日下部くんとの関係が始まってから、間もなく一ヶ月が経つ。
ドラマの仕事が終わり、出演が決まっている映画のクランクインまでの間、一週間の休暇をもらえることになった。
そして私は今、温泉宿へと来ています。
「どうする? 部屋に荷物置いたら、少しだけ温泉街のほう行ってみるか?」
そうです。日下部くんと一緒に。
時は遡ること、一週間前。
「久しぶりの長期休暇だし、休暇中はゆっくり楽しんでね」
「うん。しっかり羽伸ばそうと思う」
荒木さんは私の予定を管理するスケジュール帳に一週間の休みを記入する。思えば、知名度が上がってからの数ヵ月は、ありがたいことにまとまった休みを取る暇がなかった。忙しさも楽しんでいたから苦痛ではなかったけれど、こうやって長いお休みがもらえると思うと心も踊る。
一週間後にやって来る休暇に想いを馳せ、軽い足取りで家へと帰ると、日下部くんが「なにか良いことあったのか?」と首を傾げた。
「来週、お休みもらえることになったんだ」
「へぇ。何日くらい?」
「一週間」
どんなことをしようかな、と考えるだけで楽しい。私があまりに浮足だっている様子だったからか、「提案があるんだけど」と少し遠慮を含んだ声色で日下部くんが口を開いた。
「よかったら一緒に旅行に行かないか?」
日下部くんはリビングのテーブルに置いていた何かを取ると、私へと差し出した。
「取引企業の人から、温泉宿のペアチケットをもらって。誰かに譲ることも考えてたんだけど、祈里がもし良いなら……一緒に行きたいんだけど」
まるで子犬のような表情で日下部くんが私を見るから、勢いで頷いてしまった。
そうして私たちは、今、温泉宿へと来ているのだけれど……。
「わぁ、すごい。綺麗なお部屋」
広い畳張りの部屋。大きな座敷机を挟み、座椅子が二つ向かい合って並んでいる。その奥には障子を挟んで広縁があって、窓の外の自然を見ながらくつろげるテーブルと椅子が置いてあった。
窓の外には美しい紅葉が広がっていて目を奪われる。
「それでは、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
荷物を運んでくれた中居さんは、穏やかにそう告げると、静かに襖を閉めた。
「本当にいい場所だな。俺も驚いた」
窓際にいた私の隣に、日下部くんもやって来る。この部屋に二人きりだと思うと、途端に自分の顔が熱くなるのが分かった。いやいや、何を今更意識しているのだろうか。もう何ヶ月も一緒に住んでいるというのに。
ただ、日下部くんの家は何部屋もあって、寝るときは違う部屋だし、日中はお互いに仕事に行ったりしているから、今日から一泊まるまる日下部くんと常に一緒だと思うと、つい意識をしてしまう。夜になったら、ここに布団が二つ並んで敷かれるのだろうか――……。
(って、なに想像してるの、私!)
お試しとはいえ恋人同士になったのだから、そんなことで動揺していてはいけない。同じ部屋で一晩明かすことだって、大人同士の交際なのだから別になにもおかしくないわけで。
「温泉街のほう、行ってみよう」
「へ!?」
「いや、ほら。土産が見たいって行っていたし」
「あ、ああ! そうだったね。うん、すぐ行こう!」
挙動不審な私を見て、日下部くんが「どうしたの」と笑っている。「なんでもないよ」と大袈裟に顔を横に振った。
……日下部くんは、いつも通りだ。変に意識をしてしまっているのは、私だけなのかもしれない。
玄関へと向かう途中。廊下で見覚えのある男性とすれ違った。目深に被っていた黒いキャップを外した彼は、私と目が合うと気まずそうに逸らす。そこで、その人が依然バラエティ番組で共演したことのあるアイドルの男の子だと気づいた。隣には、同い年くらいの可愛らしい女の子がいる。しっかりと握られた手を見て、二人が恋愛関係にあることはすぐに分かった。
それは相手も同じだったようで、逸らした目を、日下部くんの存在に気づいて戻した。私が恐る恐る頷けば、向こうも「分かった」と言うように、こくりと頷いた。私は彼がここに恋人といることを必ず誰にも言わない。彼もまた同じで、お互いに何も見ていないということで過ごそう、と目で語り合った。
温泉街には他の温泉宿や甘味処、土産物屋さんが並んでいる。中には浴衣姿で観光を楽しんでいる人もいる。平日で、まだ紅葉もしきっていないから人もそこまで多くはないけれど、一応帽子と眼鏡を着けて変装する。桜井さんのときのように油断して撮られたくはない。落ち着いた雰囲気の中で、日下部くんとの関係を築いていきたいと思っているから。
「なにか良いものあった?」
「うん。荒木さんには温泉プリン買おうかなって。見て、容器も可愛いでしょ」
「なんか、このキャラクター、ちょっと荒木さんに似てる」
「……あっ、確かに。あはは」
プリンが入った瓶容器に描かれた、ゆるいキャラクター。ふにゃっとした笑顔は、日下部くんの言う通り、荒木さんが優しく笑うときにそっくりだ。
「それから、ルイちゃんにも何か買おうかなって思ってて。温泉で作ったサイダーとか美味しそう」
「……それ、祈里が飲みたいものなんじゃないか?」
「ふふ、バレた?」
一緒に同じものを買って、ルイちゃんと飲むのも楽しそうだな。それなら、お菓子も買って、ちょっとしたパーティーでもしたくなる。日下部くんと一緒に温泉旅行に行ったと話したら、ルイちゃんも喜んでくれるだろうか。
「……祈里」
「うん?」
「これ」
振り向けば、目の前に、ピンクとオレンジの小花柄のペーパーで可愛らしく包装された何かが差し出される。「私に?」と自分を指差せば、日下部くんはこくりと一度頷いた。
「開けてみてもいい?」
「ああ」
留められているテープを、ペーパーが破れないように気を付けながら外す。そっと中を覗き見れば、簪が一本入っていた。白いお花のモチーフと、垂れるように付けられた細いチェーンの先にはお花と同じ白色のビーズが二つ付いている。それが揺れるたびに、シャラシャラと小さく綺麗な音を奏でた。
「綺麗」
「祈里に似合うかなって思って、さっき買ってきた」
「いつの間に。全然知らなかった」
日下部くんが私を考えて選んでくれたと思うと、胸が苦しくなるくらい嬉しい。キュッと胸に抱え込むように、簪を抱きしめる。
「ありがとう、大切にするね」
「大袈裟」と日下部くんはそんな私を見て笑うけれど、一瞬でこれが宝物になってしまうくらいには私にとって嬉しいことだった。「綺麗だよな、この簪」と日下部くんは言ったけれど、これが綺麗な簪じゃなくたっていい。どんなものでも関係なくて、私は日下部くんの気持ちが嬉しかった。
それと同時に、日下部くんからは昔から色々なものをもらってばかりだと気づく。昔から私を気にかけてくれて、再会した後だって私のためにたくさん動いてくれた。そのおかげで、今、幸せだと感じられる心がある。
私も、日下部くんのために何かしてあげたい。日下部くんに喜んでもらいたい。
色々と、あれこれ考えてみるけれど、私が日下部くんにしてあげられることが何か全く思いつかないまま時間だけが過ぎていく。
お土産物屋さんでも日下部くんに似合うものを探してみたけれど、どれもピンと来なかった。どれも、そういうことではないように思えてしまって、どんどんと思考は絡まっていく。
「下膳とお布団の準備させていただきますので、良ければ今のうちに温泉のほうに行かれてはいかがでしょうか?」
お部屋での豪華な食事が終わり、下膳に来た中居さんにお風呂を薦められる。それじゃあ、と旅館の奥にある温泉へと行くことにした。
『女湯』の暖簾をくぐり、荷物置き場に着替えの浴衣や小さな荷物を置く。洋服を脱いで、髪をお団子に結って、ハンドタオルで体を隠しながら扉を開ければ、もわもわとした白い湯気とともに檜の良い香りが私の鼻をくすぐった。
体を洗い、そっと温泉へと足をつける。少し熱めの湯が心地よくて、ほぅっと口から溜息が洩れた。
「何をしたら、喜んでくれるかな」
肩まで湯に浸かり、背中を檜の浴槽に預ける。目を閉じれば、日下部くんの姿が浮かぶ。私に、日下部くんを喜ばせることなんてできるのだろうか。一瞬の、目先のことだけにならないだろうか。不安が、胸の中へと広がっていくことが、寂しかった。