病院の面会時間は二十時までで、あと一時間ほどある。
母が入院している病棟のナースステーションで面会に来たことを告げる。
「すごく綺麗な花束ですね」
今日の夜間勤務の看護師さんは私と同い年くらいだろうか。私が抱えている花束を見て、「わぁ」と感嘆の声をもらしてくれた。
「映画の撮影が終わったので、それでいただいたんです」
「映画ですか? 絶対見に行かなくちゃ。前に出演されていた、『OneRoom』も良かったです」
「ありがとうございます」
公開から随分と時間の経っている『OneRoom』の感想を未だに聴くことができると思わず驚く。それだけ桜井さんと一緒に撮影した映画は素晴らしいものだったのだと改めて気付かされた。あのころの気持ちを忘れず、これからも女優として活躍していきたい。
「あ、祈里さん。今日もお母さま、眠たくなるお薬飲まれているので……」
「大丈夫です。少し顔を見ることができたら、それで満足なので」
「そうですか。前、祈里さんが持ってきていたお花、とても嬉しそうに眺めていましたよ。あの子、頑張っているのねってすっごく幸せそうに仰っていました。だから、今回もとても喜ばれると思いますよ」
お母さん、そんな風に思っていてくれていたんだ。タイミングが合わなくて、なかなかお母さんと会話することはできていないけれど、色々なことがちゃんと伝わっていることが嬉しかった。
花束をギュッと抱きしめるように抱え直す。教えてくれた看護師さんに「ありがとうございます」とお礼を言って、お母さんの病室に向かう。
病室の照明は落とされていて、月明かりがうっすらと部屋に差し込んでいる。
規則正しい寝息を立てるお母さんを起こさないように気を付けながら、ベッドサイドの花瓶を見る。今回は私のほうが早かったのだろうか。いつも私より先に誰かが持ってきている綺麗な花は花瓶に生けられていない。
花束を解いて、新しく水を入れた花瓶に花を生けていく。全部は入らなくて、半分ほどは自分で持って帰ることにした。
お母さんも、後からお見舞いに来るかもしれない『謎の人』もこの花を見たら驚くだろうか。
花瓶に、元々花束についていたクリスマスカラーのリボンをかける。季節を感じにくい病室で、お母さんが少しでもクリスマスの雰囲気を楽しんでくれたら嬉しい。
「お母さん、私、日下部くんに自分の気持ちを伝えようと思うんだ」
お母さんの少し冷たい手を撫でて、そっと囁くように語り掛ける。
「幸せになれるように頑張るから、見守っていてね」
そう続ければ、眠っているお母さんの顔が、優しく微笑んだような気がした。
面会の終わりを知らせるアナウンスが流れる前に病室を出る。看護師さんに挨拶をして、病棟を後にする。
花束は半分ほど花が減ったせいか、少しだけ軽くなった。
家に帰ったら、ダイニングのテーブルにでも飾ろうかな。日下部くんも喜んでくれるだろうか。
病院に行く前に、日下部くんに送ったメッセージはまだ既読になっていなかった。仕事が忙しいのだろう。
日下部くんが夕食を食べているかは分からないけれど、何か一緒に食べられるスイーツでも買って帰ろうかな。
そう考えながら、病院のエントランスを抜けたときだ。突然、私を足止めするように人影が前に立ちはだかる。
足元を見ていた顔を上げてしまったせいで目が合ったその人の顔に、私は全身の血の気が引いていくのを感じた。
「お……父さん……」
昔よりも随分痩せているけれど、間違いない。目の前にいるのは、数ヵ月前に「二度と私たちの前に現れないで欲しい」と伝えたはずの父親だ。
彼は落ちくぼんだ目を、優しく細めると、私のほうへそっと手を伸ばした。思わず後退りしてしまう。
「祈里……」
「……っ、どうして、ここにいるの?」
「ずっと探してたんだよ、祈里のこと」
お母さんのことも、とお父さんは言う。申し訳ないとでも言いたいのだろうか。伏せられた目に、何か裏があるのではないかと探ってしまう。
「……あなたと話すことは、何もありません」
「そう言わずに、話を聞いてくれないかな。祈里」
「聞かない。私はあなたと何も話すことはないから。だから、早く私の目の前から消えて……!」
「祈里、申し訳ないことをしたと、思っている」
腕を掴まれる。反射的に腕を振り払う。
「触らないで……ッ」
その拍子に花束から花弁がいくつか散っていくのが視界の端に映った。
父親の目が、悲しそうに目尻を下げて私を見ている。
(どうして、そんな顔をするの……!?)
私たちにしてきたことを忘れたとでもいうのだろうか。それとも、心の底から、私たちに申し訳ないと思っているのだろうか。
「わ、私……、もう行くからっ」
後をついて来ようとする父親に「ついてこないで」と怒鳴る。そこに大人しく立ち止まった父を見て、私は駆け出した。
後ろを振り返る。いつまでも立ち尽くす父親の姿が、小さく見える。
ずっとその存在が大きすぎて苦しかったはずなのに、父はあんなにも細くて、小さい人だっただろうか。
心の奥底で、「話くらい聞いてあげたら」と言っている私がいる。
(ううん、そんなこと、できるわけない! また前みたいな日々に戻りたいの!? 絶対にそんなのは嫌……!)
せっかく私たちは幸せになるために一歩踏み出したのだ。あの人とは決別して、私たちは私たちの人生を歩み始めたところなのだ。関わっていいことなんてないと、私自身が一番よく分かっている。
空車を記すタクシーを片手をあげて呼び止める。日下部くんと住むマンションの名前と住所を伝えて、出発してもらうように伝える。
冬の冷たい空気を吸い込んだ肺が悲鳴を上げている。冷え切って痛いくらいの頬を、社内の温もりが癒してくれる。
『今から帰るね』
そう日下部くんにメッセージを打つ指が震えている。その前に送っているメッセージには、今もまだ既読マークはついていなかった。
寒さからだろうか。それとも、父親が目の前に現れたことによって動揺してしまっているからだろうか。
今もずっと残したままにしていた父親の電話番号を着信拒否設定し、削除する。
もう二度と会わないようにしないと……。
(早く日下部くんに会いたい……)
撮影が終わって、ルイちゃんと打ち上げをして、日下部くんの誕生日はどうしようかって考えて、お母さんのお見舞いに行って……。幸せな一日だったのだ。温かくて、楽しい一日だった。早く日下部くんに会って、ゆっくりと色んな話をして、さっきのことはなかったことにしてしまいたい。
そうして、また、幸せな日々に――……。
タクシーがマンションの前で止まる。料金を支払って、運転手さんにお礼を言って降車する。
はやる心に急かされて、エントランスにカードキーを通す手がうまくいかない。思わず苦笑いが零れる。ようやく空いた自動ドアを抜けて、エレベーターに駆け込む。ボタンを押して、上にあがるまでの数秒すら落ち着かずそわそわとしてしまう。
ただいまって扉を開けたら、日下部くんはどんな顔をして出迎えてくれるだろうか。それとも、仕事が忙しくて、すぐには顔を出してくれないかもしれない。もしそうだったら、温かい飲み物を淹れながら、日下部くんの仕事が落ち着くのをゆっくりと待とう。
玄関扉を開ける。広いシューズクロークがあるから、いつもそこはスッキリとしていて、日下部くんの靴がひとつ置いてあるだけ……。
日下部くんの靴の隣に、紺色の、女性もののパンプスが置いてある。紺色のパンプスは私も持っているけれど、私が持っているものとはデザインが違う。
(……お客さん……?)
本当に? と頭の中で言葉が巡る。心臓がバクバクと鼓動を早めている。
心が妙にザワザワとするのは、このパンプスに、見覚えがあるからだろうか。