日下部くんからの着信に緊張が走る。ごくん、と思わず唾を飲み込んだ。
(既読つけちゃったんだし、出たほうがいいよね……)
覚悟を決めて、緑色の受話器のアイコンをタップした。恐る恐るスピーカーを耳に当てる。隣の部屋にいる桜井さんの迷惑にならないよう、コートを片手に持って玄関の外に出た。
「……祈里?」
「ごめん、ちょっと待ってね」
外廊下で話すのも他の人の迷惑になるだろう。外階段を下りて、アパートの一階まで行く。雪は粒が小さくなり、パラパラと降っている程度だ。
コートに袖を通す。雪が積もっているからだろうか。外はとても静かだ。マフラーを持ってくるのを忘れてしまったから、首元が寒い。
「ごめんなさい、お待たせ」
「うん。……今日は、帰らない?」
慎重な、日下部くんの声。時間は二十二時ごろ。私が帰るのを、ずっと待ってくれていたのだろうか。
「うん……ちょっと、電車が止まっちゃってて……帰れないから、友達の家に泊めてもらうことにしたの」
桜井さんに泊めてもらうというのは黙っておこう。友達で間違いはないし。
「そっか。分かった」
「それで……話って、なに?」
冷静を装って尋ねる。それでも吐く息は震えて、白く、夜の闇に残る。スマートフォンを持つ手が冷えて痛い。
「俺と、城川のこと」
城川さんの名前が日下部くんから出て、どくんと心臓が大きく拍動する。
「……うん」
「ちゃんと祈里に話をしておくべきだった。祈里から城川の名前が出たときに……いや、そうじゃなくても、俺が祈里と近付きたいって思ったときに、ちゃんと話をしておくべきだった」
「……私、今日、城川さんと話したんだ」
スピーカーの向こうで、日下部くんが息を飲む音がハッキリと聞こえた。困惑、しているのだろうか。私と城川さんが話をするとは思っていなかったのだろうか。
「日下部くんと、日下部くんが大学生のころから付き合ってるんだって、言ってた」
全然知らなかった、と、明るく言うつもりだった。口角を上げようと思っても上手くいかなくて、声が震えるだけだった。
「もっと早く言ってくれたら良かったのに。そうしたら、日下部くんから早く離れたのに」
元々、そのつもりだったのだ。私が近付いて、日下部くんを不幸にすることが怖かったのだから。もっと早く、離れておくべきだった。私から、ちゃんと距離を置くべきだった。そうして、二度と会わないようにしていたら、お互いにこんな気持ちにもならなかったんじゃないか。
「違う!」
私の思考を遮るように、日下部くんの大きな声が耳に響く。
「俺は、城川と付き合ってない」
「……もう別れてるってこと? でもそれは、城川さんはそう思ってないみたい――」
「違うんだ。そもそも、俺と城川は、最初から付き合ってなんかない。大学のときも、今も、ずっと」
城川さんと日下部くんが言っていることが全く正反対のことで、脳内が混乱する。「え?」と聞き返して、あてもなく歩いていた足を止めた。スピーカーの奥の、日下部くんの声へと意識を集中する。
「じゃあ……城川さんが、嘘ついてるってこと……?」
「ああ。そうしている理由も検討がつく。俺と城川に何があったのか、ちゃんと祈里に話すから――」
日下部くんの言葉を切るようにブツッと音を鳴らして、電話の向こうが静かになる。
「……日下部くん?」
耳からスマートフォンを離せば、画面がブラックアウトしている。電源ボタンやらディスプレイを触ってみたけれどうんともすんともしない。
そういえば、桜井さんのアパートでスマートフォンを見たとき、充電残量が少なかったのを思い出した。最悪だ、充電切れしてしまったようだ。
当たり前だけれど充電器も日下部くんのマンションに置いてきたまま持ってきていない。近くにコンビニもなさそうだし……。とりあえず、桜井さんのアパートまで戻って、桜井さんが起きていたら充電させてもらおう。
踵を返して、来た道を戻る。
その道中、ずっと日下部くんの言葉が頭を巡っていた。日下部くんと城川さんは付き合っていなかった。けれど、城川さんが強くそう主張する理由も何かあるようだ。
二人の間に一体何があったのだろう。
(日下部くんが言っていることは、本当なのだろうか……?)
そんな考えが浮かんで、ハッとして頭を横に振る。違う。日下部くんを疑いたいわけじゃない。日下部くんが嘘をつくような人だとはとても思えない。
(それじゃあ、私は、友達だと思っている城川さんを疑うの……?)
城川さんのことだって、信じたい。どちらの言うことも信じたいのに、ぐらぐらと心が揺れる。
明日、朝一で日下部くんと話そう。急いでマンションに帰って、顔を見て、ちゃんと話を聞こう。
そう考えている内に、いつの間にか桜井さんのアパートへと戻って来ていた。肩や頭についた雪を払って、静かに玄関を開ける。それと同時に中からも扉を開けられて驚けば、強張った顔をしている桜井さんがいた。
「桜、井さん」
「よかった。どこ行っちゃったのかなって、心配になって」
電話も繋がらないし、と桜井さんはホッとしたように表情を和らげる。
「ごめんなさい、ちょっと電話してて。その途中で充電切れちゃったから……」
「そうだったんですね。僕がさっき変なこと言ったから、歩いて帰っちゃったかなって思って」
「えっ、あ……全然。それは、大丈夫です。今日は、お邪魔します」
「はい! あ、どうぞ、入ってください。寒いでしょ」
桜井さんに促されて部屋の中に入る。温かい空気が私の冷えた頬を包んでくれるようだ。
「充電、しますか? 僕の充電器使ってください」
「すみません、ありがとうございます」
いいえ、と桜井さんは微笑んで、寝室のほうから充電器を持ってきてくれる。ありがたくそれを借りることにして、自分のスマートフォンにケーブルを差し込んだ。
本当はすぐにでも日下部くんにかけ直したいのだけれど、スマートフォンのバッテリーが弱っているのか、なかなか電源が入らなくてもどかしい。今日はかけ直すのは難しいかもしれない。
「梓先輩と話したんですか?」
「あ……はい。ちょっとだけ、ですけど」
「……大丈夫ですか?」
桜井さんと目が合う。また心配そうに、その眉が下がっている。
「どうなるかは、分かんないですけど。でも、明日、ちゃんと話をしようって思ってます」
実は最初、逃げちゃったんです。と、苦く笑う。混乱していたのもあるけれど、何かを日下部くんの口から聞くことが怖かった。だから、「また話そう」とだけ言って逃げてしまった。あのとき、ちゃんと話を聞いていたら、また何か違っていたかもしれない。
「そうですか」
桜井さんはそう頷くと、優しく微笑んだ。そして私の頭をその大きな掌で撫でてくれる。日下部くんとはまた違う優しい手つきだ。
「良い方向に話が進むといいですね」
「ありがとうございます。すみません、全然何も詳しいことも話していないのに……」
「良いですよ、全然。それなら、僕も梓先輩に謝らないといけないと思うし……」
うーん、と悩むように桜井さんは顎に手をやる。
「祈里さんのこと抱きしめたり、頭撫でたり、やりたい放題やってるんで」
そう冷静に言われると私も冷静に状況を判断してしまって、大問題を起こしてしまっているような気がする。これは、日下部くんに対しての裏切りになってしまうのだろうか……。
「あ、祈里さんは悪くないですよ。全部僕がしてることですし。引き留めたのも僕。祈里さん見てると、梓先輩のことしか頭にないんだなってよく分かるし」
桜井さんはその目を細めて、ちょっとだけ意地悪く口角を上げる。こんな悪い顔をする桜井さんは初めて見たかもしれない。
「もしこれに梓先輩が文句を言うなら、祈里さんを泣かせたり、ひとりにする時間を作ったらダメだと思います。大切ならちゃんと持ってないと、祈里さんを狙ってるやつがそこら中から手を伸ばしてきますよ」
「ええ、そこら中だなんて大袈裟な……」
「鈍感ですね、相変わらず。さすが僕の気持ちにも気付いてなかっただけある」
「うっ。というか、日下部くんから聞いたんですか……? 私とのこと」
「いいえ」
何も聞いてないですよ、と桜井さんは首を横に振る。
「じゃあ、どうして日下部くんに謝らないといけないなんて……」
「祈里さん、僕がどれだけ梓先輩のことも好きか知らないでしょ? あの人のことも見てたら、すぐに分かりますよ」
あんまりこんなこと言いたくないですけど、と桜井さんはちょっとだけ呆れたように笑ってから続けた。敵に塩を送るみたいだ、と。
「梓先輩、本当にずっと祈里さんのこと好きみたいですよ。何があったのかは知らないですけど、もしそこを疑うような何かがあるなら、ちゃんと信じて大丈夫ですよ」
桜井さんのその声は、とても力強く、私の心に響いた。