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第三十五話 私の家族

 一泊二日の温泉旅行を終えたその足で、私たちは今、私が所属する『コスモプロダクション』の事務所に来ている。

 テーブルを挟んで、向かい側のソファーに荒木さん。向き合う形で、私と日下部くんが座っている。荒木さんは目の前に置かれたお土産の温泉プリンと私たち二人を交互に見ながら、「えっ、そういうこと?」と言った。


「これ、俺からも荒木さんにお土産です」

「ちょ、ちょっと待ってくれる? えっと、いつから?」


 日下部くんに差し出された温泉まんじゅうの箱を、手のひらを向けて制止した荒木さんは、「あっ!」と忙しなく目を丸くさせて私を見た。


「もしかして、前のデートの相手も、日下部さん?」

「……はい、そうです」

「やっぱり、そうだよね」


 うわー、と荒木さんは頭を抱える。「どうして?」とその目は困惑しきっていて、それは無理もないだろうなと思う。だって、荒木さんの中では、私が「日下部くんだけはダメだ」と返したところが最新情報だったのだから。なにがどうなって、デートをしたり、一泊二日の温泉旅行に行くことになるのだろうかと疑問に思うのは普通だろう。


「俺から、祈里に交際を申し込んだんです」

「そ、そうなんだ」


 ええっ、と困惑した声を出すと荒木さんは、私のほうへと体を乗り出すと、口元を日下部くんから隠すように手で衝立をして、声を潜めた。


「桜井さんとの関係は、ちゃんと解決してるの?」

「うん、それは。ちゃんと桜井さんにはお断りしてきたよ」


 それに……と私は、日下部くんのほうへと視線を移す。


「日下部くんとは、まだ正式にお付き合いはしていないの」

「え?」


 荒木さんが首を傾げる。そうなの? と言いた気な表情で日下部くんを見て、日下部くんは「はい」と大きく頷いた。


「私の覚悟がちゃんと決まったら、ちゃんとした形で交際を始めようと思っています」

「そのときは、よろしくお願いします。コスモプロダクションにはご迷惑をお掛けしないように全力を尽くします」


 まるで親へ結婚の申し込みをしに来たようだ。実際にしたことはないけれど、ドラマなどで見るよう

な感じ。荒木さんは私の親ではないけれど、コスモプロダクションという会社の中では、親のような存在で間違いはないかもしれない。女優・羽柴祈里を育ててくれたのは、他の誰でもない荒木さんだと私は思うから。


 荒木さんは考え込むようにしばらく黙った。それから、困ったように眉を下げて柔らかく微笑む。この顔が、温泉プリンの瓶容器に描かれたキャラクターの顔によく似ている。


「祈里ちゃんには前にも話したけれど、うちの事務所は恋愛を規制するつもりはないよ。祈里ちゃんをプロデュースする中でも、特に大きな問題はないと思ってる」

「驚いて変な反応しちゃってごめんね」と荒木さんは続けて謝った。

「だから、二人の交際に反対することは一切ありません。日下部さんなら俺も安心して見ていられるかな。ただ、うちに迷惑をかけないようにするっていうのは、ちょっと違うかなって思うんだけど」


 荒木さんの言葉の意味が分からず、私と日下部くんは互いに顔を見合わせる。


「別に難しいことじゃないよ。俺は、事務所に迷惑をかけないってことよりも、二人がちゃんとお互いを思い合ってくれればそれで良いから。まぁ、仕事はちゃんとしてもらわないと困るけどね」

「それはもちろん!」

「分かってるよ。冗談、冗談」


 ごめんね、と言いながら荒木さんはくすくすと笑う。それから、


「祈里ちゃんが仕事をないがしろにしないことは、俺が一番よく知ってる」


と、続けた。そして姿勢を正して、私たちへと向き直る。私と日下部くんの背筋も自然と伸びた。


「話はよく分かったよ。教えてくれてありがとう。どちらかじゃなくて、二人がしっかり納得する形の関係を築いていってね。応援してるから」

「ありがとうございます」


 私と日下部くんが頭を下げるのは同時だった。「難しい話はこれで終わり」と荒木さんが言って、せっかくだからお土産を一緒に食べようとお茶を淹れてくれるという。


「私も一緒にやるよ」

「え、いいよ。祈里ちゃんは日下部さんと座ってて」

「私はお客さんじゃないから」

「あ、じゃあ俺も手伝います」

「いやいや、おかしいでしょ。日下部さんは座っててよ」

「俺はコスモプロに投資してるんで」

「それを今言うかな~?」


 お互いに何だか譲れなくなってしまって、結局三人でお茶の準備をすることになった。日下部くんは荒木さんにテーブルの上を拭くように頼まれて、私と荒木さんは給湯室のほうへお湯と日下部くん用のマグカップを取りに行く。


「ねぇ、荒木さん」

「んー?」


 シンク上の戸棚の中を「良いお茶とかコーヒーがあったはずなんだけど」と漁っていた荒木さんは、こちらを見ないまま返事をした。


「私、日下部くんのことずっと好きだったんだ」


 すぐにそれに対する返事は返ってこなかった。「あ、あったあった」と荒木さん戸棚の中からインスタントコーヒーの大きな瓶を取り出して、それから「んー」と言葉を選ぶように唸った。唸るといっても、嫌な声じゃない。とても穏やかなものだ。


「昔、日下部さんと色々あったんでしょ?」

「知ってたの?」

「別に何も知らないよ。誰かから何か聞いてるわけでもないし、祈里ちゃんも話す気なかったでしょ? でも、二人の様子見てたら分かるよ。単なる昔の知り合いじゃないってことくらい」


 想像は簡単にできるよ、と荒木さんは目を伏せて微笑む。


「でも今も、過去に何があったのかとか詳しく聞くつもりはない。悪い意味じゃなくて、俺には関係ないことだからさ。祈里ちゃんや日下部さんが話したかったら話してくれたらいいよ」


 荒木さんが私の頭を撫でる。


「だから、祈里ちゃんが日下部さんのこと好きっていうのは、分かってた」

「それも気付いてたんだ」

「最初は確信なかったけど、『日下部くんはダメ』って言ったときに、そうなんだろうなって。好きじゃなかったら、あのとき『ダメ』だなんて表現使わないでしょ」


 それにね、と荒木さんは続ける。


「たった数年だけど、祈里ちゃんのこと、俺ほどちゃんと見てる人間はいないって思ってるから」

「え?」

「事務所ができた当時から、俺はずっと祈里ちゃんが幸せになることだけを考えてきた人間だよ?」


 そんなこと言ったら日下部さんに怒られそうだね、と荒木さんは冗談の色を強くして笑う。


「まぁ、とにかくそういうことだからさ。借金も返し終わって、知名度も右肩上がりで上がってる。出演した映画やドラマの評判も上々。明るい未来が来る予感しかしないよ、俺は。恋愛もうまくいって、祈里ちゃんの人生がもっと明るくなったらいいなって思ってる」


 荒木さんは私の肩を抱き寄せると、励ますようにポンポンと叩いた。その手はとても優しくて、私の背中を押してくれるようだ。ずっと暗闇の中だった私の人生で、うっすらと見えてきた光。その方向へと押し出してくれるような優しさを、荒木さんの手からいつも感じる。私を女優という世界に導いてくれたときもそうだった。借金取りに追われ、これから先の未来に不安でいっぱいだった日に背中を摩ってくれた手も、オーディションもうまくいかず、名前のない役ばかりを演じていたあの日、落ち込む私の手を握って「一緒に頑張っていこう」と励ましてくれた手も、どれもとても温かいものだった。

 私にとって荒木さんは、家族以上に家族のような陽だまりのような存在だ。


「とにかく、祈里ちゃんは後悔のないように自分の気持ちに素直になりなよ」

「ありがとう、荒木さん」

「なんだか、娘を送り出す親の気分が分かる」

「長い間育ててくださりありがとうございます」

「ちょっと、やめて」


まじで泣きそうになるから、と荒木さんはふざけて目頭を押さえるフリをする。今までの感謝がすべて伝わるとは思っているわけではないけれど、私は荒木さんの腰元に手を回して一度ギュッと抱きしめた。


「日下部くんのところに早く戻ろう」

「あ、そうだった。ずっと一人で待たせてたよ」


 給湯室から出れば日下部くんがお行儀よくソファーに座って待っていて、思わず吹き出してしまった。



「どうしてあんなにかしこまってたの?」


 事務所からの帰り道、隣を歩く日下部くんに聞いてみる。


「祈里にとって荒木さんは家族みたいな存在だよなって思ったら、なんか自然と……?」

「本当、結婚の申し込みでもするのかと思った」

「……」


 日下部くんがボソッと何かを言う。でもそれは道路を走る車の音でかき消されてしまうほど小さくて、聞き取ることができなかった。「うん?」と聞き返してみたけれど、日下部くんは「何でもない」と首を横に振った。でも何か不満があったとか、嫌なことを呟いたとかではないだろう。夕日に照らされる日下部くんの横顔が、とても柔らかなものだったから。


「ね、日下部くん」


 今日は私のほうから手を差し出してみる。


「手、繋いで帰ろうか」


 手を握り返してくれる人がいるというのは、こんなにも幸せなことだったのだと気づいた。


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