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第二十四話 あの日の二人(2)

 日下部くんと過ごす時間は、私にとってとても穏やかで、心地の良いものだった。

 夏休みは学校近くの図書館に一緒に行ったり、日下部くんが招いてくれて、日下部くんの家で一緒に夏休みの宿題をして過ごしたりした。恋人の家に行くなんて初めてで、頭の中はとても宿題どころではなかったけれど。


 新学期が始まってからは、日下部くんが図書委員の当番の日は彼の仕事が終わるまで私も図書室で過ごし、それから一緒に帰るようになった。

 誕生日や好きな食べ物、好きな本や映画、得意な教科と苦手な授業、好きな先生と苦手な先生……いろんな話をして、日下部くんのいろんなことを知った。


 だけど私は、ずっと、自分の家の話だけはできなかった。

 父親が借金ばかりをして、暴力をふるい、母はそれに苦しんでいるなんて、とても言えなかった。心配をかけたくなかったし嫌われたくなかった。日下部くんの前だけでも、私は、普通の女の子でいたかった。


 暑さをいつまでも引きずっていた季節は、大きな台風が来ると、急速に秋の色を濃くし始めた。

 十月。中学三年生の私たちは、受験生であることを明確に意識し始めた。夏休みの前までは、これからの進路について友人同士でもその話題を牽制し合っている雰囲気があったのに、もうこの時期に試験を受けに行く子がいるからか、クラスのあちこちから進学希望先の話がよく聞こえてくるようになった。

 それと同時期に、私は、担任の先生に進路相談室に呼び出されることが多くなった。いつまでも進路希望を提出せず、進路をハッキリと口にしない私を、先生はとても心配しているようだった。だけれど、私には答えようがなかったのだ。高校に行けるかどうかは、全て父親の機嫌次第だと分かっているから。


 制服が合服から冬服に変わるころ。

「俺と同じ高校、受けようよ」

「え……?」


 いつもの帰り道。分かれ道の前で立ち止まった日下部くんの言葉を思わず聞き返してしまった。

クラスの人たちとは違い、私と日下部くんはこれまで一切受験の話をしてこなかった。私が避けていた、というのが正しいかもしれないけれど。


「あ……行きたい高校決まってるなら、もちろんそっちを受けて欲しいんだけど」

「えっと……」


答えに詰まる。私と日下部くんの成績に大きな差はなくて、日下部くんの志望校は問題なく受けることができるだろう。けれど、「そうする」と答えて、実際にそうできる保証がどこにもない。父親の顔がチラつく。楽しみだと期待が膨らめば膨らむほど、それが叶わなくなったときの絶望が大きい。あの日、日下部くんと映画を観に行く前のときのように。父親に投げ飛ばされた感覚。財布からお金を抜く父親の表情。ぐちゃぐちゃにされたお気に入りの服がフラッシュバックして胸が痛い。


「パンフレット渡すから、考えといてくれる?」


 通学カバンから出したパンフレットを、日下部くんが私へと差し出す。


「うん」


 受け取る手は震えていなかっただろうか。ハッキリと答えない私に、日下部くんは不安にならなかっただろうか。一緒の高校に行きたくないと思っていると、誤解を与えなかっただろうか。



 その日の夜、自室にこもり、受け取ったパンフレットを眺める。表紙には男女の学生が並んで立ち、爽やかな笑顔を浮かべている。中を開けば、楽しそうな学校行事やその様子がとても魅力的に書かれていた。


「一緒に通えたら、楽しいだろうな……」


 心の底からそう思う。目を閉じて、想像する。受験だって二人ならきっと楽しく乗り越えられる。高校生になったら、一緒のクラスになれるだろうか。背の高い日下部くんは、きっとこの高校のブレザーも格好よく着こなすのだろう。今は学ランだから、ブレザー姿も見られるなんて、なんて贅沢。

 自分の頬が緩んでいることに気付く。胸の中に熱いものが込み上げてくるのを感じる。


(私は、日下部くんとずっと一緒にいたい)


 父親には内緒で受験してしまおう。合格したら、何が何でも入学する。父に何をされても――。

 翌朝、パンフレットをカバンに入れて学校へ向かったはずだった。ここの学校を受けると先生に説明して、それから日下部くんにも話をしようと思っていた。けれど、学校に到着してカバンの中を見ると、それが入っていなかった。嫌な予感がして、その日は日下部くんにも何も話さず放課後を迎えた。

 一緒に帰る約束をしていた日下部くんに、「急用ができたから」と伝えて、走って家へと帰る。


 古いアパートの、回りにくいカギを開ける。扉を開ければタバコの香りがする。

 居間へと続く玉暖簾を手で払う。タバコの煙をくゆらせる父が、テーブルに肘をついて、珍しく本を読んでいる。その表紙には、昨日目に焼き付けた、男女の爽やかな学生の笑顔がある。


「お、父さん……」

「おー、祈里。帰ったのか」


 わざとらしい笑顔が、父の顔に貼り付いている。


「それ……」

「お前、この高校を受験するのか?」

「えっ……いや、そんなつもりは……」


 言葉が濁る。手のひらに嫌な汗が滲む。心のざわめきが苦しくて、スカートの裾をギュっと掴んだ。


「日下部くんが、受験するんだろ? ここ」


 勢いよく空気を吸い込んだ喉が、ひゅっと音を鳴らした。心臓が、止まってしまうんじゃないかってくらいドクンと一度、大きく拍動した。全身の血の気が一気に引く気がして、指の先が痺れる。


「な、んで……知ってるの……?」


 どうしてその名前を知ってるの。日下部くんのことなんて、一度も父に話したことはないのに。絶対に存在を知られたくなくて、徹底して隠してきたのに。


「娘の恋人なんだから、知ってるに決まってるだろう?」


 当たり前のことだろう、と、本当に当たり前のことのようにこの人は言う。気持ち悪い。胸とお腹の間、みぞおちの辺りがグッと強く押されているように苦しい。


「日下部くんは、随分と良い家に住んでるなぁ。ここらじゃ、一等地だろう」


 優しい母親に、金稼ぎが良さそうな父親がいて、と下品な声で紡がれる。


「可愛い恋人の父親が、困ってるって言ったら、助けてくれるかな?」

「絶対にやめて!!!!」


 叫んだせいで喉の奥がヒリヒリと痛い。

 父の手から、パンフレットを強引に奪い取る。ぐしゃぐしゃに折り曲げて、ごみ箱の中に叩きつけるようにして放り込んだ。

 息が乱れる。涙が溢れて止まらない。悔しいのだろうか。苦しいのだろうか。悲しいのだろうか。色んな感情が混ざり合って、頭が痛い。


「日下部くんは恋人でも何でもない! だから、それ以上、彼のことを探らないで! 絶対に関わらないで!」


 もうダメだとよく分かった。私は、私の幸せを望んではいけないのだと。幸せを望めば、大好きな人を……何より大切な人を、不幸にしてしまう。

 私はもう、日下部くんの傍にはいられない。



「昨日は急にごめんね」

「俺はいいけど。急用、大丈夫だった?」

「うん」


 翌日の放課後。学校からの、オレンジ色に染まる帰り道が、いつもより眩しく見える。


「あのさ、この前の受験の話なんだけど」


 一瞬、声がかすれた気がする。けれど、日下部くんは気付かなかったようで、「考えてくれた?」と私を見て首を傾げた。


「うん。あのね、あのとき、すぐにハッキリ返事ができなかったのには、理由があるの」

「理由?」

「うん。私、受けたい高校があるの。それで、そこに合格したら家から出る予定で……」

「他の県とかに行くってこと?」

「そう。離れることになるから、なかなか言い出せなくて……」

「あー……そういうこと。俺なら別に、遠距離でも、」

「私っ、私が無理なの!」


 食い気味に、日下部くんの言葉を遮るように言う。目の奥が熱くなって、気を抜いたらそれが全部流れ出てしまいそうで、一度奥歯を噛んで、大きな波がおさまるのを待つ。


「私が、無理なの。ごめんね? 遠距離恋愛とか、絶対に無理」


 私、そういう人間なの。と、笑って見せる。日下部くんは、唇を結んで、じっと私の顔を見ている。きちんと向かい合ったら全てを見透かされてしまいそうで、顔を逸らした。

 嫌いになって欲しかった。このまま嫌いになって、一生顔なんて見たくないって思って欲しい。


「だから、日下部くんとは今日、もうこの場で別れたい。私も受験勉強頑張りたいし。日下部くんも私なんかと遊んでないで、勉強本腰入れたほうがいいよ」

「祈里……」

「数ヵ月だったけど、楽しかった。ありがとう、私のこと好きって言ってくれて」


これだけは本当。他県の高校なんて受験しないけれど、中学を卒業したら、私はこの町から消えて、日下部くんに一生会わないようにする。だから……。


「ちゃんと、幸せになってね」


 繋いでいた手を離す。

 日下部くんには本当に幸せになってもらいたいから、私はこの手を離す。

 どうか、どうか、日下部くんにたくさんの幸せが訪れますように。

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