城川さんに指定されたレストランに行くと、彼女は先に到着していたようで店の奥の、人目につきにくい席に座っていた。
「来てくれて嬉しい」
座ったら? と、城川さんに向かいの席に座るよう促されて、腰を下ろす。すぐにウェイターさんが私の分のお水が入ったグラスを持ってきてくれて、その流れでホットコーヒーを頼む。
「何か食べる?」
「どうしようかな……」
正直あまりお腹はすいていない。むしろこんなときに普通に食べられるほうがすごいと思うのだけれど。城川さんの顔を伺い見れば、彼女はとても落ち着いていて、「じゃあ、同じものでいいか」と呟いてから、ウェイターさんに「ランチ2つ」と注文した。
注文を取り終えたウェイターさんが去っていく。城川さんは小さく溜息を吐いた。
「何から話そうか」
「……うん」
「何から聞きたい?」
「日下部くんとは、いつから付き合ってるの……?」
「四年くらい前かな。梓くんが、まだ大学生のころだったから」
城川さんはミルクティーの入ったカップをスプーンでぐるぐるかき混ぜている。
「うちの事務所の社長……桐生院さんの紹介で知り合ったの」
懐かしむように、穏やかな表情で城川さんは続ける。
「当時、梓くん、投資家としてとにかく成功したいっていう気持ちがいっぱいで。桐生院さんとはどこで知り合ったのかしらないけれど、桐生院さんがとても可愛がってた」
「だから、梓くんは芸能界との繋がりがたくさんあるのよ」と城川さんは笑う。
「そう、なんだ……知らなかった」
「そのうち、桐生院さんが言い出したの。『うちの真希乃と結婚したらいいじゃないか』って。私も、梓くんのこといいなって思ってたから、特に断ることはしなくて。梓くんも、まんざらではなかったみたい」
そうして、結婚を前提にした交際が始まったの、と城川さんは言う。そこまではとても穏やかな口調だった。しかし、彼女は私へと視線を動かすと、真っ赤なリップが塗られた唇をギュッと引き結ぶ。そして、わっと泣き出すように、両手で顔を覆った。
「ひどい。私はずっと、梓くんのことだけを考えていたのに」
「ごめんなさい……私、知らなくて……」
「あなたが『Tutu』のモデルをできているのだって、梓くんにプロデューサーを紹介したのは、桐生院さんだからなのよ。元々、モデルとして起用されるのは私のはずだったのに。それなのに……。梓くんの隣にいるのも、モデルとしてあのポスターに載っているのも私のはずだったの。私の気持ちが、祈里ちゃんに分かる?」
胸が痛い。彼女が、私と「そっくり」だと笑ってくれたのを思い出して、ただ俯くしかない。私が『Tutu』のモデルに起用されたのは、そういう理由だったのかと思い知る。
日下部くんが知り合いだというのももちろんあるだろうけれど、それだけじゃない。元々、城川さんを起用しようとしていたのだ。それが、どんな理由かは分からないが、一旦話はなくなって、そこに代わるように現れたのが私。彼女と、雰囲気が似ている、私……。
城川さんの帰るべき場所、居場所を奪ってしまったのは、彼女に似ている『私』だった。
「……なさい」
「……え?」
ぽつりと呟かくように低く言葉がうまく聞き取れず、聞き返す。城川さんは顔を覆っていた両手を静かに下ろした。
「ごめんなさい」
そして、テーブルの上にある私の両手をギュッと握る。その城川さんの手は温かく、優しい。
ぽつ、ぽつ、と何かが零れ落ちる音がする。
繋がれた手から顔を上げれば、大きな瞳から大粒の涙を流す城川さんがいた。頬を伝う涙が、テーブルに当って音を立てている。
「私、びっくりしちゃって。祈里ちゃんが梓くんや仕事を奪ったみたいな言い方して」
そんなつもりはないの、と城川さんは頬を伝う涙を拭う。
「私、まだ祈里ちゃんと友達でいたい。でも、梓くんのことも本当に大好きで、どうしたらいいか分からないの」
どうしてこんなことになっちゃったんだろう、と城川さんは嗚咽交じりに嘆いた。
私はなにも言えないまま、時間だけが過ぎていった。
また近いうちに会おう、と話をして城川さんと店の前で別れる。
友達でいたいと泣いてくれる城川さんを思い出すと、心臓が押しつぶされてしまいそうだ。
自分さえいなければ、城川さんは日下部くんと幸せな毎日を送れるようになっていたのだろうか。
私が日下部くんと再会できたのは運命だなんて思い始めていたけれど、そんなことはなかったのかもしれない。私が、日下部くんと再会しなければ……。
日下部くんは、城川さんのことが好きだったのだろうか。結婚の約束までしていたのだから、きっと愛していたのだろう。語学留学で離れている間に、気持ちが揺らいでしまっただけなのだろうか。そこに私が現れて、寂しさを埋めてしまっただけなのかもしれない。日下部くんに限ってそんなことはない、と言いたいけれど、彼だって人間だ。感情の揺らぎは少なからずあるだろうし……。
――「好きだよ、祈里」
そう言って、抱きしめてくれた日下部くんを思い出す。真っ直ぐで、私だけを見ていてくれた瞳。そこに、誰かの影があったなんて私には思えなくて……。日下部くんはどんな気持ちだったのだろう。
――「私、まだ祈里ちゃんと友達でいたい」
次に城川さんの泣き顔が脳裏を過った。
「私だって、どうしたらいいのか分かんないよ」
私だって、もう誰にも止められないくらい日下部くんが好きだ。気持ちが溢れて、止められないくらい大好きなんだ。
だけど、せっかく友達になれた城川さんのことも失いたくない。彼女が恋人と幸せになって欲しいと願った気持ちには嘘なんて一つもない。
私が邪魔をしているだけじゃないのか?
日下部くんの気持ちを惑わせて、城川さんという日下部くんの婚約者を傷つけてしまったのは。
ふと、先日まで撮影していた映画の役を思い出す。親友と同じ人を好きになってしまったあの役を。
「こんなにも苦しいなんて知らなかった」
帰り道、涙がポロポロと零れ落ちる。
昨日までは、クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントは何にしよう、なんて浮かれて考えていたのに。
昨日はすれ違う人にニヤけた顔を見られないようにマフラーで隠していたのに、今は泣いている顔を見られないように俯くことしかできない。
「日下部くんとも話、しなくちゃ……」
帰ったら話そう、と連絡をするべきか。でもそうしたら、本当の本当に、全てのことが終わりになってしまう気がして、一歩踏み出す勇気が出ない。日下部くんは昨夜、私になんて言おうとしていたのだろう。城川さんと「色々あった」ようだけれど、何があったのだろう。
涙が止まらない。日下部くんはもう帰ってきているだろうか。こんな顔のままじゃ、帰れない。
手の甲で頬を伝う涙を拭ったときだ。
不意に腕を引っ張られ、驚いて振り返る。
「やっぱり、祈里さんだ……!」
そこには白い息を切らし、肩で息をする桜井さんがいて、眉間に皺を寄せて私を見ている。
「桜井、さん……」
「反対側の道、歩いてたんですけど、祈里さんみたいな人いるなって思って……」
なんで、と彼は小さく呟くと着けていた手袋を外して、大きな両手で私の頬を包んだ。
「なに、泣いてるんですか?」
親指で涙を拭うように頬を撫でられる。その手があまりに優しくて、余計に涙が溢れてくる。
「ごめ、ごめんなさい……涙、止めたいんですけど……」
「……こっち、来てください。移動しましょう」
そう言って、桜井さんは私の手を引いて歩き出す。
視界の端に、ちらちらと小さな雪が舞い出したのが見えた。それが初雪だと考える余裕もないまま、私はただ、桜井さんに手を引かれて歩くことしかできなかった。
「どうぞ」
「え……ここって……」
「僕の家です。近場で人目がつかない場所って、ここくらいしか思いつかなくて」
三階建てのアパートの一室。桜井さんは扉を開けると、中に入るように私を促した。
「いやいや、ダメですよ。そんな急に……桜井さんの部屋には入れません」
「人気女優が、泣きながら外歩いてるほうが問題ですよ」
そう桜井さんは溜息交じりに言う。数分前に涙は引っ込んだけれど、泣きすぎた余韻で、未だに呼吸はスンスンと乱れたままだ。
「誰かにそんな姿、写真撮られてもいいんですか? スキャンダルですよ、スキャンダル。僕と撮られたときなんかより。『クリスマスで彩る街を、ひとり泣きながら歩く人気女優・羽柴祈里』って見出しで――」
雑誌の見出しを想像して、ゾゾゾッと背中に寒気が走る。それは絶対に困る。ここまで築き上げたイメージや地位が崩れ落ちるのが目に見えている。
「わっ、分かりました! お、お邪魔します!」
「はい、どうぞ。すみません、少し散らかっていますけど」
ようやく部屋に入った私を見て、桜井さんはようやく満足そうに笑った。