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第三十二話 束の間の水族館デート

 病院独特な、消毒液の香り。お母さんが入院する病棟で、ナースステーションで作業をしている看護師長さんに面会に来たことを告げれば、「あら」と笑顔を見せてくれた。


「祈里ちゃん、最近とても忙しそうね」

「おかげさまで」

「私の娘も祈里ちゃんのファンなのよー。あの、化粧品……なんて言ったかしら」

「『Tutu』ですか?」

「そうそう、それ! 誕生日プレゼントに、秋冬のコフレを買って欲しいってせがまれてて」


 私が初めて『Tutu』のモデルを担当したときは、夏のコフレだった。縁が続いて、秋冬のコフレの宣伝モデルを頼まれたのが、つい一ヶ月ほど前のこと。昨日、秋冬コフレの情報が解禁されたばかりなのに、身近な人からそういう反応をもらえることに驚いてしまう。


「でも、あのポスターとかCM、とっても可愛いもの。私も欲しくなっちゃった」


 共有で使わせてもらうつもり、と師長さんはお茶目に可愛らしく肩をすくめた。


「あ、今、母の病室って入っても大丈夫ですか?」

「ええ。もう午前の処置は終わっているから。でも、今は眠っているかも」

「大丈夫です。ゆっくり休んで欲しいので」

「そう。祈里ちゃんもごゆっくりね」

「はい、ありがとうございます」


 来る途中にお花屋さんで買った花束を持ち直す。どうしても病室は閉鎖的で季節の移り変わりを感じにくい。せめて、と花束にはコスモスやオレンジ色や赤のスプレーバラをメインに、秋の色や空気を感じられるものをチョイスしてもらった。お母さんが目を覚ましたときに、喜んでくれたら嬉しい。


 ノックをしたが、やはりお母さんは眠っているのか返事はなかった。そっと扉を開けて、物音を立てないように中に入る。前回来たときから、随分と時間が空いてしまった。そのときにあった、誰かからのお見舞いの花はもうなくなっていた。看護師さんが処分してくれたのだろう。あとでお礼を言わなければ。


 サイドテーブルに置かれた花瓶を取る。個室の中にある洗面台で水を入れて、花束を生け直した。重量が増したそれを落とさないように気を付けながら、もう一度サイドテーブルへと置く。窓辺から入る陽の光で照らされた花は生き生きとしていて、真っ白で清潔感のある部屋に華やかさが加わった。

 ベッドサイドに置かれた椅子に腰かける。深い眠りに入っているのか、私の気配に起きることなく、お母さんは穏やかな寝息が聞こえてくる。

 掛け布団の上に置かれたお母さんの手を握る。白くて、細くて、丁寧に扱わないと壊れてしまいそうだ。


「お母さん」


 ささやくように呼びかけた。


「私、ちゃんと幸せになれそうだよ。だから、心配しないでね」


 お母さんの手を自分の頬に当てる。


「私の心配は、もうしなくて大丈夫。だから、お母さんもお母さんの幸せを見つけてね」


 借金もなくなった。父親との縁も切れた。少しでも体を回復させて、お母さんにはお母さんの人生を歩んで欲しい。私を守る役目はもう終わったのだから。



 お母さんの病院が終わった後は水族館でドラマの撮影があった。撮影は順調に進んでいき、一時間ほど早く終わった。

 今日は荒木さんには予定が入っていて別行動だったから、「撮影終わったよ」とメッセージを一言入れておいた。私が荒木さんにメッセージを送るのと入れ違いになるように、日下部くんからメッセージが飛んできた。

 日下部くんは、今日、私が水族館で撮影があることを知っていて、メッセージは「俺も仕事で近くにいるけど、撮影が終わったら一緒に帰ろう」という内容だった。

 「今、仕事が終わったよ」と文字を打ち込んで、送信ボタンに掛けた指を止める。時間を見れば、二十時の閉館時間まであと一時間半ほどある。それでも閉館時間が近いからかお客さんも少ない。「よかったら、水族館まで来ない?」と文章を付け足して、日下部くんに送信した。



 日下部くんは本当に近くにいたようで、十分もしないうちにやって来た。


「日下部くん、こっち」


 待ち合わせ場所の大水槽前。私の姿を探している日下部くんに手を振る。


「ごめんね、急に来てもらっちゃって」

「全然いいよ。水族館なんて小学生ぶりだ」

「私も。小学生のときに遠足で来たとき以来」


 薄暗い館内は、大水槽の青い光でぼんやりと照らされている。イワシの大群が、うねるように水槽の中を泳いでいる。まるで一匹の大きな魚みたいだ。


「イワシが群れを作るのは、食べられないように大きな魚から身を守るためらしい」

「そうなんだ。やっぱりこういう水槽の中でも食べられちゃうのかな」

「大きな魚もいるもんね」と続ければ、「そういうこともあるみたいだよ」と日下部くんは頷いた。サメやマグロが私たちの目の前を優雅に泳いでいく。絶対的な強さを感じる。イワシを思うと切なさを感じるが、光を反射してキラキラと光る姿はとても美しく、大きな魚たちとはまた違う強い美しさを感じた。


 ふと隣へと視線を移す。興味深そうに水槽の中を覗く日下部くんの横顔が、とても綺麗で見惚れてしまった。

 よく少女漫画とかである、夏祭りで打ち上げ花火を好きな人と観に行って、花火よりも相手の女の子に見惚れてしまう男の子の気持ちは。きっとこういう感じなのだろう。

 綺麗で、かっこよくて、可愛くて。愛しさが込み上げる。日下部くんが楽しそうにしてくれていて良かった。


「一緒に観れてよかった」

「うん?」


 思わず口から零れてしまった言葉を、日下部くんはうまく聞き取ることができなかったみたいだ。もう一度、それを言葉にするのは恥ずかしくて、「ううん、なんでもない」と首を横に振る。

 日下部くんがあの日、私に気持ちを伝えてくれていなかったら、きっとこうやって二人並ぶこともできなかっただろう。


「ありがとう」


 この言葉は、日下部くんにしっかりと届くように紡ぐ。日下部くんは「え?」と不思議そうに首を傾げると、「なに急に」と笑った。


「ううん、言いたかっただけ」

「なんだよ、それ」

「なんでもいいでしょ。あっちも行ってみようよ」


 大水槽の前から離れる。「なんだよ」ってちょっとだけ不満そうにしながらも、後ろをついてきてくれる日下部くんは優しい。



「昼間に来たら、イルカショーとかもやってるみたいだよ」


 床に記された進路順を辿りながら、『本日のショーは終了しました』と立て看板に貼られたショースケジュールを指差す。


「へぇ、面白そう」

「今度は昼間に来ようよ」


 日下部くんが驚いた顔をして私を見る。その表情を見て、私も「えっ」と戸惑ってしまった。なにか変なことを言ってしまっただろうか。「今度は」なんて、次もあるように言うのは、あまりに図々しかっただろうか。私は日下部くんに対して、中途半端な「お試し」なんて関係を申し込んでしまったわけだし。


「ごめん、私、何か変なこと言ったかも」

「あ、いや、違う。そうじゃなくて。祈里が今度は昼間に来ようって言ってくれたのが嬉しかっただけ」


 まさかそう言ってくれるとは思ってなかったから驚いてしまったのだと、日下部くんは照れたように少しだけ俯いた。


「撮影中に、ここに日下部くんと一緒に来られたら、きっと楽しいだろうなって思ったの」


 本音を口にするのは、とても緊張する。「だから、今日も誘ったんだ」と言った声は、自分でも分かるくらい小さかった。


「だから、次はゆっくり来ることができたら、嬉しいなって」


 ちらりと日下部くんの表情を伺う。日下部くんは、慌てたように「ごめん、ニヤける」と自分の口元を手で隠した。そんな様子はとても珍しくて、初めて見る顔で、私の心臓はどんどんとうるさくなる。


「うん、俺もまた来たいって思ってる。また一緒に来よう」

「うん」


 よろしくね、なんて変な返事をしてしまって、日下部くんは「ぷっ」と小さく吹き出した。


「もうスタッフとか共演者はいない?」

「たぶん。もうみんな撤収しちゃったんじゃないかな」

「じゃあ……」

「ん」と日下部くんが私に手を差し出す。

「手、繋いでもいい?」

「……うん」


 周囲に本当に誰もいないかを確認して、差し出された手をそっと握り返した。日下部くんの、大きな手が私の手をしっかりと握ってくれる。

 静かな水族館には、まるで私たちしかいないようだ。閉館時間まで三十分だというアナウンスが館内に流れる。なんて名残惜しいのだろう。


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