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第三十四話 君を想う

 考えすぎて長風呂になってしまい、完全に逆上せてしまった。頭がふわふわする。

脱衣所に設置されているウォーターサーバーで冷たい水を飲むと、少しだけ気分もマシになった気がする。

フロントで二つもらっていた鍵の一つで、『楓の間』と書かれた客室の扉を開ける。靴箱には日下部くんが履いて行ったスリッパが戻ってきていて、彼がもう部屋にいることが分かった。随分と長い時間入ってしまっていたから、先に戻ってきた日下部くんは退屈していなかっただろうか。

私もスリッパを戻して、今度は部屋の中へと繋がる襖を開ける。襖を開けて、目の前に広がる光景に私の目は飛び出してしまうかと思った。

布団が、一組しか敷いてない……!


「えっ、えっ? 布団、ひとつなの?」

「俺が戻ってきたとき、ちょうど中居さんが出てくるところだったんだけど……二組にしてくれって頼んでも、カップルさんなんだからーってかわされた」


 ごめん、と広縁の椅子に座る日下部くんが眉根を押さえる。日下部くんのせいではないけれど。ひとつしかない布団で、二人で寝てくださいってこと!? やっと下がって来た体温がまた上がってくる気がする。眩暈がしてしまいそうだ。このままでは絶対私の心臓がもたない。


「大丈夫か?」

「ウン、ダイジョウブ」

「全然大丈夫そうじゃないけど」

「いや、本当に大丈夫だから! 日下部くんと一緒に寝るのが、いやとかじゃないし」


 なにを言っているんだ、私。ぐるぐると言葉が空回っているのが分かる。落ち着け、と日下部くんに言われて、パタパタと熱くなった頬を手で仰いだ。耳まで赤くなっていないだろうか。


「祈里もこっちでゆっくりしよう」

「えっ、うん」


 日下部くんに手招きされて、窓際のほうへと行く。日下部くんが窓を開けてくれたおかげで、夜風が私の熱くなった顔を覚ますように撫でていく。


「気持ちいい」


 風を浴びたからだろうか。頭が少しずつ冷静になっていく。

 微かに聞こえる秋の虫の音も耳障りがよくて、耳を澄ます。


「来て良かったな」

「うん、本当に」


 日下部くんが椅子を立つ音が聞こえた。隣に来るのだろうか、と思えばそうではなくて、後ろから腕を回すようにして抱きしめられる。抱きしめられた拍子に、お風呂上りに髪をくくった簪のビーズがぶつかり合って、シャラシャラと音を鳴らした。日下部くんの吐息が、首筋に当って、またそこから熱がぶり返すようだ。


「簪、つけてくれたんだ」

「うん」

「似合ってる」


 ありがとう、と平静ぶって返したつもりだったけれど、声が少し震えてしまった。心臓が、バクバクと大きな音を立てている。日下部くんにも聞こえてしまわないだろうか。温泉の檜の香りと、シャンプーかボディーソープの甘い香りが日下部くんからして、その距離の近さを余計に意識してしまう。

 抱きしめられるのなんて、あの日、日下部くんが私に想いを告げてくれたとき以来で……。


「ごめん、急に抱きしめて。普段から一緒に暮らしてるはずなのに、ここに来たら急に意識しちゃって」


 日下部くんが腕の力を緩めて、私から離れていく。


「日下部くんも、意識してたの?」

「それは……そう。家にいるときとはまた違うし、雰囲気とかも……。やっぱり旅行っていうと、特別な感じがするから」


 あー、と日下部くんが項垂れる。


「祈里を困らせないように我慢してたのに、我慢できなくなった」

「我慢?」

「……。祈里が、ちゃんと俺を受け入れてくれるまで、不用意に触れないようにしようって決めてたんだ。祈里の心が決まっていないのに、無理はさせたくないから」


「そんなこと……」と思い、言葉を飲み込む。思い返せば、この一ヶ月の間に日下部くんと私が触れ合ったのは数回程度だ。それも手を繋ぐくらい。手を繋ぐのだって、日下部くんから「繋いでいい?」と聞いてくれていたし、映画を観に行ったあと、初めて手を繋いだ日は、日下部くんから少しの戸惑いを感じた。


 胸の真ん中がキュッと小さな音を鳴らす。日下部くんに手を伸ばして、その大きな体を思い切り抱きしめた。


「ぅわっ、ちょっ、祈里」


 顔が見られないように、日下部くんの胸元に顔を埋めて、さらに引き離されることのないように腕の力をこめる。日下部くんは少しうろたえたあとに、遠慮がちに私の背中に腕を回してくれた。


「いっぱい、私のこと考えてくれてありがとう」

「それは、別にお礼を言われることじゃない。好きなんだから、考えるのは当たり前だし」

「ううん。そんなことないよ。今日一日……ううん、今日だけじゃなくて、私、ずっと幸せなんだ」


 私にできることは何だろうか。私が感じている温かな幸せと同じように、日下部くんにも幸せを感じてもらいたい。

 そっと日下部くんと密着していた体を離す。背の高い日下部くんに届くように、背伸びをして、日下部くんの頬に自分の唇を寄せた。唇を重ねる勇気は、私にはまだないけれど。私が今できる、日下部くんへの最大の愛情表現だ。

「日下部くん、好きだよ。だから、抱きしめたことを謝らないで。私も、すごく嬉しかったから」


同じ気持ちだから、と返して、途端に自分がしたことを急に冷静に思い返す。ぶわわっと顔に熱が上がるのを感じて、「は、恥ずかしいね」と日下部くんを見上げた。


 目が合った日下部くんは一瞬眉間に皺を寄せると、大きな溜息とともに大きな体で覆い被さるように抱きしめてきた。


「なんで、そんな可愛いことするんだよ。俺だから我慢できてるってこと忘れるな」


 少しだけ怒っているような、拗ねているような口調。赤くなった顔の熱は、日下部くんのせいでなかなか冷めそうにない。


「きっともうすぐ、ちゃんと日下部くんの気持ちに応えられると思う」


 ちょっとずつだけれど前を向けている。日下部くんを不幸にしてしまうのではないかと心配する、心の中にいる中学生の私も、きっともうすぐ笑ってくれるはずだ。「仕方ないなぁ」って。「そんなに日下部くんのことが大好きなら、仕方がないね」って、言ってくれる気がする。



 結局夜は、今度は女将さんに日下部くんが頼み込んで、もう一枚布団を敷いてもらえることになった。一組だけしか布団を敷かなかった中居さんからは、「余計なことしちゃったかしら」と申し訳なさそうに謝罪されてしまったけれど。「勇気が出なくてごめんなさい」と日下部くんの耳に入らないようにこっそりと中居さんに謝れば、中居さんは「あらあら」と口元に手を当てて、その目をニコニコとさせた。


 少しだけ離された布団。日下部くんのほうを向いて横になる。何だか学生時代の修学旅行感があって面白い。


「日下部くんと一緒に来れて良かった」

「俺も。良い一日だった」


 日下部くんへと手を伸ばす。日下部くんも同じようにこちらに手を差し伸べてくれて、指と指が触れる。少しだけ体を日下部くんのほうへと寄せて、その手をしっかりと握った。


「日下部くん、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」


 日下部くんが目を閉じる。近くにある寝顔に心が安らぐのが分かる。日下部くんはどんな夢を見て、この夜を越えていくのだろう。それがどうか穏やかで、楽しい夢であることを願う。

 明日も、こうして手を繋いでいられますように。

 窓辺から月明かりが差し込む。秋の夜空に浮かぶ月は、とても眩しくて儚い。

 スポットライトのような眩しい光ではなく、誰にでも優しい月の明かりのように、秋の陽だまりのように、私たちの未来をふんわりと穏やかに照らして欲しい。

 そう願いながら、私もゆっくりと目を閉じた。どうか夢の中でも、日下部くんに会えますように。


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