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第五十五話 君を守るためなら

 あれこれと考えてしまって、寝つくまでに時間はかかってしまったけれど、昨日よりはよく眠れたほうだと思う。

 充電器に挿していたスマートフォンは一晩の間で息を吹き返したようだ。急いで日下部くんとのトーク画面を見れば、「今日の夜、話したい」とメッセージが来ていた。


『充電が切れて、電話かけ直せなくてごめんね。私もちゃんと話したい。今日、帰るから、待ってて』


 日下部くんに返事をする。もう仕事に出ているのかもしれない。すぐに既読がつくことはなかった。それでも早く家に帰って、日下部くんの顔が見たい。もう出かけているとしても、その帰りを待っていてあげたい。そして、ゆっくり話を聞こう。桜井さんに言われた、日下部くんをちゃんと信じて大丈夫という言葉が、私の背中を優しく押してくれている気がする。


「桜井さん、私、帰りますね。もう電車も動き始めているみたいなので」

「駅まで送りますよ」

「いえ、ひとりで大丈夫です。桜井さんもお仕事とかあるでしょ?」

「それはそうですけど……」


 また桜井さんの眉が下がる。安心させるために、私はひとつ大きく深呼吸をしてから、口角を上げた。今日は、ちゃんと上手に笑えているはずだ。


「本当に大丈夫です。そんなに心配しないでください」

「……分かりました」


 桜井さんは渋々といった感じだが、頷いてくれた。それから、「ひとつ約束してください」と続ける。


「何かあったら、絶対連絡してください。すぐに駆け付けるので」

「ありがとうございます。そのときはすぐに連絡しますね! そんなことないのが一番ですけど」


 お世話になりました、と頭を下げる。桜井さんが一晩私を泊めてくれたおかげで、今こうやって冷静になれている自分がいると思う。……抱きしめられたり、頭を撫でてくれたのは、私の慰めるために桜井さんがしてくれた優しさだと解釈することにしよう。拒否しようと思えばできたのだから、卑怯だとは自分でも思うのだけれど。


 「虚しくなることは分かっている」と桜井さんは言っていたけれど、私の行動一つでそう思わせてしまうことは望んでいない。だからこそ、今回限りで桜井さんの心を振り回すような甘え方はしないと心に誓う。

 もう一度お礼を伝えて、桜井さんに見送られて、彼のアパートを後にする。


 外は快晴で、もう既に雪が解け始めている。昨夜は歩くたびにサクサクと積もっていた雪が鳴っていたのに、今はシャーベット状になっているせいでジャリジャリと音がした。車や人に踏まれたせいで氷のようになっているところもある。転ばないように気を付けながら、それでも駅までの道を急いだ。


 駅に着くころには息が切れていて、切符を購入しながらその息を整える。その途中で、「あの人、羽柴祈里に似てない?」と誰かが言う声が聞こえて、目を合わせる前にマフラーを引き上げて顔を隠した。桜井さんのアパート近くで、私の姿があることを見つかるわけにはいかなかった。前みたいなスキャンダルが、今度は笑い話では済まなくなりそうな気がして。


「気のせいでしょ。そんな簡単に芸能人に会えるわけないじゃん」


 そう言って笑いながら通りすぎる人に、ホッと胸を撫でおろす。誰かに見つかる前に早く日下部くんのマンションへと帰ろう。

 急いでホームまで向かい、タイミングよくやって来た電車に飛び乗った。たった数駅が、こんなにももどかしいと思ったことはあっただろうか。車窓から流れる景色を眺める。早く、日下部くんに会いたい。



 日下部くんと一緒に暮らしだしてから、何度も降り立った駅。たった一日、時間が空いただけで懐かしい気持ちになる。帰ってきたのだと思う。もうここがすっかりと私の家になっているのだと実感する。


 こちらのほうが、桜井さんのアパート近くよりもまだ雪が多く残っていた。

 白い道を速足で進む。切れる息が、白く残る。

 日下部くんと一緒に住んでいるマンションが見えてくる。

 その前に、誰か立っているのが目に入る。マンションを見上げるようにして立っている、男の人。

 見知った背格好に目を疑うとともに、心臓がバクバクと鼓動を早くする。


(なんで……?)


 どうして、この人がここにいるのだろう。

 足が自然と重くなり、前に進まなくなる。


「お父さん……」


 小さく呟いた声を、その人は絶対に聞き逃すことはないと思い知らされる。私を振り向いたその人は、痩せた頬を上げて笑顔を作ると、私に遠慮がちに手を振った。

 まるで、『優しい父親』のように。



「どうして、ここにいるの……」

「いやー、探したんだよ。どうしてもまた祈里に会いたかったから」


 答えになっていない言葉が紡がれる。


「随分と立派な家に住んでるんだなぁ。駅もビルも、祈里のポスターだらけで。また映画に出るんだって? 娘が人気者になって、父さんは誇らしいよ」


 ハハハッと笑う声が建物に反射して響く気がした。慌ててお父さんの手を掴む。


「ちょっと、こっちに来て」

「なんだ、なんだ?」


 マンション横の人気につかない隙間にお父さんの体を押し込む。そして私はその前に立って、なるべく通りから見えないようにする。こんなところ、もし日下部くんに見られたら――……。


「どうしてここに来たの。もう会わないって言ったよね」

「どうしてそんなにひどいことを言うんだ? 親子の再会だ、喜ぶべきだろう」

「ひどい? ひどいのは、どっち? お父さん、自分が私たちに何をしたか分かってるの!?」

「大きな声を出すな、人に見られるぞ」


 慌てて振り返れば、通りを歩く母子がこちらを見ていた。私と目が合いそうになると慌てて目線を逸らされ、「ほら、早く行きましょう」と小さな子どもの歩みを促して去っていく。


 視線を戻せば、お父さんはニヤニヤとした意地の悪い笑みを浮かべている。寒いのに、自分の背中に汗が伝うのが分かる。なんとしてでも、早くお父さんをこの場から消し去りたい。


「……お願いだから、帰ってよ」


 声が震える。視界も滲んでくる。やっと、この人から離れられたと思ったのに。


「父さんは、まだ祈里と話したいことがたくさんあるんだよ」

「私はない。話すことなんて、なにもないわ。お願いだから、もうここには来ないで」

「どうしてだ?」

「どうしてって……」

「あいつと一緒に住んでるからか? 日下部くんだったか。まだ関係が続いてたんだなぁ。父さん、感心しちゃったよ」


 日下部くんの名前に、自分の瞳孔が開くのを感じる。知ってるんだ、お父さんは何もかも。ここが日下部くんのマンションで、私が一緒に住んでいることも知っていて、ここに来たんだ。そして、私が、その名前を聞いて動揺することも知っている。

 お父さんがまたニヤニヤと笑みを浮かべた。嫌らしい笑顔にゾッと悪寒が走る。


「……なにを、望んでいるの?」


 単純な親子の再会を望んでこの人がここに来ていないことなんて、最初から分かっていた。


「私と話したいことって、なに?」


 手が震える。寒さではなく、私は目の前にいるこの人のことが、未だに怖いのだと思い知らされる。

 お母さんが壊れていく姿。

 取り立てに殴られる痛み。

 お父さんに切り刻まれた、ワンピース。

 志望校のパンフレットを見て、いやらしく笑うお父さんの笑顔。

 これまでの色々なことがフラッシュバックして、胸が苦しい。


「お願いだから……彼には迷惑かけないで……」


 お願いだから、私の大切なものを壊さないで。大切な人の幸せを奪わないで。そのためなら、私は何だってするから。


「……お父さんの言うこと、ちゃんと聞くから」


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