桜井さんと連絡を取りあるのは、あのスキャンダルが出て以来だった。
こちらから連絡をしようと思っていたときに、桜井さんのほうから「会いたいです」とメッセージが飛んできた。
お互いの時間を調整して、三日後に会うことになった。気持ちに応えられないとハッキリ伝えなければいけない。「会いたい」と、どれくらいの勇気を出して私に送ってくれたのだろうと考えると切なくなってしまう。だからこそ、顔をちゃんと見て話がしたいと思う。
「良い天気で良かったですね」
「そう、ですね」
ゆっくりと話がしたいという私の希望を汲んでくれて、桜井さんとは大きな池がシンボルとなっている公園で会うことになった。
池の周り、大きな木が日よけになってくれるベンチに並んで腰かける。近くのコーヒーショップで買ったアイスカフェラテは、緊張しているせいか減りが早い。
平日の昼間ということもあって、そこまで人は多くない。近所から来ているであろう小さな子ども連れた親子が数人いる程度だ。
池の水面は太陽の光を浴びて、キラキラと輝いている。ときどき吹く風は爽やかで、こんなに穏やかで良い日であることが少しだけ申し訳なかった。
「祈里さん、最近お仕事のほうはどうですか?」
「あ、順調ですよ。今度、映画の出演も決まったんです。主人公のお姉ちゃん役で。たくさん出番があるわけではないんですけどね」
「そうなんですね」
「桜井さんはどうですか?」
「僕も順調ですよ。最近は映画じゃなくて、CM撮影とかそういう仕事もやってます」
あ!と思い出したように声を上げて、桜井さんは続ける。
「今度、僕が作ったビールのCMが放映されるんで、ぜひ見てくださいね」
「それは楽しみ」
ふふ、と互いに顔を見合わせて笑う。そのとき、今日桜井さんに会ってから、初めて彼の目をまともに見たことに気付く。話をするなら今しかない。
「あの、桜井さん。今日、どうしても伝えたいことがあって。先日の、桜井さんへのお返事なんですけど――」
「ちょ、ちょっと待って!」
桜井さんのほうへ体を向けた私を、桜井さんが大きな手で口を塞いで妨げる。吐き出しかけた言葉はそのまま、桜井さんの掌の中に吸収されていってしまった。桜井さんはすぐにハッとして、「ごめんなさい!」と謝りながら私の口元から手を離す。
「ゆっくり話ができる場所が良いって言っていたから、もしかしてって思っていたんです。やっぱり、その話になりますよね」
あー、と溜息のような唸り声のような声を上げて、桜井さんは自分の膝に両肘をついて、汗でも拭うように顔に手を当てる。そして、伺うように私の顔を覗き込んだ。
「今の話し方から、絶対に僕にとって良い話じゃないことは分かりました」
「……」
頷くこともできず、情けなく私は黙ってしまう。桜井さんは、少しだけ表情を歪めると、今度はしっかりと溜息を吐いて、項垂れた。
「……あの、私……好きな人がいて。初めから、桜井さんにちゃんと伝えておけば良かった」
そうしたら、あなたを傷つけずに済んだ。そんなに悲しい顔をさせることもなかったかもしれない。心の中に、ずっと想っている人がいること。その人と両想いになることができても、できなくても、他の誰かと恋愛をするつもりはなかったことを。私が中途半端な態度を取ってしまったから、こんなことになってしまった。
「その話、もうそこで終わってもらっても大丈夫ですか?」
「え……?」
「僕、あきらめ悪いんですよ。祈里さんに好きな人がいるって分かっても、あきらめられないから。もうちょっとだけ、祈里さんのこと好きでいてもいいですか」
こんなに誰かを好きになったのは初めてなんです、と桜井さんは言う。桜井さんは、雲一つない真っ青な空を仰ぎ見た。
「ちゃんとあきらめられるまで、好きでいてもいいですか?」
「……」
「だから、祈里さんは、僕がちゃんと祈里さんのことをあきらめられるように、幸せになってください。好きな人って、梓先輩ですよね」
「……うん」
「やっぱりそうかぁ」
爽やかな空気を体いっぱいに取り込むように、桜井さんは一度大きく息を吸い込んで吐き出した。そして、私を見て、ニッコリと微笑む。
「祈里さんが、梓先輩とうまくいっても、いかなくても、全然幸せになってくれないなら、僕が必ず幸せにします」
「……でも」
「良いんですよ。僕、祈里さんにも梓先輩にも迷惑かけるつもりないので。勝手に祈里さんを想ってるだけだから、祈里さんは僕のことは気にしないでください」
むしろ、謝らなければいけないのは僕のほうかも、と桜井さんは眉を下げる。
「祈里さん、ちゃんと僕の気持ちに応えようとしてくれたのに。気まずくならないように、ずっと悩んでたんじゃないですか?」
「それは……はい。桜井さんとは、これからもお仕事で一緒したり、演技の話も遠慮なくしたいと思っているので」
「それは僕も同じです。仕事と恋愛は分けて考えたいって思っているし、僕は、今の祈里さんだけじゃなく、女優・羽柴祈里も愛しているので。この恋がうまくいかなかったとしても、女優の祈里さんとはずっと関わっていきたいって思ってます」
それをちゃんと伝えていなかった僕が悪いです、と桜井さんは頭を下げた。
「わがままで、ごめんなさい」
そして、顔を上げた彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。
「幸せになってくださいね」
その声は、私の心の中に落ちるように染み込んでいった。目の奥が熱くなって、慌てて顔をそらした私に、「なんで祈里さんが泣くんですか」と桜井さんはおかしそうに笑った。
「おかえり」
玄関で靴を脱ぐために上り框に腰を下ろしたのは良いものの、そのままぼんやりとしてしまっていた私の意識は、その声によって現実へと引き戻される。
「あ、うん。ただいま」
「どうだった? 桜井との話」
「うん。ちゃんと話はしてきた」
桜井さんからもらった言葉を日下部くんに伝える。私が話し終わるまで黙って聞いていた日下部くんは、最後まで話を聞くと「そうきたか」と笑った。
「いや、でも桜井らしいかも」
「簡単にあきらめる性格なら、監督としてもうまくいってないだろ」と日下部くんは続ける。
「好きなものにはとことんしつこいやつだって、忘れてた」
その上で祈里の気持ちも尊重したいのだろう、と日下部くんは言う。
「俺も油断できないな。しっかりしないと桜井に祈里を取られそうだ」
日下部くんがこちらを見る。「なんて顔してんだよ」と私の頬を両手で挟んだ。
「これで良かったのかな」
「良いんだよ。むしろ俺は、その話聞いてちょっと嬉しかったけど」
「どうして?」
「桜井の祈里への気持ちが、本物だったって改めて分かったから。自分の隣じゃなくても、好きな人が幸せになってくれたら嬉しいのが愛だと思うから」
俺もそうだった、と日下部くんは瞳を伏せる。優しく頬を撫でてくれる手が温かい。
「祈里には幸せになってほしいんだよ」
そう言う日下部くんの姿に、お母さんの姿が重なった。幼いころから、何度もお母さんに言われた言葉だ。
日下部くんの手に自分の手を重ねる。そっと自分の頬をすり寄せて目を閉じた。
「ありがとう」
幸せを願ってもらえるということが、こんなにも幸せなことだったと気づきもしていなかった。お母さんにも「ありがとう」って伝えたい。そして、やっぱり私はお母さんにも幸せになってもらいたい。日下部くんや、桜井さんにも。私の幸せを願ってくれる全ての人の未来が、温かく優しいものでありますように。