんに呼び出された。
「君には、真希乃と結婚してもらう」
「真希乃は本当に君のことが好きなんだよ」
「僕の力を借りたのだから、今度は僕の願いも聞いてもらいたいな」
城川さんからの告白に断ったことを伝えても、桐生院さんは納得しなかった。柔らかい表情と口調だったが、脅しにも近い雰囲気を出していたという。それでも日下部くんは首を縦に振ることはなかった。
そんなときだったそうだ。日下部くんが『Tutu』に投資することが決まったのは。日下部くんは『Tutu』との取引は自分の力で手に入れたと信じて疑わなかった。しかし、蓋を開けてみれば、スタートアップモデルに起用されたのは、日下部くんが当初予定されていたモデルの女の子ではなく、城川真希乃だった。何かおかしいと思った日下部くんが当時の『Tutu』のプロデューサーを問い詰めたところ、出てきたのは桐生院さんの名前だった。
「桐生院さんがどうしてもというから、君との取引を決めたんです」
そう言われた日下部くんは絶望したという。自分の力で手に入れたと思っていたものは、全部、桐生院さんによって仕組まれたものだったのだと。
それを知った日下部くんは、すぐに『Tutu』との取引をやめたそうだ。桐生院さんとの関係も切ると決めた。桐生院さんには後悔することになると何度も言われたそうだ。そして、城川さんにも……。
「それでもそこで俺は関係を切ったつもりだった。そのあと、城川が留学を機に活動休止するって話が出て、もう会うことはないだろうって思ってた。けど、それは俺の考えが甘かったんだと思う」
「……そっか」
「あのとき、城川が家に来たときに言われたんだ。『私は、一度も日下部くんのことを忘れたことがない』って」
はぁ、と日下部くんが深い溜息を吐く。
「でも城川さん、あのとき、『あの日の約束がなしになったなんて』って言っていたけど……その約束ってなに?」
「分からないんだ、それが。なにか思わせぶりなことを俺が言ってたのかもしれない。そうだったとしたら、本当に申し訳ないとは思う。城川の気持ちを、ないがしろにしてたわけじゃないし、今もそうしたいわけじゃない」
日下部くんは、人の気持ちを踏みにじるような人じゃない。それはちゃんと分かる。だからこそ、再会できるかも分からない私のことを「今も想っている」と城川さんに伝えてくれたのだろう。そう言ったうえで、未だに彼女の心に刺さったまま、抜けない何かがある。
桐生院さんの策略や想いだけが彼女を突き動かしているとは思えない。
――「優しくて、かっこいい人」
そう頬を染めて、日下部くんの話をする城川さんの気持ちは本物だったんじゃないか。
嘘であんな顔、できないって分かる。これでも同じ女優だから。
「
でも俺は、本当にずっと祈里だけを――」
「うん。分かってる。日下部くんの言ってることは、信じるよ」
「祈里、」
「でもね、私、ダメかもしれない」
声を震わせるな。泣くな。演技が上手いとあなたが評価してくれたのだから。私は、もっともっとうまく演じることができる。今度は完璧にあなたを騙してみせる。
「城川さん、本当に日下部くんのこと好きなんだと思う。昨日、話してて分かったの」
今日、日下部くんがしてくれた話を持って、本当はもう一度城川さんと話すべきだ。それこそ、日下部くんと三人で話をしなくちゃいけないって分かってる。城川さんが、どうして日下部くんと全く違うことを言っているのか、真実を探さなくちゃいけないとも思う。でも、私にはもうそんな時間はないかもしれない。私は一刻も早く、日下部くんから離れなくちゃいけない。
「親友の好きな人を奪うなんて、私できないかも。それに、私なんかより、城川さんのほうが、ずっとずっと日下部くんを幸せにしてくれると思ったんだ」
日下部くんが眉間に皺を寄せる。とても難しい顔をしている。
「私も日下部くんのこと好きだよ? でも、城川さんほど愛せる自信、なくなっちゃった。再会して気持ちが盛り上がってただけかも」
肩を竦めて笑みを浮かべる。
「ごめんね? もう、会うのやめよっか」
お父さんをここに寄り付かせないようにするために。私が、世界で一番愛する日下部くんの幸せを壊さないようにするために。
私を見つめる、中学生のころの私。今なら、その不安そうな視線の意味が分かる。日下部くんに気持ちを伝えるということは、日下部くんを不幸にすることだと。