翌朝、リビングへとやって来た日下部くんは私の顔を見ると、どこか気まずそうな顔をして、寝癖のついた髪を手で梳くように撫でつけた。
「体調はどう?」
「もう熱は下がった」
知恵熱だったのかも、と言いながら、彼はダイニングテーブルへと座る。淹れたばかりのコーヒーを二つマグカップに注いで、彼の向かいに座りながら、一つを日下部くんの前に置いた。「ありがと」と小さい声が返ってくる。まだ起き切っていなくていつもより細い目で、ふぅーと熱いコーヒーに息を吹きかける日下部くんの顔が私は好きだ。
「知恵熱? どうして?」
コーヒーを一口啜った日下部くんは顔をしかめる。コーヒーが苦かったからとかではなく、思い出したことがよっぽど嫌だったのだろう。
「一日で色々考えすぎた」
根掘り葉掘り訊かれるし、とブツブツ文句を言う。それだけでは何があったのかは全く分からないけれど、「お疲れ様」と返す状況であることだけは理解できた。詳しく聞いていい話でもないような気がして、それ以上の深堀はしないでおくことにしよう。
「……」
「……」
しかしそれはそれで、私たちは話題がなくなってしまって、妙な沈黙が流れる。いや、正確には話題はあるのだけれど、改まって昨晩の話をするというのにも勇気がいる。リビングに入ってきた日下部くんの態度から、昨晩のことを忘れているわけでもなさそうではあるけれど。
日下部くんがマグカップをテーブルに置く。テーブルとぶつかる音が、今日はいつもよりも大きく聞こえた。それくらい静かな時間が流れていると思ったけれど、私が、日下部くんの一挙一動を気にしているだけかもしれない。
「……昨日の、ことなんだけど」
言いにくそうにつっかえる声で、日下部くんが沈黙を破る。日下部くんが姿勢を正すから、私も同じように座り直した。初恋のころのように鼓動が早くなって、改めて彼に向き直るのが恥ずかしい。落ち着かない手指を、脚の上でキュッと握り込んだ。
「熱に浮かされてたとか、そういうのじゃなくて。俺は、本気だから」
「……うん」
「改めて、それだけはちゃんと言っておこうと思って」
うん、と私はもう一度頷き返す。
「私も、ちゃんと考えてるから。お試しで付き合おうっていうのも、真剣に考えて言ったことだし。もう、逃げたり、隠れたりしない」
日下部くんが真剣に私と向き合ってくれるなら私もそれに全力で返したい。日下部くんの気持ちに、等身大の私でちゃんと応えたいと思っている。
日下部くんと合わせられなかった目を、しっかりと彼のほうへと向ける。日下部くんは、優しくふわりと微笑むと「分かってるよ」と頷いてくれた。
「待ってるから、焦らなくていい」
「うん、ありがとう」
リビングに差し込む陽の光が爽やかで心地が良い。胸の奥まで、じんわりと満たされていくような温かさがある。日下部くんとの未来は、明るいものになる気がする。どこにもそんな保証はないけれど、そんな気がする。
今日の仕事も無事に終わり、日下部くんの家まで帰る電車の中、ドア付近に立った私は、窓の外を流れる景色を眺める。
日下部くんとのことで頭がいっぱいになってしまっていたけれど、桜井さんには私の気持ちを一日でも早くきちんと伝えなければいけない。
きっと勇気を出して私に想いを伝えてくれたのだから、私も誠実に応えたい。桜井さんとは付き合えないということを。もしそれで友人関係すら壊れてしまうなら、私と桜井さんはそれだけの絆を築けていなかったということだ。もしそれで、お芝居の話や映画の話ができなくなってしまうのは残念だけれど仕方がない。
(……仕方がないとは思うけれど)
夕日に染まる町並みは、『OneRoom』の撮影中にベランダから見た風景によく似ていた。私の人生を変えてくれた映画。桜井さんと出会えたこと、そして私を主演に起用してくれたことに心から感謝している。演技の楽しさも知ることができた。本当に楽しかったからこそ、桜井さんとは、何度でもまた一緒に仕事がしたい。……そう考えてしまうのは、ずるいだろうか。
「明日、仕事は?」
家に帰り、夕食を食べ終わるころ、他愛もない会話の中で日下部くんに訊かれた。
「明日はお昼に終わる予定だよ」
「ちょっと一緒に出掛けたいんだけど、どうかな。あ、でも、祈里がしたいこと最優先で。断ってくれて全然いいから」
お誘いと同時にこちらを変に気遣う慌てっぷりに思わず吹き出してしまう。
「そんなに気を遣わなくて全然大丈夫だよ。一緒に出掛けよう」
楽しみにしてる、と返せば、日下部くんはホッと表情を和らげてから「よかった」と笑った。
「十四時に待ち合わせでも大丈夫そうか?」
待ち合わせ場所は……と日下部くんがとある駅前を指定する。仕事の終わり時間とスタジオからの移動を確認して、十四時なら無理なく辿り着くことができそうだ。
「十四時ね、全然大丈夫。また時間が変わったりしそうだったらすぐ連絡する」
「分かった」
日下部くんと目が合う。それまでもお互いに目を見て話はしていたのだけれど、改めて視線がぶつかって、ハッキリと目が合っていると意識してしまった。付き合いたての、それこそ学生時代のころのように、たったそれだけで自分の鼓動が早くなるのを感じる。顔、赤くなってはいないだろうか。落ち着かないのと、こんなにも余裕がない自分が恥ずかしくて、思わず目をそらしてしまったときだ。日下部くんが「はぁーーっ」と大きな溜息を吐いた。何事かと、もう一度日下部くんに視線を戻せば、彼は両手で自分の顔を隠すように覆っている。
「どうしたの?」
「ごめん、すげー緊張してたから」
もう一度日下部くんは溜息を吐く。落ち込んでいるとか、そういうのではなくて、精神的に落ち着くために呼吸を整えているという感じだった。顔全体を覆っていた手を少し下に下げて、日下部くんは目元だけこちらに覗かせる。
「緊張……してたの?」
「それは、するだろう。だって……好きな人をデートに誘うんだから。そんなの、たぶん何歳になっても緊張する」
日下部くんの最後のほうの言葉は、ひどく小さかった。顔が手で隠されているせいでなかなか気づくことができなかったけれど、彼の耳と、Tシャツの襟元から見える首筋まで赤くなっていることに気付いて、私の胸はさらに大きく高鳴った。意識してしまっているのは私だけではなかったんだ、と緩みそうになる口元を、唇を軽く噛んでこらえる。絶対に赤くなっている自分の顔を隠したくて俯いて、垂れた横髪を指で梳くように顔のほうへと引き寄せた。
「私も、ドキドキした」
へ、と日下部くんから間の抜けたような声が上がる。相変わらず、半分顔を隠したままの日下部くんが目を丸くさせて私を見ていた。二十代も半ばを過ぎているのに、何をこんなにも初心な反応をしあっているのだろうと思ってしまったけれど、先程、日下部くんが言ったことを思い出して、納得している自分もいる。
――好きな人をデートに誘うのは、何歳になっても緊張する。
それと同じように、きっと何歳になっても、好きな人を前にしたらドキドキしてしまうものなのだろう。それに――……。
「なんだか、中学生のころみたいだなって思って」
初めて日下部くんと出かける約束をした日。一瞬、あのころに戻ったような感覚があった。明日は何を着ていこうか、と心を弾ませている私がいる。どうか、何事もなく楽しめる明日が来ますように。祈るように、私は目を伏せた。