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第五十二話 このまま帰せない

 2DKの桜井さんの部屋は、生活感はあるけれど綺麗に整頓されている。


「すみません、牛乳くらいしかなくて。ホットミルクで良いですか?」

「はい。……って、いいですよ! そんな……急に押し掛けたのに」

「外、寒かったんで。僕が飲みたくなったから、そのついでに」


 桜井さんはすでに冷蔵庫から牛乳を取り出していて、マグカップを二つ並べている。ささっと牛乳を注いでしまうから、それ以上断ることはできなかった。


「ソファーとか適当に座って、ゆっくりしててください」

「……すみません。ありがとうございます」


 桜井さんが部屋に入ってすぐ点火してくれた石油ファンヒーターのおかけで、すぐに部屋は温かくなっていた。マフラーを外して、コートを脱いで、抱きかかえるようにして二人掛けのソファーに座る。


 ソファーの横には大きな観葉植物が置いてある。立ったときの私の身長の半分ほどだろうか。長い葉と鋭く尖った葉先が特徴的で、青々と茂っている。


「はい、どうぞ」


 コトン、と可愛らしい音を立てて、私が座るソファー前のテーブルにマグカップが置かれた。甘いミルクの香りが漂ってくる。


 桜井さんはソファーには座らず、私の斜め前、ラグの上に腰を下ろした。


「これ、なんていう植物なんですか?」

「それはドラセナです。別名、幸福の木って言われてて。ここに引っ越ししてきたときに、羽風監督が引っ越し祝いにってくれたんです」

「監督が? おしゃれですね」

「結構、プレゼントセンスあるんですよ、あの人。クランクアップのあとの花束も、監督が選んだんですよ」


 いたずらっ子のように桜井さんが笑う。


「ま、監督の話は置いておいて。どうして幸福の木っていうか知ってますか?」

「ううん」

「葉先が鋭い形してるでしょ? それが、悪い気を払ってくれて、幸運を運んできてくれるんだそうです」

「なるほど。だから、幸福の木なんですね」

「本当は玄関に飾るのがいいらしいんですけどね。こんな大きいの置いたら、部屋の中に入れなくなっちゃうから」


 せめてもと思って窓際に、と桜井さんは肩を竦めた。はにかむような笑顔が可愛い。


「冷めないうちにどうぞ」とホットミルクの入ったコップを、桜井さんは少しだけ私のほうへと動かしてくれる。

「いただきます」


 持っていたコートやマフラーを一旦自分の後ろに置いて、マグカップを両手で包む。じんわりとした温もりが掌から指先まで広がっていく。少し熱いくらい。しかし、冷えた手には優しい温度にホッと体の力が抜けるようだ。

 一口、口をつけると、優しい甘さが広がる。「おいしい」と小さく言葉が漏れた。


 気が一瞬緩んだからだろうか。せっかく泣き止んだのに、またじわじわと視界が滲んでくる。昨夜からの出来事が鮮明に頭に浮かんできてしまって、胸の奥が苦しくなる。私はどうしたらいいのだろう。そして、どうしたいのだろう。日下部くんの顔と城川さんの顔が浮かぶ。二人がキスしていた姿も。

止めようと思っていた涙は、また我慢ができなくてポロポロと頬を伝う。泣き顔を見られたくなくて、両手で顔を覆ったときだ。体を引き寄せられて、強引に抱きすくめられる。桜井さんの香りがする。


「いっぱい、泣いてください」

「……っ」

「ここには僕しかいないし、こうしていたら僕も見えないですから」


 私は日下部くんが好きで、桜井さんの気持ちには応えられない。夏の終わりにそう気持ちを伝えた。だからこそ、今、こうやって彼の胸を借りるのは間違っている。彼の優しさや私への気持ちにつけ込んでいるようで嫌だった。けれど、それ以上、彼の胸を押し返す気力も体力も今の私にはなかった。


「ごめんなさい……」


 こんなときばかり桜井さんに甘えてしまって。そう続けることはできなかったけれど、心の中で思う。桜井さんのミルクティー色のセーターに涙が染み込んでいく。



 どれくらいの時間、桜井さんの胸を借りていたのだろう。桜井さんは慰めるように私の背中を優しく撫でてくれている。


 桜井さんは、何も言わず、ただ胸を貸してくれている。私の涙が随分と落ち着いてからも、どうして私が泣いているのかも聞く気がないようだった。


 いつの間にか、レースカーテンの奥が薄暗くなっていることに気付く。自分と長い時間、桜井さんに抱きしめてもらっていたことに気付いて、彼の胸を慌てて押し返した。


「ご、ごめんなさい、いっぱい泣いちゃって」

「いえ、僕は……」

「もう、だいぶ暗くなってきちゃってるみたいだし、私、そろそろ帰りますね」


 自分の背中側に押し込んでいたマフラーとコートを引っ張り出す。マフラーを首に巻いて、急いでコートに袖を通した。コートのボタンが上手く止められず、もたついてしまう。日下部くんのことで泣いて、桜井さんの胸を借りてないてしまったことで、罪悪感が胸に広がる。


「ボタン、掛け間違ってますよ」


 ここです、と言って、桜井さんは二段目と三段目の掛け間違っているボタンを直してくれた。まるで自分が子どもにでもなってしまったみたいで情けない。ボタンを直してくれた桜井さんが顔を上げれば、バチッと音がしそうな勢いで目が合う。それが気まずくて、顔を逸らすように頭を下げた。


「ご迷惑おかけして、すみませんでした……! お邪魔しました……!」


玄関へと向かう私の後ろを、桜井さんがついてくる。


「駅まで送ります」


 玄関横の壁、ウッド調のウォールフックにかけられていた黒のダッフルコートを掴んだ。


「いやいやいや、寒いですし! 大丈夫ですよ。これ以上、桜井さんに迷惑はかけられない……」

「迷惑だなんて、僕、思ってないですよ。それにもう暗いし、危ないですから」

「でも……」

「万が一何かあったらいけないですから――」


 そう言って、桜井さんが玄関扉を開ける。温まった部屋の空気を一気に冷ますような冷たい風が入り込んでくる。


「あ……」


 扉の外を見て声を上げた桜井さんにつられて、私もそちらへ視線を移す。


「わ……積もってる……」


 うっすらと広がる銀世界。大きな雪の粒は今も空から降り注いでいる。寒い日だとは思っていたけれど、まさか積もるほど雪が降るなんて思ってもいなかった。


「あっ、電車、動いてるかな」


 桜井さんの家から、日下部くんのマンションまでは電車に乗らないと結構距離がある。さすがにこの中を歩いて帰るのはきつそうだ。


 スマートフォンを取り出して、路線情報を調べてみる。時間がかかっても帰れる方法はないかと使える路線すべてを調べてみたが、急な積雪でどこも運転を見合わせているようだった。


「やっぱり電車、止まってる……」


 仕方がない。歩いて帰るしかなさそうだ。そうと決まれば、少しでも早く出発したい。「それじゃあ、帰ります」と桜井さんに声をかけるのと、彼が玄関扉を閉めるのはほぼ同時だった。


「あ、あの……? 桜井さん?」


 玄関扉に桜井さんが手をつくから、桜井さんと扉の間に私の体は閉じ込められてしまう。


「こんな雪の中、大切な人を帰らすわけにはいきません。それに……」


 続けて桜井さんが何かを言ったけれど、その声はとても小さくてうまく聞き取ることができなかった。


「今、なんて……?」

「なんでもないです。なにも言ってないです」

「でも、」

「とにかく!」と桜井さんに話を誤魔化される。

「今日帰るのはどう考えても危ないですから、泊まっていってください」


 有無を言わせないような、桜井さんの強い瞳と声。まさか「泊まる」なんていう選択肢が出てくるとは思わず、私はその言葉に、ただただ目を丸くすることしかできなかった。


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