スタジオに戻るとすぐに撮影に始まったのが良かったのかもしれない。撮影中の城川さんはこれまでと大きな変化はなく、良い意味でしっかりと主人公を演じきっていた。そのおかげで私も自分の役に入り込むことができた。
カットの声がかかってからも、先程カフェで対面したときの雰囲気は城川さんにはなく、いつも通り、愛嬌のある城川さんだった。
少し離れた場所。監督とこの後撮影するシーンについて話し合っていた城川さんと目が合う。手を振ってみれば、彼女はまるで犬が尻尾を振るように大きく手を振り返してくれた。
(やっぱり、私が勝手に意識しすぎただけかも)
私だったら、元々自分が受ける予定だった仕事に、自分と同じ雰囲気の子が選ばれたと知ったら複雑な想いを抱いてしまうだろう。そのせいで彼女の言葉を悪く受け取って、フィルターをかけてしまったいたと、自分の失礼な思考をひとり反省した。
私と友達になりたいと言ってくれた城川さんの気持ちは、純粋に受け取りたい。役だけじゃなく、プライベートでも親友になりたいと思った自分の気持ちを信じて、大切にしたいのと同じように。
撮影の始まりが遅れたこともあり、予定よりも一時間ほど遅れて撮影が終わった。たまたま近くまで来ていたという荒木さんに車で日下部くんと住むマンションにまで送ってもらう。
「日下部さんによろしくね」
「うん。ありがとう。荒木さんも気を付けて」
荒木さんの車を見送り、マンションの中へ入る。
日下部くんはまだ起きているだろうか。メッセージのやり取りもすれ違ってしまうくらいに、日下部くんも忙しい毎日を送っているようだった。
一目だけでも会えたらいいのだけれど。そろそろ私の中の日下部くんメーターが底をつきそうだ、と思いながら玄関を開ければ、その願いが通じたのか、ちょうどお風呂を済ませたばかりらしい日下部くんと鉢合った。
「日下部くん……!」
「おかえり」
久しぶり、とバスタオルを頭にかぶせた日下部くんがふんわりと笑ってくれる。それだけで私の心がじんわりと満たされていくのを感じる。この笑顔がずっと恋しかった……!
「もう寝てるかなって思ってた」
玄関先で靴を脱ぐ。
「さっきちょうど仕事が終わったところだったんだよ。大変だったけど、この時間に祈里に会えるならラッキーだったかも」
ハニかむように言われて、私の顔に熱が集まってくるのが分かる。耳まで赤くなりそう。日下部くんはそんな私を見て、ふっと唇を緩ませると大きな手で私の頭を撫でた。
「荷物持つよ。早く入って」
サラッと私が肩にかけていたショルダーバッグを日下部くんが攫っていく。たった数日でも、会えない時間があったせいだろうか? どうして日下部くんのひとつひとつの表情や行動にこんなにも胸がときめくのだろう。
ときめきすぎて苦しくなった胸を楽にするために、深く息を吸って吐きだした。
「撮影は順調?」
「うん。結構NGも出しちゃってるけど、楽しいよ」
「そっか。何か飲む? ココアとかあるけど」
「あ、いいよ。自分でやるから! 日下部くんこそ座っててよ」
「……じゃあ、一緒にやる?」
「そうしよっか」
日下部くんと一緒にキッチンに立つ。ケトルに水をそそぐ日下部くんの毛先から、首にかけたバスタオルに水滴が落ちていった。それさえ色っぽく見えてしまうのだから、私は相当日下部くんに惚れ込んでいることを自覚してしまう。せっかく落ち着かせるために深呼吸したのに、もう苦しい。
「夕飯は?」
「あ、食べたよ。共演者の久留生さんが差し入れしてくれたお弁当があってね、唐揚げ弁当だったんだけど、すごく美味しかった」
「へぇ。その俳優って、祈里が片想いしてる相手?」
「あ、そうそう」
そういえば、撮影に入る前に少しあらすじを日下部くんに話をしていたんだった。
「その役の人で――」
視界が不意に暗くなる。唇の端に、柔らかくて温かいものが軽く触れた。頬に水滴が一粒落ちる。
さっきまで私の隣にいたはずの日下部くんの顔があって、思わず飛び退いた。
「!?!?!?」
「ごめん、我慢できなかった」
日下部くんが手で口元を覆って、ようやく彼にキスされたのだと気付く。嫌だった? と訊かれて、懸命に首を横に振るのが精一杯だった。嫌ではない。むしろ嬉しい。嬉しいに決まっているけれど……。
「な、なんで……急に?」
「役だって分かってるんだけど、祈里がそいつに片想いしてるって思ったら、なんかこう……モヤモヤして……」
「や……やきもちって、ことですか……?」
「そうとも言いますね……」
本当ごめん、と日下部くんが頭を抱えてしゃがみ込む。私も同じように日下部くんの目線に合わせてしゃがみ込めば、彼はそのまま両手で顔を覆った。
「すげーダセェから、今の俺。祈里さん、あんまり見ないで」
「ダサくないよ」
「いや、嫉妬はダサい。祈里が撮影で家空けてるときからずっとモヤモヤしてて。役に入り込むと好きになったりって聞いたこともあるし。あ! だからって別に祈里のこと信頼してないとかじゃないから――」
慌てたように覆っていた顔を見せてくれた日下部くんに、今度は私から唇を重ねた。数秒も重ねてられるくらいの強い心は私にはなかったけれど。心臓が破裂しそうなくらい痛い。「へ……?」と日下部くんが間の抜けた声を上げたのが聞こえた。
「これが、私の気持ち」
「え、あ……ありがと……?」
「こちらこそ、ありがとう」
互いに赤い顔を逸らして、キッチンの床に座り込んでいるなんて、なんて情けないのだろう。20代半ばの恋愛とはとても思えないピュアさだと、自分たちのことながら笑ってしまう。
でもこれが、私のファーストキスなのだから許して欲しい。
「撮影が終わったら、ちゃんと伝えるから。待っててね」
「もう今、言っちゃってもいいんじゃないですか? 祈里さん」
「それは、ダメなの。ちゃんと落ち着いてから、言いたいから。でも、日下部くんのことしか見てないから、私」
「もうそれ、ほとんど言ってるのと同じじゃん」
「そ、そうかもしれないけれど! でも、ちゃんとそこはけじめをつけたいっていうか……」
日下部くんが笑う。どうやら彼のほうが先に、平常心を取り戻したようだ。腕を引かれて、体勢が崩れる。飛び込むように日下部くんの胸に体を預けた。
スウェットから香る洗濯洗剤のにおいは、私と同じものを使っているはずなのに、日下部くんから香ってくるだけでとても甘いもののように思える。
心が落ち着くのと同時に心臓は鼓動を早めるし、頭はクラクラとしてしまう。
「分かってる。ちゃんと待ってるよ」
「うん、待っててね」
「俺も、祈里だけだから」
「……うん」
日下部くんの背中に腕を回す。ギュッと力を入れて、大きな背中を抱きしめて、この時間を堪能するように目を閉じた。
ケトルのお湯が沸いたのか、ピーと電子音を鳴らしている。せっかく沸かしたお湯が冷めてしまう。けれど、今は、もう少しだけでもこうしていたい。日下部くんの腕の中で、ずっと願っていた彼との幸せを噛み締めていたい。
唇には、未だに日下部くんの柔らかい唇の感触が残っている。
(付き合ったら、もっとキスとか、するのかな……)
顔を上げれば日下部くんと目が合って、彼は一瞬難しそうな顔をすると、私を苦しいくらいに抱きしめ直した。
「祈里さん~~っ」
「え、なんで? お、怒ってる?」
「怒ってない。怒ってないけど! あんまり可愛い顔しないでくれる!?」
これでも我慢してるんだから煽らないで、と日下部くんは私の首元に顔をうずめた。