耳をすませば、うっすらと話し声が聞こえてくる。
リビングへと続く扉のノブに掛けた指が、さっきとは別の理由で震えている。
(日下部くんを、疑ったら、ダメ)
日下部くんは、私しかいないって言ってくれたのだから。待ってるって言ってくれたのだから……。
「た、ただいま……!」
意を決して開けた扉。扉を開けなければ良かったと後悔したことなんて、これまであっただろうか。
日下部くんといつも並んで座るソファーで。
日下部くんが、女の人とキスをしていた。
(どうして、こんなことになるかな……)
女性は私に背を向けているけれど、その後ろ姿を私はよく知っている。玄関にあったパンプスも、数時間前に彼女が履いているのを見たばかりだ。
絹のように真っ直ぐ長い髪。華奢な後ろ姿。私のことを自分にそっくりだと笑って、「2Pカラーみたいだ」と言ったあの子。
「……なにしてるの?」
私がそう声をかけるのと、日下部くんが「やめろ」と言って彼女を突き離したのは、ほぼ同時だった。それから、日下部くんの目が私を捉えて、丸く、大きく見開かれる。
「祈里、これは……っ」
日下部くんの声が上擦る。
「祈里ちゃん」
その言葉を遮るように、城川さんは振り返って私を見た。その目は、あの日、二人でカフェに行ったときと同じようにギラついていて、私を射殺すようだ。
「なんで、城川さんがここにいるの……?」
「なんでって。私は、私の婚約者に会いに来ただけだよ」
「おい、勝手なこと言うな……!」
「勝手なことを言ってるのは、梓くんでしょ? 私はあの日の約束がなしになったなんて思ってない。私は、ずっと、梓くんの婚約者だよ」
会話についていけず、ただ黙って立ち尽くすことしかできない。
(城川さんが、日下部くんの婚約者……?)
城川さんはソファーの下に無造作に置かれていたショルダーバッグを引っ掴んで、ソファーから立ち上がる。そうして、私の横を通り過ぎる前に、私にニッコリを笑いかけた。
「祈里ちゃん、また近いうちに話そうね」
その笑顔は、非の打ちどころがないくらい、とても美しかった。
「祈里、これは、」
焦っているのか、日下部くんは足をもつらせながら私に駆け寄る。
「城川さんと、婚約してたの……?」
「それは、色々あって、」
「……否定、しないんだ」
うまく頭が回らなくて、こめかみが痛む。色んな感情が、お腹の辺りをギュッと押さえつけてくるようで苦しい。胃もキリキリと痛い。
「祈里……」
「触らないで!」
私の頬を触る日下部くんの手を払う。勢いで払いのけてしまったことにハッとして彼の顔を見る。長い前髪の下で、その目が苦しそうに揺れている。
(それは一体、どういう感情なの……?)
話を聞かないといけないって頭では分かっている。頭では分かっているのに、何も考えられない私がいる。
(城川さんは、どういう気持ちで私の話を聞いていたの……?)
いつから、私と日下部くんの関係を知っていたのだろう。今日、お店で話をしたときに初めて知ったのだろうか。
「ごめん……今日は疲れたから、もう眠るね」
「祈里、」
「ごめんね」
また、ゆっくり話そう、と告げて、私は自分の部屋へと引き籠る。扉の向こうに日下部くんの気配をしばらく感じていたけれど、しばらくすると彼も自分の部屋へと戻ったようだった。
話をしようといったって、何をどのように話をしたら良いのだろう。日下部くんはおそらく城川さんとの関係を否定したがっているようだけれど、城川さんのほうにもそれなりに言い分があるように私には見えた。
――「優しくて、かっこいい人」
ルイちゃんも含めて三人で恋の話をした日。城川さんは、『好きな人』を語るとき、そう愛しさが溢れる口調で言って、可愛らしく頬を染めていた。本当にその人のことが好きなのだろうって思った。その相手が、日下部くんだったのだ。
――「なんだか私以外の女の人と最近一緒にいるみたいで……」
目を伏せて言った城川さんを思い出す。浮気を疑って顔をしかめた自分。浮気相手が、まさか私だなんて……。早く会いに行ったほうがいいなんて、背中を押した私を、彼女はどう思っていたんだろうか。
目の奥が熱い。じわりと視界が滲む。自分ひとりしかいない部屋なのに、涙を隠すように体育座りをした膝に自分の顔を埋めた。嗚咽が漏れるのを必死に噛み殺す。
日下部くんと城川さんのキスシーンがフラッシュバックする。日下部くん自身、城川さんが婚約者であることをハッキリ否定しなかった。ということは、城川さんが婚約者であることはほぼ間違いないのだろう。
城川さんが語学留学に行ったことで、日下部くんの気持ちが城川さんから離れてしまっていたのだろうか。
(というか……日下部くん、付き合ってる人いたんだ)
それはそうか、と涙を拭う。私たちが付き合っていたのは中学時代で、それからこの年齢になるまで離れて過ごしていたんだ。恋人のひとりやふたり、いたこともあるだろう。
(その相手が城川さんで……城川さんは、ずっと日下部くんのことが好きで……)
ずっと同じようなことばかり考えてしまっている気がする。
電気もつけず、薄暗い部屋の中、手に持ったままだったスマートフォンがメッセージの着信を知らせて画面が点灯した。
メッセージはルイちゃんからで「もう告白した!?」というメッセージだった。既読はつけてしまったけれど、返事はできないままアプリを閉じる。
深い深い溜息が口から零れ落ちていく。
「ごめん、ルイちゃん……。日下部くんに告白なんて、できそうにないかも」
呟いた言葉は静かな部屋にこだますることなく、吸い込まれていった。明日、どんな顔をしてこの部屋から出ればいいのだろう。日下部くんと顔を合わせるのが、怖い。
何とか布団には入ったものの、一睡もできないまま夜が明ける。
部屋に置いてある鏡台に映る自分の顔は、それはそれは情けなく、ひどい有様だった。今日、仕事がオフで良かったと心底安心する。
ルイちゃんからのメッセージには、「また今度話すね」と当たり障りのないことを返した。どう転んでも話しにくい内容になりそうだけれど……。
部屋の扉をそっと開けてみる。部屋から続くリビングには日下部くんの姿はなさそうでホッと息を吐いた。
何か温かいものでも飲んで、一旦気持ちを落ち着かせよう。
キッチンのほうへ向かうと、ダイニングテーブルに置き手紙がある。日下部くんの字で、仕事で出掛けると書いてあった。こんなときまで、こういうメモを残してくれる優しさに、グッと胸が痛む。
城川さんも言っていたように、日下部くんはとても優しい人だ。そして、私も、日下部くんのそういうところが好きだ。だからこそ、今回のことにちゃんと理由があることも分かっている。彼が誰かを裏切るようなことをする人じゃないって分かっている。
「日下部くんとも、城川さんとも、ちゃんと話しないと……」
私の気持ちは一旦、もう一度心の中にしまっておこう。今、それを伝えても絶対に良いことにはならないし、私自身まだ……どうしたらいいのか分からなくなってしまったからら。
私が使っている部屋から、スマートフォンがメッセージの着信を告げて通知音を鳴らした。取りに行けば、ディスプレイには『城川真希乃』と表示されていた。
『祈里ちゃん、おはよう。今日のお昼、一緒にランチに行かない?』
その文面は、これまで通り、私やルイちゃんを食事に誘うときのようなものだった。
でもそこからは、昨日の話がしたいという気持ちがこもっていることがひしひしと伝わってくる。
『うん、いいよ。行こう』
友達に応えるものと同じように、私もまた彼女にいつも通りを装って返事をする。
これが私と城川さんの、『友達』としての最後のやり取りかもしれないと思いながら……。