「ごめん。今日、ある人と話をして、そのときに俺がどうしたいかっていうのを理解したら、気持ちが止められなくなった」
日下部くんがようやく私を抱きしめている腕の力を弱めてくれる。そっと離れていく体温が名残惜しい。
「祈里……じゃなくて、羽柴の気持ちが全然俺にないなら、そう言ってくれて構わない。迷惑かけるつもりはないから。でも、少しでも俺を想ってくれているなら、俺はもう羽柴を失いたくない」
きっと今、日下部くんの目には情けない顔をした私が映っているのだろう。迷惑なんかじゃないよ、と返した声は自分でも驚くくらい小さくて、本当に弱々しかった。それでも、日下部くんが勇気を持って気持ちを伝えてくれたんだ。私も、できる限り誠実に応えたい。
「私も好きだよ、日下部くんのこと。ずっと、ずっと好きだった」
本当に好きだったから、あの日、あんな別れ方をするしかなかった。
本当に好きだから、早く離れるべきだと今も思っている。
「怖いんだ、私。日下部くんと付き合ったら、また前みたいなことになるんじゃないかって」
どこからともなく父親が現れて、今度こそ日下部くんに取り返しのつかない迷惑をかけてしまうんじゃないか。そのとき、私はちゃんと日下部くんを守ってあげることができるだろうか。結局、離れることでしか解決できないんじゃないか。
「もしそうなってしまう未来があるなら、私たちは今すぐ、離れるべきだと思う。そうしないと、絶対にお互い苦しくなるから」
「そんな未来、絶対来ないよ」
「なんで言い切れるの? 私は来ないなんて言いきれない。だから怖いんだよ」
分かってよ、と返す。行く宛のない手が、行き場のない感情を誤魔化すようにロングスカートをギュッが握る。
「日下部くんのことが、あのころから何より大切だって思ってるから、言ってるんだよ」
涙が溢れてしまいそうになって慌てて下を向く。震える唇を強く引き結んだ。
「なんで……」
日下部くんがぽつりと呟く。
「なんで、そうやって一人で抱え込むんだよ。あのときだってそうだ。俺は、ちゃんと言って欲しかった。どうして二人のことなのに、祈里がひとりで決めて、ひとりで抱えて、去っていくんだよ」
二人でなら解決できたかもしれない、と言う日下部くんの声からは、珍しく悔しさが滲んでいる。「なんで」ともう一度日下部くんが呟くと同時に、下を向く私の視界の端にポタポタと水滴が落ちていくのが見えた。それはグレーのカーペットに一度、丸い染みを作って消えていく。そっと顔を上げれば、日下部くんの目からは大きな涙粒が溢れていた。
「えっ、やだ、なんで泣くの?」
「泣きたくもなるだろ、こんなの」
泣き顔を見るのは初めてで焦る。日下部くんは自分の腕でゴシゴシと目元を拭った。泣いて乱れる呼吸を整えるように、日下部くんは大きく息を吸って吐き出して続けた。
「もっと俺のことを信じて欲しいし、頼って欲しい。俺だって何より祈里が大切だから、そう言ってる。祈里と一緒なら、俺はそこが地獄でも構わない。地獄の中でも、祈里を絶対に幸せにする。だから、祈里が不安に思っている未来は来ないよ」
なによそれ、と思わず声に出てしまう。私は日下部くんを、その地獄に連れていきたくないと思って必死だったのに。どうして、そういうことを曇りひとつない真っ直ぐな瞳で伝えることができるのだろう。本当に、そんな未来が来ることはないって、信じたくなってしまう。
日下部くんが私を優しく抱き寄せた。日下部くんの温かい……いや、熱いくらいの手が、子どもを慰めるように私の後ろ髪から背中をゆっくりと撫でてくれる。
自分の気持ちに素直になって、日下部くんの気持ちに応えることはやっぱり今も怖い。それでも日下部くんとなら、新しい世界を見ることができるのかな。あの日、逃げ出してしまった私たちの未来を、見ることができるのかな。
日下部くんの背中に、おそるおそる手を伸ばす。初めて抱きしめる日下部くんの体は、私が思っているよりも、ずっとずぅっと大きかった。
「日下部くん、好きだよ。その気持ちはずっと変わらないってことは覚えていてほしい」
静かに私の言葉を待っていてくれた日下部くんは、穏やかに「うん」と頷いてくれる。一度日下部くんから体を少し話して、頭一つ分ほど大きい日下部くんを見上げた。
「でも、やっぱり、すぐに『日下部くんと付き合う』とは決められなくて……だから、まずはお試しで付き合ってみない?」
「お試し?」
日下部くんが首を傾げる。
「そう。迷惑かけてしまうことが怖いっていうのがやっぱり一番だけれど、それ以外にも、私たちも中学生のころとは全然違うし、『こんなはずじゃなかった!』があるかもしれないでしょ」
だからお試しするの、と返す。それがないのが一番だけれど、十年近く離れて過ごしていたのだ。大人になって変わった部分もきっとたくさんある。日下部くんは納得しきれていないのか、不満そうに唇を尖らせた。
「数ヵ月一緒に住んでて、今更、『こんなはずじゃない』って思うことないだろ」
「あるかもしれないでしょ。友人として一緒に過ごすのと、恋人として一緒に過ごすのは全然違うと思うよ」
「それは……まぁ、確かにそうかもしれないけれど」
「少しだけお試し期間を作って、私が大丈夫だなって分かったら、すぐに日下部くんに伝えるから」
覚悟を決める時間が欲しかった。それはただ、決断することを先延ばしにしているだけかもしれないけれど。でも、私も、日下部くんと新しい景色を見たいから。そこがたとえ地獄であったとしても、一緒にその景色を眺めて美しいと思いたい。
「分かった。じゃあ、まずはお試しで付き合ってみよう」
嫌われないように努力すると続ける日下部くんに「私も」と返して、私たちは顔を見合わせて笑い合った。穏やかで心地の良い時間。中学生のとき、日下部くんと過ごす時間はいつもこんな気持ちだった。いつまでも、永遠に、この時間が続きますようにと、心の中で何度も何度も祈ったことを思い出す。そして今も、彼の腕の中で目を閉じて、強くそう願う。今度はこの時間を、失うことがありませんようにと。
「そういえば、熱、大丈夫?」
「また上がってきたかも」
「えっ!? ダメだよ、早くベッドに戻ろう」
日下部くんの体を押してベッドまで強引に押し戻す。ベッドに突き当たって、そのままベッドサイドに腰を下ろす形になった日下部くんは、大袈裟な、と笑ったけれど、その頬は赤いし額も熱い。無理やり挿した体温計はやっぱり38度後半を記録していた。
「日下部くん、夜、まだ何も食べてないでしょう?」
「ん? ああ、そういえば。家に帰ってから食べようと思ってたから」
「何か軽く食べて、薬飲んだほうが良いんじゃない? 何か取ってくるよ。さっき持ってきたのは落としちゃったし」
「別に落ちてるので良いよ。封が開いて、中身が落ちたわけでもないんだし。わざわざ取りに行かなくていい」
「でも、申し訳ないし……」
「俺は、祈里に傍にいてもらいたいんだけど」
それでもダメ? と日下部くんはイタズラっぽく笑って、日下部くんの前に立つ私を見上げる。上目遣いが大きな犬みたいで可愛い。って、そうじゃなくて。熱があるから? それとも大人になった日下部くんは、恋人になるとこうやって素直に甘えてくるような人なの?
「仕方ないな……」
甘い刺激に充てられて、赤くなってしまう顔を俯き隠しながら日下部くんの隣に座る。
「傍にいるから、少しでも眠ったほうがいいよ」
「そうする」
次は満足そうな笑みを浮かべて、今度こそ日下部くんは大人しくベッドの上に横になる。薄手のシーツを胸元までかけて目を閉じた彼を見て、思わず自分の口元が緩むのを感じた。日下部くんの長い前髪をかき分けるようにそっと触れてみる。くすぐったかったのか、「ふっ」と日下部くんは小さく笑い声を上げると、うっすらと目を開けて「なに?」と微笑んでくれた。私は首を横にゆっくりと振る。
「ううん、何でもない。おやすみ」
「うん、おやすみ。ありがとう、傍にいてくれて」
静かに夜が更けていく。明日から私たちの生活はどう変わっていくのだろう。
日下部くんに普通の女の子と思ってもらいたかった中学生時代の私が、今の私を見つめている。その不安そうな顔は、きっと今の私と一緒だろう。