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第五十三話 引き留めた理由

 桜井さんの勢いに流されるままに、そのまま泊まることになってしまった。雪の勢いはそれからも増していて、このまま帰っていたら確かに危なかったかもしれないけれど、本当に良いのだろうか。

 ストックしていたもので申し訳ないけれど、と言いながら桜井さんが出してくれたカップラーメンを夕食として食べて、シャワーまで貸してもらってしまった。

 そして今は……。


「僕はソファーで寝るので、祈里さんはベッド使ってください」


 寝室はそっちです、と先程まで一緒に過ごしていた、居間として使っている部屋の隣を桜井さんは指差す。


「そんな、ダメですよ。桜井さんがベッドで寝てください。私がソファーで寝ます」

「そういうわけにもいかないです」

「私もそういうわけにはいきません」


 泣きついて、ベッドまで借りて一夜を過ごすなんて、そんなのただの迷惑行為でしかない。私の信条が許さない。


 「でも」「だって」と言い合いが続いたのちに、私たちは「こうなったら……」と互いに握り拳を突き出した。


「恨みっこなしですよ」

「もちろんです」と桜井さんは大きく頷く。腕まくりまでするほど力が入っているようだ。

「それじゃあ、いきます」

「はい」

「最初はグー、じゃーんけん……」


 アパートの部屋の中に、私たちの声が重なって響いた。



 結果は、グーとチョキで私の勝ちだった。私は「勝った!」と拳を掲げ、桜井さんはチョキを出してしまった手を押さえて、項垂れている。


「じゃあ、私がソファーで寝るので、桜井さんはベッドで!」

「恨みっこなしですもんね。分かりました……。でも、しっかり温かくして寝てくださいよ。祈里さんが風邪引いたら、本当に申し訳ないので」

「大丈夫です! 冷えないようにしますし、体は強いほうなので!」


 日下部くんのマンションに引っ越す前に住んでいたアパートに比べたら、この部屋はとても温かいです……なんてとても言えない。底冷えする部屋で、家の中にいても息が白くなっていた昨年の冬が懐かしい。笑い話にもならないだろうから、胸の奥にしまっておくことにする。


「僕、これから脚本とかチェックしないといけなくて。祈里さんは自由に過ごしてくださいね」


 毛布とかも好きなように使ってください、と私にブランケットや毛布をいくつか手渡してくれた。


「すみません、本当に。忙しいのに」

「……」


 桜井さんは少し黙ったあとに、私の額にデコピンを食らわせた。それほど痛くはなかったけれど、驚いてしまって「痛いっ」と軽く声を上げてしまった。デコピンされる意味が分からなくて桜井さんを見れば、不満そうな顔がそこにあった。


「謝りすぎです」

「でも……」

「僕は、僕の意思で祈里さんに声をかけたし、家まで来てもらったんです。泊まってもらうのだって……」


 話していた言葉を切るように桜井さんは盛大に溜息をつく。それから前髪を鬱陶しそうに掻きあげると、さらに眉間の皺を深くしてから、両手で私の頬をぎゅっと軽く潰すように包んだ。


「僕は、今でも祈里さんが好きです。まだ、忘れられてないんです。だから、ちょっと、雪で電車が止まってラッキーだなとかとも思ってますし、幸福の木を家に置いてたから幸せが運ばれてきたのかな、だなんていう不純な気持ちもあります」

「……えっと……」

「あ、だからって無理やり襲ったりしませんよ。そんなことして、祈里さんとの関わりが完全に切れてしまうほうが怖いので」


 なに言ってんだ、俺……と、桜井さんは自嘲気味に笑う。それから、何度か言葉をまごつかせて、「だから……」と桜井さんは言葉を続ける。


「前にも話しましたけど、僕はただ祈里さんに幸せになってもらいたいだけです。今も好きだからこそ、泣いていたら放っておけなかったんです。祈里さん、自分の顔、見ましたか?」

「……ううん」

「ずっと、辛そうな顔してるんですよ。そんな顔をしている祈里さんを、梓先輩のところに帰せるほど、僕はお人好しでも無神経でもないです」


 梓先輩が原因ですよね、と言う桜井さんの声色は複雑そうだった。日下部くんの名前が出てきて、それに「そうです」とも言えなくて、私はただ口を閉ざすことしかできなかった。


「……いつか、この気持ちが虚しくなることも分かっています。でも、僕は、今、祈里さんを帰して後悔するほうが辛いです。こんなのもう、僕の我儘ですけど、今日はここにいてください。僕を、利用してください」


 すみません、と桜井さんはようやく私の頬から手を離して、気まずそうに瞳を揺らした。そして、もう一度、「ゆっくりしてくださいね」と言うと、私の返事は聞かずに彼は寝室のほうへと行ってしまった。



 ソファーの上で、体を丸めて横になる。桜井さんが渡してくれた毛布のおかげで、本当に全く寒さは感じなかった。

 桜井さんがいる寝室のほうからは物音ひとつしない。それほど作業に集中しているのだろうか。

 深い息が口からこぼれてしまう。日下部くんのことや城川さんのことで、というのももちろんあるけれど、改めて今の桜井さんの気持ちを聞いてしまったら、いつまでもフラフラとしている自分の行動が、あまりにも残酷なものに思えてくる。

 私にとって、桜井さんは弟のように可愛らしく、映画監督として尊敬している人だ。恋愛感情はなく、仮に日下部くんと結ばれることはなくても、桜井さんのことをそういう目では見られそうにない。


――「……いつか、この気持ちが虚しくなることも分かっています」


 ふと、桜井さんのセリフが脳裏を過る。

 ああ、そうか、と思う。彼は、きっと、私のそんな気持ちも知っているのだろう。理解していて、私に優しくしてくれているのだ。


――「僕を、利用してください」


「……ごめんなさい」


 小さな声で謝る。桜井さんの気持ちを利用なんてしたくない。こんな私を今も好きでいてくれていることには感謝してる。

 今夜だけ。家に帰って、日下部くんに会うことが怖いと思っていたから、その気持ちをかき消せるくらいの勇気が出せるまで、甘えさせてほしい。



 ふと、テーブルの上に置いた自分のスマートフォンが、チカチカと通知を光らせていることに気付く。


(そういえば、今日、全然見てなかったな……)


 手に取ってディスプレイをつければ、ズラッと並んだメッセージの通知に思わず飛び上がるように体を起こしてしまった。


 そのほとんどが荒木さんからで、今後の予定についての連絡をしてくれていたのに私が返事をしていないことに対する心配の声だった。


(わわ、荒木さん、ごめんなさい……っ)


 謝罪の文章とともにスマートフォンを全然見ていなかったことを送信しようとしたとき、ひとつメッセージを受信する。ポップアップで表示されたそこには、日下部くんの名前がある。『話したい』というシンプルな文章に、荒木さんへメッセージを打っていた自分の指が止まる。


 私も日下部くんと話がしたい。でも、どこからどのように話をすればいいのだろう。私は日下部くんが話すことを、素直に受け止めることができるだろうか。それが、どんな結果に繋がるとしても……。

 今日何度目かの溜息を吐いたとき。思わず手が滑ってスマートフォンを落としそうになる。慌ててそれをキャッチしたときに画面に指が当たってしまったらしく、日下部くんとのトーク画面が開かれる。


(既読つけちゃった……!)


 返事も何も考えていないまま、日下部くんのメッセージに既読がついてしまった。何か返さないと余計に気まずくなってしまう。でも、慌てる思考では何も思い浮かばず、余計に焦るばかりだ。


 頭を抱えている間にスマートフォンが震える。通話の着信を告げている。ディスプレイには、『日下部梓』と表示されていた。


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